Epilog

赤羽

 ある日曜日の昼間。

 赤羽駅前の居酒屋にて、グロリアがヘレナとパトリックを伴って昼酒としゃれこんでいた最中のことである。


『んー、焼き鳥美味しいー♪』

『ここの店はいい具合ですね、チャーシューのお味もなかなか』

『どうします奥様、もう食べ物は全部来ましたけれど……』

『そうね、そろそろ追加で何か――』


 そう言いながらグロリアがメニューに手を伸ばそうとした瞬間である。

 ブーッ、ブーッというバイブ音と共に、テーブルに置かれたグロリアのスマートフォンが震えだした。

 途端に、三人が揃ってスマートフォンの画面を見つめた。通知欄に表示されている英語の文章を開くと、立ち上がるのは世界が切り替わるのを予測する件のアラームアプリ。

 普段は何も表示されないアナログ時計に針が表示され、その上に「59:59:40」というデジタル時間表示が出ている。秒数は一秒ごとに減少しているため、カウントダウンであることは容易に想像が付く。

 顔を上げた三人の視線が交錯すると。

 ヘレナとパトリックの箸がテーブルの上に残った料理に、グロリアの手が椅子の後ろに置かれたバッグに素早く伸びた。ドルテ語で鋭く言葉を飛ばし合っている。


『切り替わるわ! 急いで!』

『注文する前のタイミングでよかったです!』

『奥様、先にお会計をお願いいたします! スマートフォンもお忘れなきよう!』

「スミマセーン! お会計お願イー!」


 スマートフォンを片手に掴み、バッグの中に放り込んだグロリアが、伝票を持ってレジへと駆けていく。

 突然慌ただしく動き始めた異邦人たちに、店内の客も店員も一様に目を丸くしていたことを、彼女たちは知らない。




 店を飛び出し、電車に飛び乗り、マンスリーマンション最寄りの板橋区役所駅に着いてから。

 グロリアはずっとスマートフォンを耳元に当てていた。


「モシモシ、不動産屋さん!? ハイドレンジア板橋の203号室ニ入居しているアータートンですケド、急に国に帰らなくちゃいけなくなったのネ!

 ソウ、解約! 申し訳ないけどお願いできるカシラ!? もし手続きに不足があるようナラ、代理人にお願いするケレド……大丈夫!? アリガトウ!」


 足早にマンションへと向かいながら、早口でまくし立てるグロリア。既にヘレナとパトリックはマンションに向かって荷物をまとめている。彼女がマンションに着く頃には、荷造りを終えて外に出ていることだろう。

 不動産屋には突然の解約で申し訳ないとは思うけれど、兎にも角にも時間的猶予がない。あと三十分と少しで世界が切り替わる。それまでに神保町の湯島堂書店に行かなくてはならないのだ。神保町に都営三田線が通っているから、板橋区役所から一本で行けるのが非常に助かる。

 そうして歩きながら解約の手続きを終えて、マンションのエントランスに到着したグロリア。まだヘレナとパトリックは戻ってきていない。

 スマートフォンの画面にアラームの画面を表示させて、一秒一秒と進むカウントダウンを見つめながら、グロリアは考えた。


 勉には赤羽の店を出た時から連絡を入れている。実里は同じアラームアプリを使っているから切り替わりは察知していて、先程メッセージアプリで見送りに行く旨を伝えてきた。

 パーシーと綾人からは直接メールが届いている。綾人は仕事が終わった直後とのことで見送りには来られないそうだが、「体調と酒量に気を付けてお過ごしください」との言葉が届いていた。

 TwitterとInstagramに先程投稿した「故郷に帰ります」という投稿に対しても、知人や友人からコメントが送られてきた。中には何人か、「見送りに行きます」というコメントを付けてくれている人もいるが、あんまり大勢になっても良くないし、転移に巻き込む危険性もあるだろう。

 他にも、SNSを通じて知り合った人々、グロリアをどこかで見かけたことのあるらしい人々から、数多くのコメントが届いている。随分と自分の存在は知られていたものである。

 元樹や竜介にも電話を入れておいた方がいいかもしれないが、仕事中だったら申し訳がない。竜介はそもそも距離的に間に合わないだろうが。彼らにはメールで一言、異世界に帰る旨を伝えておくとしようか。

