グロリア夫人の関東南部飲んだくれ紀行

八百十三

Prolog

神田小川町

 土曜日夕方の千代田区神田小川町。都営地下鉄新宿線小川町駅の周辺にて。

 二人の女性が多くの人が行き交う街路を、人波を割るように歩いていた。


 一人は壮齢の女性のようで、落ち着いた色合いのシンプルなロングワンピースを身に付け、手袋をはめた手で日傘を差しながらすたすたと歩き。

 一人はそれに比べればだいぶ若い少女で、きっちりとリボンタイを締めたブラウスにプリーツスカートという出で立ちで先を行く女性の後を静かに、しかし離れないようについていく。

 この二人を、周囲の人々はすっかり避けて道を開け、信じられないものを見るかのような好奇の視線を隠しもせずに、立ち止まってはまた歩き出していった。

 年若い人々のみならず相応に年の行った人々も、目を大きく見開いたままに手に手にスマートフォンを構えてはカメラのシャッター音を鳴らしている。

 これだけの扱いを道行く誰もが臆面も無くやってのける理由は、先を歩く壮齢の女性の外見・・にあった。

 ワンピースの裾から覗く足も、シンプルな金のネックレスをまとった首も、瑠璃石のごとき鱗に覆われており。

 ワンピースの背中と腰の部分に開けられた穴からは、それぞれ大きな翼と太い尾が伸びて。

 銀色に光る瞳を持つ鼻の高いその顔は、まさしくおとぎ話に出てくる竜のそれで。

 どこからどう見ても竜人りゅうじんとしか呼称しようがないその姿を、惜しげも無く曝け出して歩いているのだ。

 これがハロウィンの時期で、街を挙げてイベントを行っているなどしていれば、リアルすぎる仮装として別の形で話題になっただろうが、今は初夏。仮装行列とは真逆のタイミングである。

