仲町

 ある日の夜。

 グロリアはJR浦和駅のすぐそばにある大規模チェーン居酒屋の、二名がけのボックス席で、一人生ビールのジョッキを傾けていた。

 今は、自分の後を追ってくるヘレナも、自分に心配そうな視線を送ってくるパトリックもいない。文字通り、一人だ。

 そんな最中に、誰かを待つようにして静かにビールを飲み進める彼女の前の席に、どかっと座る人物が一人。


「待たせたな」

「イイエ」


 言葉少なにそう告げるのは、元樹だ。警視庁の制服姿でも、いつものくたびれたジャケット姿でもない。今日は、非番なのだろう。

 テーブルの上のメニューに手を伸ばしながら、既に空になったお通しの小鉢と、半分以下になったグロリアの手の中にあるジョッキをチラと見て、元樹は小さくため息をついた。


「さっさと飲んでいやがって……何杯目だ、それ」

「まだ二杯目ヨ、心配することは無いワ」

「……チッ」


 涼しい顔でそんな言葉を返すグロリアを見て舌を打ち、メニューにざっと視線を走らせる元樹。その表情はいつも通り苦々しい。

 ドリンクメニューと料理メニューの最初の方だけを見て、手の中のそれを元の位置に戻した元樹が、呼び鈴を押した。やって来た店員に視線を向けつつ告げる。


「生ビール、中ジョッキを一つ。あとホットチリポテト一つと、炙り〆鯖をレギュラーで」

「かしこまりました」


 注文をハンディに打ち込んで、一礼して去っていく店員からすぐに視線を外した元樹が、真正面に座るグロリアに不審そうな視線を向けた。何とも得心のいかない顔で、淡々と言葉を投げかける。


「で? わざわざサシで俺と話があるなんて、どういう風の吹き回しだ、ドラゴン女」


 生ビールをぐびり、ぐびりと飲みながら、元樹の言葉に耳を傾けるグロリアだ。程なくして空になったジョッキをテーブルの上に静かに置くと、彼女はまっすぐに元樹を見つめ返して、言った。


「モトキサンは、埼玉の竜人・・・・・について、話を聞いたことはアル?」

「埼玉の……?」


 いつになく真剣な、真面目な表情をしたグロリアに、一瞬だけ瞠目しながらも元樹は首を捻った。

 埼玉の竜人。

 脳内で反芻し、視線を巡らせながら記憶をたどった後、小さく首を振る。


「初めて聞いた。それが、どうかしたのか」

「私モ最近会ったばかりなんだけどネ、大宮に住んでいる、私と同じ竜人族バーラウの男性がいたノ」


 返された答えに、元樹は今度こそ大きく目を見開いた。息を呑んだ音も耳に届いた。

 俄かには信じがたい話に、思わず身を乗り出す元樹。テーブルについた手に触れた、店員が運んで来たばかりの生ビールのジョッキが、チンと音を立てる。


「お前と……同じだと? つまり、お前のやって来た世界から、別の奴が来ていたということか?」

「こっちに来たのハ、もう四十年以上も前らしいけどネ。ずっと日本で生きてきて、学校に通ったり、仕事に就いたりしていたそうヨ。

 本人のインスタのアカウントもあるのヨ。見る?」


 自身のスマートフォンでInstagramのページを開いて差し出すグロリアだ。元樹がそれを受け取るのを確認すると、運ばれていった空のジョッキの代わりを探し始める。

 やがてグロリアが三杯目の生ビールを店員に注文した頃、元樹がため息をつきながらスマートフォンを返してきた。


「これは……確からしいな……信じられん、なんで今まで警視庁に情報が回ってこなかったんだ」

「多分、ユアンサンが埼玉県から殆ど出てこなかったから、でしょうネ。東京に行ったノ、数年前に仕事のセミナーに参加するためニ行ったのが、最後だって言ってたカラ」


 スマートフォンをテーブルの上に置き、頬杖をついたグロリアがうっすらと目を細める。

 ユアン曰く、日常生活は埼玉県の中で完結しているのだそうだ。職場も県内、飲みに行く先も県内。県外に出かけることもほぼ無い。昔はパソコン用品を購入するために秋葉原まで出かけることはあったそうだが、通販が発達した現在ではそれもなくなったらしい。

 店員が生ビールを運んで来たのに小さく礼をしたグロリアが、小さく下を向く。


「それに、私と違ッテ、ユアンサンは四十年以上も前に日本ジャポーニアに来テ、ずっとこっちで生活している。私みたいに行ったり来たりシテ、突然いなくなったり現れたりしていないワ。

 だから、世間の人もそんなに騒がないんでしょうネ。そこにいるのが当たり前・・・・なんだモノ」

「そうか……確かにな。

 お前はいろんなところに神出鬼没に現れては人の目に触れている。訪れる場所が人の多い場所だから、情報の拡散も早い。そもそもお前自身がSNSでガンガン情報を発信しているだろう」