 そして、もう一人。


『(ユアンさん……いえ、彼の居場所はここなのだもの。でも一言だけでも何か……)』

『奥様、お待たせしました!』


 どうしようか、何かメッセージを送ろうかと逡巡する彼女の耳に、パトリックの声が飛び込んできた。声のした方に頭を向けると、グロリアの旅行カバンとそれぞれのバッグを手にしたヘレナとパトリックが息を切らしている。


『すみません奥様、思っていたより荷物が多くて……』

『お部屋の鍵は、ポストに入れておくのでよろしかったですよね?』

『え、ええ、そうよ。ありがとう二人とも、急ぎましょう!』


 頷きを返して、パトリックがポストの中に部屋の鍵を放り込むのを確認すると、彼女は自分の鞄をヘレナから受け取るや、マンションのエントランスを飛び出した。

 板橋区役所前駅まで駆け戻りながら、そっと目を細めて思考を巡らせる。


『(彼にも、メールを送りましょう。折角知り合えたのだもの、何も言わずに帰っていくのは申し訳がないわ。

 ごめんなさいね、地球の皆……私の居場所は――私が生きると決めた場所は、ここじゃないから。でも、日本も、確かに私が生きていける・・・・・・場所だから)』


 駅の入り口に飛び込んで、交通系ICカードを改札に押し付けるようにタッチ。ピッという電子音を置き去りにして、グロリア達三人はホームで口を開ける電車の乗降口に駆け込んだ。




 千代田区神田神保町。靖国通り沿いに店を構える古書店、湯島堂書店の前で。

 十数人の人々が、店の中に入ることなく靖国通りの歩道に固まってその時を待っていた。

 ともすれば野次馬のような人々を押し留めるようにしながら、一人の老人と一人の女性、一人の狼獣人が不安そうに顔を見合わせている。


「なかなかいらっしゃらないですネ、奥様……」

「三十五分発の電車には無事に乗れた、と連絡はあった。遅延しているとも聞いていないんだがねぇ……」

「あと五分ですよ。間に合うんでしょうか……」


 パーシーが不安げに辺りを見回すと、勉も実里も手元のスマートフォンに視線を落とした。

 このタイミングで電車の遅延だの、道中のトラブルだので彼女たちの世界への帰還を逃しては泣くに泣けない。なんとしても、あと五分の間に店のに居てもらわなくてはならないのだ。

 嫌な予感が頭の中によぎった、その瞬間。


「来たぞ!」

「グロリアさんだ!」


 野次馬が口々に、道の先を指さしながら声を上げた。

 三人が一斉にそちらを向くと、確かにこちらに向かって全速力で駆けながら、大きく手を振る藍色の鱗を持つ竜人族バーラウの貴婦人がいるではないか。


「皆、オ待たせ!!」

「「グロリアさん!!」」

「奥様! よかった……」


 実里が、パーシーが、勉が揃って表情を明るく輝かせた。走るスピードを落としたグロリアは湯島堂書店の前で足を止めると、肩で息をしながら膝に両手をついた。後からヘレナとパトリックも追いかけてくる。

