脇田町
所沢で飲んでから、一週間も経たないうちに。
グロリアは川越にいた。
日本という国から歴史都市に認定されるほど、歴史的建造物、寺院や神社、古い建物が多く現存する川越は、古くからの城下町として有名だ。
それでいて東武東上線とJR川越線が乗り入れる川越駅は埼玉県内第二位のターミナル駅として知られ、近傍に位置する西武新宿線終着駅の本川越駅や東武東上線川越市駅とも合わせると、一日の乗降者数は三十万人ほどにも達する。
そんな、新しいものと古いものが共存している街の居酒屋で、グロリアは酒杯を傾けていた。
彼女の供をするのは、新緑の鱗をした壮年の
「わざわざ川越までご足労いただき、ありがとうございマス、グロリア様」
「いいのヨー、私が来たくて来たんだし」
グロリアの手の中で空になったぐい飲みに片口から日本酒を注ぎながら、彼女へと微笑みかけるユアン。そんな彼へとグロリアも微笑みを返しながら、日本酒で満たされたぐい飲みをテーブルに置いた。
そのまま流れるようにテーブル上にユアンが置いた片口を取り、彼の方へと注ぎ口を向ける。言外の意図を察したユアンがくいと自分のぐい飲みを干すと、そこにグロリアが日本酒を注いでいった。
二人揃って、何とも堂に入った飲みっぷりである。人間ではなく、
揃ってぐい飲みを傾け、はーっと長い息を吐いた二人が笑顔を見合わせる。
「
「この川越市で造られている日本酒なのですヨ。平成になってから出来た蔵なのですが、人気が高いんです」
既に空になった片口を手に持って、ユアンがにっこりと笑みを浮かべる。
鏡山自体、2000年に廃業してしまった銘柄だ。それが川越市民の惜しむ声によって復活したのが2007年。以来、小規模な酒蔵であることを活かしていい酒を醸しているのである。
かつて形を失ったものが、新しい姿で復活して今に形を残す。
それは何とも、時代の流れを感じさせて、時代に負けない形を作るようであって。
グロリアはその酒蔵がこれまで歩んできた道のりや苦難を想って、すっと目を細めた。
「それにしても、グロリア様がそこまでお酒に精通していらっしゃる方とは思いませんでしタ。もう少し、高いお酒を好んで味わわれるものとばかり」
「私何だかんだデ安酒もよく飲むワヨ。ビールもワインも日本酒も焼酎も。ドルテでもマー名産の白ビールをガンガン飲むしネ」
そんなことを言いながら、グロリアは微笑みを零しつつぐい飲みの中の酒をぐっと飲みほした。
実際、彼女は色々な酒を飲む。安い酒も、高い酒も、等しく愛するタイプの酒飲みだ。こうして飲み歩く場面ばかり取り上げられているが、缶の発泡酒やらチューハイなんかもニコニコして飲むほどである。
彼女の故郷であるマー大公国は小麦の生産が盛んである故、酒と言えば大概が小麦を使った白ビールなのだが、そのビールも喜んで飲んでいるのが彼女である。
そんな具合で空になったぐい飲みをひらひらと揺らしながら、グロリアが一層その目を細めて口を開いた。
「というか、私も貴方も同じ
家の立場で言えばマート=ニューウェルの方が上デショ。アータートンはマーの一地方の領主家でしかないノヨ」
「いえいえ、そんなことは。甥っ子がお世話になっている手前、無下には扱えませんトモ」
片手をひらひらと顔の前で振りながら、ユアンは目を見開きつつ答えた。
そうして口を動かした後に、ふぅと溜め息を吐きながら頬杖をついて見せる。その表情には憂いとも郷愁とも取れない、複雑そうな感情が見て取れた。
「元老院議員、アダルバート・マート=ニューウェル。その四男、クリフォード。彼がグロリア様のクラスで教えを受けていると聞いた時には驚きましタ。
日本に迷い込んだ私と違い、自らの足で日本に来ようとしているとは……時代は変わったものですネ」
「そうネ、時代は変わったワ。日本もそうだシ、ドルテもそう。
知られていなかった互いの世界ガ、今こうして互いに交流を持とうとしてイル。
私の舅も大体、ユアンサンと同じくらいの頃合いカシラ、
