砂子

 東京都に程近い位置にある、神奈川県内でも規模の大きい都市、川崎。

 駅前の通りも大きく栄えているこの街を、グロリアはヘレナ、パトリックと一緒に歩いていた。

 夏の日差しが強い日、夕方だというのにまだ日は高く、周囲も明るい。

 道行く人がちらちらとグロリアに視線を送っては通り過ぎていく中、横目で後方をチラ、と見やったパトリックが、少し歩調を速めてグロリアの傍に寄った。


『奥様、予想通りと申しますか……やはり後ろに、来ていらっしゃいます』

『懲りないわね、毎回毎回。ここはトウキョウトではないというのに』


 パトリックに耳打ちされたグロリアが、小さく肩をすくめる。二人の後ろを歩くヘレナだけが、状況を把握できないままに首を傾げていた。


『奥様?』

『ヘレナ、ちょっと急ぐわよ。はぐれないように付いてらっしゃい』

『ハ、ハイッ』


 さっと伸ばされたグロリアの右手。レースの手袋に包まれたそれを、ヘレナの左手がぐっと掴む。

 そしてそのまま、市役所前の駅前通りから左に曲がって少し細い通りへと飛び込んでいく。後方で「あっ」という声が聞こえた気もするが気にしない。

 そうしてそのままズンズンと、三人で川崎駅前の路地を進んでいく。表通りと違って人影はまばらだ。故に、追っ手・・・の存在もより感じやすくなる。

 幾らか進んで再び交差点を曲がったところで、パトリックが再び後方に視線を投げながら口を開いた。


『ダメですね、引き離せそうにありません』

『しょうがないわねー、まぁいいわ、今回は諦めましょう。お店の予約をしているわけじゃないからちょうどいいわ』


 そんな風に小さくため息をつきながら話すグロリアが、とあるビルの前で足を止めた。三人が足を止めると同時に、後方の人の気配も足を止めたのが分かる。

 そのままそそくさと、その人物は近くのビルとビルの間に身を潜り込ませる。

 ビルの前で数秒ほど足を止めていたグロリアが、一言「ヨシッ」と小さく言葉を漏らすと、すたすたと一直線に元歩いてきた方向へと歩いていく。

 そして今入ろうとしていたビルと、その隣のビルの間、三十センチほどの隙間が空いているそこに、おもむろに手を突っ込んだ。


「わっ!?」

「サァ出てきなサイ、分かってるのヨ」


 ぐいぐいと、ビルとビルの隙間に潜んだ追っ手・・・を引っ張り出そうとするグロリア。追っ手の方も抵抗してはいるのだろうが、如何せん狭苦しいビルの隙間。抵抗しきれないまま、ほどなくしてその頭を隙間から引きずり出された。

 その顔を見たヘレナが、目を丸く見開く。


「羽田サン……!?」

「全ク、ここは警視庁の管轄外でしょうニ」


 ヘレナの隣で言葉を零したパトリックが、あきれ顔でため息をついた。そうする間にも追っ手こと羽田 元樹はあれよあれよという間にビルとビルの隙間から引きずり出されて、その姿を道路で曝け出している。

 そのまま手を引いてヘレナとパトリックの前まで元樹を連れてきたグロリアが、フンと鼻を鳴らした。


「ホント、手間かけさせてくれちゃッテ。サァ行くわよモトキサン、これからしっかり話を聞かせてもらうンダカラ」

「おい待て、やめろ、引っ張るなドラゴン女!」

「三階でよろしかったですヨネ、奥様?」

「ソウソウ」


 抵抗する元樹を完全に自分たちのペースに巻き込んで、グロリアたちはビルのエレベーターに乗り込んだ。




 居酒屋の店内。

 隣のテーブルと壁で仕切られ個室になったその四人掛けのテーブル席で、元樹はブスッとした表情を隠そうともしなかった。

 元樹の隣ではグロリアが上機嫌で日本酒の並ぶメニューを差し出している。


「ホラ、モトキサン、好きなお酒選んでいいカラ」

「うるせーな……俺は日本酒はやらねーんだよ、ビールでいい」

「ビールやサワーなどはメニューの裏にありますヨ、羽田サン」


 日本酒大好きなグロリアとパトリックはメニューにずらりと並んだ多種多様な日本酒に心を躍らせているが、日本酒を飲まない元樹はそれが面白くない。

 ビールがサントリーのザ・プレミアムモルツであることに溜飲を下げつつ、さっさとメニューをグロリアの方につき返していた。

 戻されたメニューをヘレナに渡しながら、グロリアは面白いものを見るような目つきで元樹に微笑んだ。薄っすら細められたその瞳は、いたずらっぽく輝いている。


「で、モトキサンはなんでカワサキにいたのカシラ?」

「決まっているだろうそんなこと、お前たちを監視に――」

「デモ、ここはトウキョウトじゃないですカラ、警視庁の管轄地域ジャないですヨネ? ここで仕事はできないはずデハ?」


 パトリックに鋭く指摘され、元樹は一瞬言葉に詰まる様子を見せた。ちら、とテーブルの上に視線を向けるが、まだビールは手元に無い、それどころか注文もしていない。

 お冷のグラスを手に掴んでぐっと中の水を飲むと、自分の額に手を当てつつがなり立てた。


「あぁそうだよ、今は勤務外だ! 非番だよ!! 休日ついでにお前ら追っかけてきたんだよ!!