 滑り込みセーフだ。


「ハー、ハー……ま、間に合っタ……モー、まさか神保町の改札で退場処理ミスって足止め食らうナンテ……」

「実に不運でございましタ……でも間に合いましたヨ、奥様」


 肩を上下させながら、パトリックがグロリアの背中をポンと叩いた。ヘレナは最早声も出せない。

 そんな三人に、歓声を上げる野次馬たち。今まさに帰ろうとする貴婦人を出迎えては、視線を湯島堂書店の中へと向けていた。

 本当は、彼らもグロリアと話したり、別れの挨拶をしたりしたいだろう。しかし如何せん、時間が時間だ。

 苦笑しながら書店の入り口の扉を開けて、勉がグロリア、ヘレナ、パトリックを迎え入れた。中に入り、そのまま床の上にへたり込む三人。

 これはしばらく立ち上がれそうにないだろう。勉はお茶を取りに、店の奥へと引っ込んでいった。

 そんな醜態をさらす貴婦人を、困ったような視線で見つめる実里とパーシーは店の外だ。勉と違い、二人の居場所はこちら側。あと数分もしたら別々の時間が動き出す。

 店の外に立ったまま、店内で尻もちをつくグロリアを見つめて、実里とパーシーが笑いながら声をかけた。


「グロリアさん、また今度こっちに来たら、一緒に美味しいお店行きましょう!」

「奥様が次にいらっしゃるまでに、お酒の美味しいお店をリサーチしておきますカラ!」


 にこやかに笑って手を振る二人の後ろから、野次馬も次々に別れの言葉を投げかけてくる。


「さようなら、お元気で!」

「今度はお食事をご一緒しましょう!」

「お土産渡せなくてすみません!」


 残り僅かな時間を目いっぱいに使って、その時が来るまで。彼らはグロリアとの別れを惜しんだ。

 その言葉に、見送り方に。胸の奥から何かが込み上げてくるのを感じながら、グロリアが手を振った。そして。


「皆、わざわざ見送り、アリガトウ! またいつかどこかデ逢いまショウ! さよな――」


 彼女から、別れの言葉を口にしようとした、その時。


「おーい! そこか! そこなんだな!!」


 店の外、こちらに駆けてくる荒々しい足音と、叫ぶような野太い声。この声の持ち主など一人しか思い当たらない。


「ちょっ、いけません! 危ないですから、お店の中に入らないでくだサイ!」


 俄かに店の外でパーシーが慌てだした。ばっと店の前に立ちはだかると、その彼に縋り付くように顔を出したのは。


「――ラ? モトキサン?」

「はぁ、はぁ……くそ、事件でもねぇってのに、こんな長距離、走らせやがって……」

「羽田サン……いけません、早く、下がってください! もう切り替わりまで三十秒も無いですカラ!」


 そう、元樹だった。

 パーシーにぐぐっと身体を押されるようにして、湯島堂書店の入り口から遠ざけられながらも、元樹は噛みつくようにグロリアに言葉を投げた。


「いいかドラゴン女! 次に来る時は絶対、絶対にお前にみっちり説教してやるんだからな! もやもやさせたまま帰るだなんてこと、絶対にさせな――」


 パーシーの肩越しにがなり立てる元樹を、ぽかんとした表情で見つめるグロリアの、目の前で。

 まるで幕がストンと落ちるように、湯島堂書店の入り口と靖国通りを切り離すように、漆黒の壁が下りた。

 その壁が通り抜けるように落ちていく刹那の後。

 貴婦人の視界に広がるのは、懐かしの古都フーグラーのアーレント通りの石畳。馬車が通るように最適化された道。向かいの店の上に広がる、翡翠色の澄み切った空。

 彼女は、彼女たちは、帰ってきたのだ。

 世界が切り替わったことを認識したヘレナとパトリックが、深く深くため息をついた。


『無事に、帰って来れましたね……』

『いやぁ……一時はどうなることかと思いました……』


 そう口々に零しては、二人の従者は主人たる竜人族バーラウの肩を抱いた。

 ポカンとした表情のままで、貴婦人は目の前の通りを見つめている。

 いつも通りの道、いつも通りの街。自分が生きていくと決めた街。

 ありふれたその風景が、何故かとても愛おしいものに思えて。

 グロリア・イングラム=アータートンはその銀の瞳を、目いっぱいに潤ませたのだった。

 パタリ、と手に握ったままのスマートフォンに滴が落ちる。それを拭おうと画面を見た彼女は、小さく目を見張った。

 スマートフォンの通知欄、受信済みの未読メールが一通。送り主は、ユアン・マート=ニューウェル。

 画面を見つめる主人の肩越しに、ヘレナもパトリックもその画面を見て目を見開いた。


『ユアン様からのメール……?』

『お見送りの言葉でしょうか……奥様、内容は』


 二人に見つめられる中、グロリアの細い指が画面をタップする。時間の動かない、電波も通じない世界で、開かれるメール。

 そこには、前置きも後付も何もない、ただシンプルな一文だけが、記されていたのだった。




 ――また、いつかどこかのお店で、お待ち申し上げております。 ユアン――




  〜Sfarsit~



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グロリア夫人の関東南部飲んだくれ紀行 八百十三 @HarutoK

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