 故に現実離れしたこの女性の姿を、街の人々は信じがたいものがそこに在るという様相で、遠巻きに見ているのであった。

 人々の視線の飛び交う中を歩きながら、栗色の髪をショートボブに切り揃えた少女が、首を竦める。


『……随分と、見られていますね、奥様』


 小さな声で漏らされたその言葉は日本語ではない。聞く人が聞けばおや、と思うことだろうが、英語でも中国語でもないその響きは随分と独特だ。

 少女に呼びかけられた竜人が、小さく振り返りながら口を開く。


「それが普通ヨ、ヘレナ。この国では私のような人ハ珍しいのだモノ。それに貴族ハ、どこにいたって市民ノ注目を集めてしまうものでショウ?」


 そう柔らかい声で返した竜人の口角が、くいと持ち上がった。

 少女と違い日本語を発した、竜人の言葉は淀みなく流暢だ。日本人どころか人間ですらないその口から発せられたとは、その姿を認めてなければ思わないだろう。

 声色からしたら五十代と思われる彼女の口は、勿論滑らかに動いている。マスクをかぶって顎の動きと連動させているような、そんな人工的な動きではない。

 日傘の下の小さな変化を認めた街の人々の目が、一層大きく見開かれる。

 と、女子高生と思しきセーラー服に身を包んだ少女が二人、人混みの中から飛び出して竜人の前に踏み出してきた。


「あのっ、すみません!」

「お写真撮ってもいいですか!?」


 スマートフォンを片手に写真を要求してくる女子高生に、足を止めた竜人は一瞬だけ瞠目するも。

 すぐにその表情を柔らかくして、こくりと頷いた。


「いいわヨ。デモこの子の顔は、隠すなりしてちょうだいネ」

「えっ……」

「あ、ありがとうございます……!」


 思いがけず飛び出した流暢な日本語に、呆気に取られる女子高生二人。だが現状を飲み込んだ彼女らは、揃って手にしたスマートフォンを構えた。

 高貴な感じのポーズを決めた竜人と、その傍に寄りそう少女にカメラが向けられると、そのまま数回、シャッター音が鳴り響く。

 満足した表情で少女たちがスマートフォンを下ろすと、ポーズを解いた竜人が二人を手招きした。


「折角ダカラ一緒に撮りましょうヨ。私だけ写すんジャそこらから撮るのと変わらないデショ」

「いいんですか!?」

「エエ。デモちょっと待っててちょうダイ」


 少女たちが竜人の傍に駆け寄ったのを確認した竜人の藍色の手が、パンパン、と二度鳴らされる。

 何事かと周囲の人々が騒めきだす中、人混みの中から一人の男性がスッと進み出た。

 金髪の中に白髪が混じった、スーツ姿の壮年男性だ。短く口髭を整えたその様は英国紳士を思わせる。

 男性は竜人と連れ添いの少女、そして女子高生の前まで歩み出ると、深々と一礼して見せた。


『お呼びでございますか、奥様』

『勿論呼んだわよ。やっぱり付いてきてたのね……カメラマンをお願いできる?』


 至極当たり前のようにへりくだって、異国の言葉で声をかける男性に、気持ち上から目線で聞き慣れない言葉を返す竜人のその有様に、女子高生が目を白黒させていると。

 金髪の男性が女子高生へと、そうっと手を差し出した。


「失礼しマス、お手持ちのスマートフォンを、お借りできますでしょうカ」

「す、すみません、ありがとうございます」

「アァ、パトリック。私のスマートフォンでも撮影してちょうダイ」


 これまた流暢な日本語に、驚愕の面持ちの女子高生たちだ。

 竜人の女性がちらりと視線を傍らの少女に向けると、少女が手に持った鞄の中から一台のスマートフォンを取り出した。これが、すなわち竜人の持つものなのだろう。

 女子高生を自分の前に並べ、両肩を抱いてにっこりと笑う竜人。その前で女子高生も笑う。そこを撮影する金髪の外国人男性。

 なんとも、シュールな光景である。


「撮影終わりましタ……こんな具合で、いかがでしょうカ」

「凄い、綺麗に撮れてる……ありがとうございます!」

「それにしてもその、すごく、日本語お上手ですね……手の鱗も本物みたいだし、顔も」


 撮影を終えた金髪男性からスマートフォンを受け取った女子高生が、キラキラした瞳で竜人と男性にお礼を述べると、頬に指の爪を当てて小さく首を傾げた竜人が、にっこりと笑う。


「アリガトウ。これネ、ぜーんぶ本物。私の自前ヨ、角も翼も尻尾モ。

 日本語ハ、私にとって研究対象ダカラ、自然と身についてネ。これでも言語学者なのヨ、私」

「言語学者としてノ自覚があるノハ大変に結構ですガ、奥様。もう少シ貴族・・としての自覚ヲ常からお持ちいただけますト、私は嬉しゅうございマス」


 金髪の男性から発せられた貴族、という言葉に身体を硬直させる女子高生二人。当然だ、日本で貴族階級が無くなってもう七十年。日本人がその存在を意識することなど、あるはずもない。

 はぁ、とため息をつくお付きの少女に、困ったように額を掻く金髪の男性。しかし小言を言われた当の本人はむくれっつらである。

 頭を下げながらそそくさと退散する女子高生二人を尻目に、竜人は腰に片手をやった。


『『郷に入りては郷に従え』と言うでしょう、パトリック。ここは大公国ではなく日本ジャポーニアなのよ。竜人族バーラウも無ければ獣人族フィーウルも無い、平等な国なのよ。

 ここで私が貴族らしく振る舞うことに、何の意味があるというのかしら?』

『何も人を侍らせて偉ぶってください、とまでは申しません……いえ、普段から奥様がそのようになされないことは、重々承知の上ですが。

 ただ、奥様の身に何かあれば、旦那様もご子息様も悲しみます。そちらにおりますヘレナも悲しみます』

『はい、奥様。奥様に何かあったら、私はお城の皆さんに合わせる顔が無くなります』


 憮然としたまま言い返す竜人に、真剣な表情で心配する言葉を投げかける、男性と少女。

 その真摯な言葉を受けては、我を通しても無意味だと思ったのだろう。竜人は小さく諸手を挙げて首を振った。


『分かった、分かりました。ともかく往来であんまり立ち止まっているのもよくないわ。

 腰を落ち着けてゆっくり話しましょ。パトリックも、来るでしょう?』

『勿論ご一緒いたします、奥様。そして本当に分かっていらっしゃるのですか?腰を落ち着けるとは、すなわち酒席・・でということですよね?』

「……あ、モシモシ? 今から三人でお伺いしたいのダケド、お席の空きはあるカシラ?」

『パトリック、仕方ありません。奥様はいつもこうです』


 ずんずんと再び歩き出しながら、手に持ったままだった自分のスマートフォンで店に電話をかけ始めた竜人の後を、金髪の男性も栗毛の少女も呆れ顔で追いかけていった。


 押しも押されもせぬ生まれながらの立派な貴族でありながら、こうして東京の街を堂々と闊歩する竜人の女性の名は、グロリア。

 グロリア・イングラム=アータートン。

 ここではない異世界ドルテより日本を訪れた言語学者にして、マー大公国アータートン領領主、アータートン伯爵家の第二夫人。

 生粋の、竜人族バーラウである。


「いらっしゃいませー! おっ、グロリアさんどうも!」

「来たわよ店長サン、今日もよろしくネー!」


 これはグロリアが、日本語研究のフィールドワークの傍らで、あちこちの居酒屋で身分や種族の差を気にせず飲んだくれる、そんなお話である。

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