 ったく、お前らは気にせずあっちこっち飲み歩いて、東京から外にも飛び出しやがって、気を付ける奴がいなかったらなんかあった時どうするってんだ!!」

「ハイハイ。分かりまシタ、分かったから落ち着いてチョウダイ、モトキサン。

 ヘレナ、店員さん呼ンデ」

「ハイ、奥様」


 がーっと自分に噛みついてくる元樹を抑えながら、ヘレナに視線を向けるグロリアである。

 元樹の言わんとすることも分からぬではない。グロリアがいるとそこがどこであれ、どうしたって人目を引いてしまう。人目を引くということはトラブルが発生しやすくなるし、実際これまでも小さなトラブルがなかったわけではない。

 一見して普通の人間と大差のない見た目をしたヘレナとパトリックが傍に付いているとはいえ、騒ぎが起こった時に冷静に対処できるように、人脈を作っておくことは悪いことではないのだ。

 荒く息をする元樹が再び椅子に座ったところで、個室入り口のカーテンがめくられる。そして制服に身を包んだ店員が姿を現した。


「はい、お待たせいたしました。お呼びですか」

「注文をお願いシマス。生ビール三ツ、それト……角ハイボールを一ツ」

「かしこまりました。御用がございましたらボタンでお呼びください」


 ヘレナの注文を受けて、伝票に内容を記してから一礼して去っていく店員。そして店員の登場で幾分か気勢を削がれた元樹が、肺に溜まった空気を吐き出すように長く息を吐いてから、ゆっくり口を開いた。


「……とにかくだ。ガスコインさん経由でいいから、俺に一言伝えろ。せめてどの辺に行くかくらいの情報はよこせ。

 俺の目の届く範囲内で動けとか、俺の非番の日でないと都外に出ることは許さんとか、そこまでは言えん。ただ、俺にも責任ってもんがある。

 ……それに、予め言ってもらえれば行先の県警に勤務するダチにも連絡できるし、なんかあった時に連絡先を渡せるからそっちに話を持っていけるだろ」

「……そうネ。ありがとう、モトキサン」

「うっせ……」


 率直にお礼を言われた元樹の視線が、グロリアから逸らされる。何やら気恥ずかしいのか、耳が微妙に赤い。

 そうこうしているうちに運ばれてくるジョッキが四つ。提供の早さに驚きながら、パトリックがそれぞれに頼んだアルコールを回していく。


「約束するわヨ、連絡も入れずニ勝手にあっちこっち飲み歩くことはしないッテ。

 そうしたらモトキサンの立場もないものネ。分かってるワ」

「んだよ……そこまで素直に言われると、それはそれで気味がわりーぞ」

「アッ、ヒドーイ」


 そんな軽口を叩きながら、グロリアが冷えたジョッキを持ち上げた。次いで元樹も、パトリックも。ヘレナもハイボールのジョッキを手に持つ。


「ジャ、乾杯ノロック

「「乾杯ノロック」」

「……乾杯」


 そしていつもよりも静かに、グロリアが音頭を取って乾杯の発声がなされた。

 そっと合わされるガラスのジョッキ。小さく揺れる飲み物。

 引き戻されたジョッキに各々が口をつけると、ぐいっと呷っていく。

 静かに交わされた乾杯だったが、落ち着いた空気もそこまでが限界だった。


「ハー、いいわネー。ジャア食べ物、何頼みましょうカ」

「こちらは刺身ガおすすめなお店のようですネ。羽田サン、何かいいのはありますカ? 我々、内陸の国出身ですノデ、海産物には疎くテ」

「あん? そうだな……飲む酒にもよるだろ。けど、そうだな、俺は今日はサーモン食いたい気分だな」

「サーモン……デスカ。どんなお酒が合うデショウ?」


 ジョッキをテーブルの上に置き、料理のメニューを開きながら額を突き合わせて侃々諤々。

 あれはどうだ、これは美味しいか、と話し合う四人の姿を、お通しの小鉢を運んできた店員が苦笑しながら、しばし微笑ましく眺めていた。

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