南烏山
『珍しいですね、奥様が私をわざわざお誘いになるなんて』
『たまにはいいものでしょ、私と二人で飲むってのも。昔を思い出すわよね』
そんな話をしながら、グロリアとパトリックは二人連れ立って新宿発の京王線急行に乗り込んだ。
ヘレナの姿はない。今日は勉の娘さん家族に連れられて、渋谷の街に買い物に行くのだという。新しい服を欲しくなるのは、どの世界の娘も一緒だ。
平日の夕方の頃、新宿から東京市部に向けて帰宅する会社員も多く乗り込む京王線急行はなかなかの混雑だ。いわゆる、帰宅ラッシュである。
パトリックは不安そうな表情で、傍らに立つグロリアの小さく折りたたまれた背の翼を見ていた。人間には存在しない器官ゆえ、どうしても目立つし、邪魔にもなる。
グロリア自身も思うところはあるようで、何も言わずにただただ黙って身体を小さくスペースに収めようとしている。
そうして満員電車に揺られること十数分。千歳烏山駅に到着し、降りる人波に乗せられて流されるようにして、竜人の身体が車両の外に吐き出される。
彼女を追いかけるようにして電車を降りたパトリックが、服の裾を整えながら同じくブラウスの襟元を直す主人を気遣うような視線を向けた。
『流石はトウキョウの満員電車でございますね』
『やっぱりこれは、
『そもそもの利用者数が桁違いでございますから』
そんな話をつらつらとしながら、グロリアとパトリックは駅の改札を出ていく。慣れた手つきで交通系ICカードをピッとタッチ。
異世界人と言えどもこのご時世、スマートフォンと交通系ICカードが無いと、首都圏ではなかなか動けない現実がある。グロリアのようにあちらこちら移動する理由があるなら猶更だ。
千歳烏山の駅舎を出て、烏山の街に歩みだす二人が探すのは勿論居酒屋。それも日本酒の美味しい居酒屋だ。二人揃って日本酒好きなので、どうしてもそういうセレクトになる。
駅前のブロックをゆっくり歩きながらお店を探すグロリアとパトリックが、二人揃って一つの店の前で足を止めた。
『フム……いい店構えでございますね。奥様、いかがでしょう?』
『ええと……ここね。うん、見る限り日本酒の品揃えもよさそうだし、雰囲気もよさそうだわ。入りましょうか』
スマートフォンの画面から顔を上げたグロリアがそう告げて、二人共にこくりと頷くと、店のガラス戸をぐっと引いた。カラン、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませー」
「二名、入れますでしょうカ」
「かしこまりました、カウンターでもよろしいですか?」
パトリックの言葉ににこりと笑顔を見せて応対する店員。ちら、とパトリックがグロリアに視線を送ると、グロリアはこくりと頷いた。
「大丈夫ヨ、むしろカウンターの方が有り難いワ」
「かしこまりました、こちらへどうぞ」
有り難い、というその言葉に一層の笑みを浮かべ、店員が二人を店内へと案内する。既に入店している客は食事やら談笑やらに集中しているためか、グロリアやパトリックの姿を見ても騒ぐ様子はない。
むしろホールの店員や、厨房の店員の方が驚きに目を見張っていた。厨房の正面に立つ店員などは、自分の真正面の席にグロリアが座ったものだから、せわしなく視線を目の前の竜人の貴婦人に向けている。
そんな視線など最早意識するまでも無いという風に、グロリアはカウンター上に置かれたメニューを手に取った。日本酒の欄を、さっと目を通した彼女が小さく目を見張る。
『あら、隠し酒。いいわねー、何があるか聞いてみようかしら』
『いいですね、私も気になります』
「ご注文はお決まりですか?」
二人で額を突き合わせてメニューに視線を落としていると、おしぼりを二つ乗せたトレイと共に店員が声をかけてくる。温かいおしぼりを受け取りながら、グロリアはメニューの一点を指さした。
「今日の隠し酒って、何があるカシラ?」
「ええと……店長に伺ってまいりますので、少々お待ちください」
数瞬手元に視線を落とした店員が、すっと頭を下げつつ厨房に下がっていく。しばらくして、先程の店員とは別の、恐らくは店長と思われる壮年の男性が、日本酒の一升瓶を三本持ってグロリアとパトリックの座る席に近づいてきた。
そして、そちらに視線を向けたグロリアが大きく目を見開きつつ息を呑む。
「アッ……!」
「お待たせいたしました、こちらの三本が本日の隠し酒となります。
左から神奈川の