 生ビールをぐいと飲みながら毒づく元樹に、小さく笑みをこぼしながらグロリアがジョッキに手を付けた。

 あちらこちらに出歩き、その出歩いた先で居酒屋で飲んだくれて、人々との交流を積極的に図りに行くグロリアはどうしたって目立つ。反面、自身の行動範囲が明確に定まっており、ある意味で慎ましく穏やかに生活しているユアンは、地域に溶け込んでいると言えるだろう。

 如何に異形の存在と言えど、昔からずっとその地で暮らしているとあれば、受け入れられていくものだ。

 そこまで話が進んだところで、ジョッキをテーブルの上に戻した元樹が口元を手の甲で拭った。細めた目をグロリアへと投げかけてくる。


「で、それはいいとしてだ。お前、何が言いたい?」


 元樹の単純明快な問いかけに、グロリアのビールを飲む手が止まった。

 すっと目を細めた彼女は、傾けたジョッキを元に戻して口から離した。そのままテーブルに静かに置くと、徐に目頭を指先で押さえ始める。

 明らかに思い悩んでいるその表情に、訝しげな表情になる元樹。

 沈黙が流れるテーブル席に、店員が短く声をかけながらポテトフライを置いていった後。


「……モトキサン」

「あん?」


 小さく口を開いて言葉を投げかけたグロリアに、元樹が僅かに首を傾げると。

 ようやく顔を上げた彼女が、その瞳に不安の色を湛えながら言葉を発した。


「私の子供達ヤ、教え子達ガ何人も、日本ジャポーニアに来たい、住みたいって言っているノ。

 こっちの政府にも私達の世界の存在が認知されテ、互いに人の行き来が始まる気運が高まっているワ。

 それでも、私はやっぱり不安ナノ。私達の世界の人々が日本ジャポーニアや、アメーリカにやってきて、幸せに過ごして、暮らせるのだろうかッテ」


 グロリアが打ち明けた思いの丈に、元樹が返したのは沈黙だ。

 何も言わず、ポテトフライに箸を伸ばしては静かに食んでいく。

 そして、三本目のポテトフライを飲み込み、ビールを喉に流し込んだ元樹が、ようやく口を開いた。


「……結局は、その竜人と同じように、こっちの世界に馴染もうと努力しているかどうか、だろう。

 逆の場合だってそうだ、お前たちの世界に地球の人間が行って、定住しようと思ったとして、そっちの世界に馴染もうとしなけりゃ異物として排除されるだろ」

「エエ……そうネ」


 そこまで話して、再びぐいとビールを呷る元樹に、頷きを返すグロリアだ。

 確かに、その世界に飛び込んで生きていくのなら、その世界に溶け込む努力をしないとならない。郷に入っては郷に従え、と有名なことわざが日本にあるではないか。

 事実、グロリアはどこまで言っても異邦人だし、そうあろうとしていた。彼女はドルテに帰る場所があるし、待つ人がたくさんいる。必要としてくれる人も多くいる。

 日本に馴染むわけにいかない・・・・・・・・・・彼女に、元樹は言葉を重ねていく。


「それにお前、それを言いだしたらレストンさんはどうなる。

 お前同様人間離れをした見た目をしながら、日本のために、世界のためになるようにと、自分達の世界のことをどんどん発信している。あんなに献身的な働きをするやつが、この国に受け入れられていないと思うか?」

「……そう、そうネ。パーシーはよく頑張っているワ。だからこの国の政府にも認められて、仕事を出来ているのだモノ」


 言葉を浴びせられたグロリアの視線が、どんどん下へ下がっていった。

 事実、パーシーは日本という国にしっかり受け入れられ、溶け込んでいる。それは彼女にもよく分かっていることだ。

 日本語が堪能だからというわけでも、その性格の良さでもない。彼が献身的に、人々の為、国家の為に働いている姿を、皆が見ているからだ。

 すっかり俯いたグロリアの額へと、徐に元樹が手を伸ばす。とん、と額の鱗を指で突いて、顔を近づけながら彼は言った。


「だから、心配すんな。真面目に、ルールを守って生きている奴らを、この国の人々が排斥したりはしない。

 だけどな、そのルールはちゃんと教えてから送り出せよ。お前らの世界にもお前らの世界のルールがあるだろうが、そこの擦り合わせが出来てない中でトラブル起こされても、面倒事にしかならねえんだぞ」

「……そうネ……アリガトウ」


 まっすぐに、近い位置から自分を見つめてくる元樹に、顔を上げて目尻を下げるグロリア。その目の端には、きらりと涙が光っている。

 小さく顔を背けながらバッグに手を突っ込むグロリアに、元樹が無言でペーパーナプキンを差し出した。受け取って目尻を抑える彼女を見て、身体を戻した元樹が背もたれに身を預けながら息を吐いた。


「……お前も、人間らしく悩むことがあるんだなぁ」

「何ヨ、人を化け物か何かみたいに言わないで頂戴。私だってれっきとした『人間・・』なのヨ」


 涙を拭ったペーパーナプキンを手で握りつぶしながら、グロリアが元々尖った口元をさらに尖らせる。

 そうして再び酒を飲み交わす時間が始まって、浦和の夜は更けていくのであった。

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