「なんと。是非ともお会いしたかったものです……いえ、どこかでお会いしていたのかもしれませんガ」
グロリアの言葉に改めて目を見開きながら、手元のぐい飲みを両手で包むユアンである。
実際、地球とドルテという二つの世界の間での人の行き来は、昔からなかったわけではない。どのくらいの昔からあったのかどうかまでは定かではないが、確かに記録に残っている中では西暦1970年代に、ドルテから地球に転移して、またドルテに戻っていったという話が書籍にまとめられている。
もっと古くにそういう話があったことも容易に想像は付くが、記録が残っていないと何とも言えない部分はあるので、そこは置いておこう。
この、グロリアの話す舅というのが後のマー大公国アータートン領の第六代伯爵であるということも、記録が残るのに大きな意味合いを持ったのだろう。立場のある人間の突然の行方不明は、言ってしまえば大事件だ。
グロリアの話を聞きながら、ユアンはすっと目を細めた。悲し気な色合いを帯びた琥珀色の瞳が、きらりと光る。
「私は日本で四十四年生きてきて、日本という国の変化を目の当たりにして、この身で感じてきましタ。
私のような異人種に対しての風当たりも弱まったと感じますし、だいぶ受け入れの態勢が整いつつあるのを感じマス。
気軽に双方、行き来が出来る仕組みが無いのが残念ですが……」
そう話すユアンの言葉に、グロリアは口をつぐんだまま視線を外せずにいた。
彼女自身、結構頻繁にドルテから日本に移動して、また日本からドルテに帰っていっている身ではある。
それでも自分の好きなタイミングに移動できるわけではないし、タイミングを逃したら次はいつ帰れるようになるかも分からない。更に言えば次に帰れるようになるまでに、ドルテでどれだけの時間が過ぎるかも分からない。
日本から地球のどこかの国に移動するように、同じ時間軸の中で動いているわけではないというのが、そもそもからして大きな障害なのだ。
しかし、それでも。グロリアはゆっくりと、噛み含めるように言葉を紡ぐ。鞄から愛用のスマートフォンを取り出しては、ヒラヒラと握った手を動かした。
「それデモ、行き来が出来ないわけじゃないワ。
アメーリカのジャック・ハントが開発している、切り替わりのタイミングを予測シテ通知してくれるアプリ、聞いたことアル?
これがあれバ、だいぶ確度高めで世界ノ切り替わりに居合わせられるワヨ」
「そんなアプリが出ていたのですか……寡聞にして存じませんでしタ」
グロリアの言葉に、目を見開いて答えるユアン。その瞳の色には、帰るにあたっての希望が見えたというよりは、そんな手段があったのかという驚きの方が強く見えた。
その反応に、少しだけ悲し気な思いをにじませながら、彼女は既に空になった片口を覗き込んだ。
「アラッ、もう片口空っぽダワ。ねえユアンサン、サイタマのお酒で他にいいのないカシラ?」
「ム、そうですね……私としては
あぁ、
日本酒のメニューを手にして地酒の銘柄を確認したユアンが、さっと手を上げる。
すぐさまに近くにいた店員が近寄って来ると、伝票を手に取って口を開いた。
「ご注文ですか」
「神亀を二合。ぐい飲みは今のを使うので、そのままで結構デス」
「かしこまりました」
相変わらずの淀みない日本語でそう告げるユアン。店員が一礼してカウンターを離れ、日本酒の納められた冷蔵庫に向かう様を見ながら、グロリアは静かに声を発した。
「ユアンサンは……やっぱり、その様子を見るニ、ドルテに帰ろうという気は無い、のヨネ?」
「エェ、今更私が帰ったところで、何か利点があるわけでもありませんし……それに、私はこちらの世界に、居場所がございますから」
「……」
口元に手を持って行きながら、これまた静かに告げるユアン。
その物静かながらはっきりとした物言いに、何とも言えない寂しさを感じながら、グロリアは店員の運んでくる神亀の一升瓶に視線を移すのだった。
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