店長の男性がカウンターの上に、トン、トン、トン、と三本の一升瓶を並べて置く。花陽浴の純米吟醸、白隠正宗の夏限定純米酒、龍力の特別純米。いずれもいい酒だ。
だが、グロリアの視線は店長の姿を認めてから、一本の瓶にのみ注がれ続けている。
瞳をキラキラさせて店長の説明に聞き入っていたグロリアが、もう我慢ならないとばかりに隣に座るパトリックの肩を叩いた。
『ちょっとねえ、パトリック、私どうしましょう。まさか今日というこの日に龍力が飲めるだなんて! 幸せ過ぎてどうにかなっちゃいそうよ!』
『奥様は日本酒の中で、龍力が一番好きでいらっしゃいますものね。幸運に恵まれました』
興奮を抑えきれない主人ににこりと笑いかけると、パトリックは一升瓶を持って来た店長へと視線を向ける。
「デハ、龍力と花陽浴ヲ一合ずつお願いシマス。それト、これらに合わせるのにオススメのお料理は、何かありますカ?」
ニコニコと笑みを湛えながら主人の喜ぶ様子を眺めるパトリックが、店長に料理のメニューを示しながら問いかけた。
日本酒飲みとしては外せない問いを投げられた店長が、メニューに視線を落とし、ふっと天井を見上げて指を立てつつ口を開く。
「花陽浴でしたら、この時期はとうもろこしのかき揚げ、鮎の唐揚げなんかがいいですね。
龍力ですとこの時期は南瓜のサラダと、地頭鶏のたたきをお勧めします」
「デハ、今お話に挙がったそれらを一つずつ。それト御新香盛り合わせモお願いシマス」
「かしこまりました」
注文内容を伝票に書き留めた店長が一礼し、白隠正宗をしまいつつ片口とお猪口を取りに厨房へと戻っていく。その間、椅子の背もたれの下から伸びるグロリアの尻尾が、犬が嬉しい時にそうするようにぱったぱったと左右に揺れていた。
『ウッフッフ~、龍力、龍力~♪』
『奥様、楽しみなのは分かりますが。もう少し落ち着いてください。大事な尻尾が店員さんに踏まれたらどうなさるんですか』
『だってあれよ、久しぶりなのよ龍力飲むのは。最近は全然置いてあるお店を見つけられなくて、欲求不満だったんだから』
不満げに、細かい青い鱗に覆われた頬を膨らませてみせるグロリアを見て、パトリックがくすりと笑みを零した。こういう年齢不相応な少女らしい振舞いも、またグロリア・イングラム=アータートンという女性の魅力的なところだと、彼は思う。
古都フーグラーを治める領主であるアータートン伯爵家の一員という、その重い立場から見れば、尋常ではないほどの行動力と思い切りの良さ、そしてこういった気安さ。いずれも並の
やがて店長が一合用の小さい片口を二つ、黒い陶器製のお猪口を二つ、持ってきてカウンターの上に置いた。まずはグロリアの前に置いた片口の場所を整え、龍力の一升瓶の栓を抜く。ふわりと濃い酒の香が、グロリアの鼻腔をくすぐった。
次いでお猪口を片口の下に据えて、片口へと一升瓶の口を傾けていく。とくとくと注がれていく日本酒。さらにふうわりと香ってくる特別純米酒らしい米のふくよかな香り。やがて、片口の注ぎ口から溢れた酒が、真下のお猪口へと注がれゆく。
「アァ……!」
「オォ……」
感嘆の声が二人の口から漏れる。
そして程なく、お猪口が満たされるすんでのところまで日本酒を注いだ店長がくい、と瓶を持ち上げると、お猪口がいっぱいに満たされたそのタイミングで片口から注がれる酒の線が切れた。
見事な手腕に、思わずグロリアの手が二度三度と叩かれる。
「オ見事!」
「素晴らシイ」
「ありがとうございます。それでは花陽浴の方も、失礼いたします」
小さく頭を下げつつ龍力に栓をした店長が、次いで花陽浴を開栓。パトリックの前に据えた片口とお猪口に、同様にギリギリのギリギリまで注いでいった。
注ぎ終わった後、日本酒の一升瓶を両手に持って厨房に戻っていく店長の背中を見送って、グロリアとパトリックは再び顔を見合わせてにこりと笑った。
お猪口にすっと顔を寄せて、表面張力が働いて盛り上がっている日本酒の表面を吸うように、酒を迎えていく。
そうして酒の目嵩が減ったお猪口を、二人はそうっと持ち上げた。
「いいお酒、いいスタッフ、最高ネ」
「全くデス。それでは、今日という日の幸運ニ……
「
くい、と軽く掲げられたお猪口。中の日本酒がたぷんと揺れて、縁を超えるか超えないかまでせり上がる。
そして手元に引き戻したお猪口を二人揃って口元に運ぶと。
ぐいっと大きく、呷ってみせたのだった。
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