西新宿

 新宿の街は、昼も夜も、平日も土日祝日も、変わらず人が多く行き交っている。

 近隣の会社に勤務するサラリーマンも、付近の学校に通う学生も、午後からの勤務に向かう飲食店の店員も、仕事なんてどこ吹く風といった風のホームレスも。

 そんな新宿の街を、グロリアは今日も勝手知ったる様子で闊歩していた。

 今日は良い天気、日が陰りつつある午後5時。いつもの日傘は邪魔になるので閉じて、つばの広い帽子を頭にかぶり、開けた穴から角を出している。

 勿論グロリアも気を使って、翼を小さく畳んで人の邪魔にならないようにしているのだが、それでも夕方の新宿。西新宿だからまだそこまでガラの悪い輩こそいないが、それでも結構他人との距離が近くなる。

 グロリアと手を繋ぎ、離れないように歩いているヘレナが、俯いたままでぐっと彼女の手を握り締めた。


「ヘレナ?」

『奥様……すみません』


 歩みを止めないまま、グロリアの視線が後方へ向いた。

 彼女に手を引かれて歩き、顔を伏せたままで謝りながら、グロリアの手をぎゅっと握るヘレナの口が、小さく動く。


『私の後ろの男性が、不審な動きをしています』

『……はーん』


 囁くように、素早く紡がれる日本語でない言葉。

 ちら、と視線をヘレナの後方に投げると、そこには眼鏡をかけたサラリーマン風の中年男性。ヘレナの後ろにぴったりつく男の身体が、グロリアの視線を受けてびくっと震える。

 咄嗟に身をひるがえして逃げようとする男性だが、ここは夕方の新宿、人混みをかき分けて逃げられるはずもない。

 あっさりとその手首を、グロリアの爪の尖った手が掴んだ。


「なーにヨー紛らわしい、田中さんモ付いてきてるんならややこしいコトしないで言ってくれればいいじゃナイ。ホラ、行くわヨ!」

「へっ、えっ」

『えっ、あのっ、奥様!?』


 そうしてぐっと中年男性の手首を掴んで、ずんずん先に進んでいくグロリア。突然引っ張られる形になる中年男性は無論のこと、当の被害者であるヘレナも大いに困惑していた。

 当惑して足を止めそうになるも、結局グロリアと手を繋いだままでいるヘレナも、同様に足を進めることになる。

 二人の手を引いて歩きながら、先程ヘレナが発したのと同じ言語が、グロリアの口から飛び出した。視線が向くのは、もちろんヘレナだ。


『ヘレナ、パトリックに連絡してちょうだい。お店の中で待っているはずだから。それと会話は、努めて日本語でね』

「エ、ハイ……」

「ア、田中さんは気にしないで大丈夫ヨ、お店に連絡入れるだけダカラ」

「いや待って、待ってください、そもそも私は」


 返す言葉で田中と呼称する中年男性ににこやかに微笑みかけるグロリア。当の田中は何か言いたげだが、グロリアの視線に射抜かれるや、ぐっと押し黙る。

 そうこうするうちにヘレナが取り出して電話をかけたスマートフォンを肩と耳と翼で挟みながら話をするグロリアが向かうのは、西新宿の裏路地に建つ一軒の居酒屋だ。

 会話を終えたグロリアがスマートフォンの通話終了ボタンを押しながらドアを潜ると、店内がざわついたのが手に取るようにわかった。無理もない。

 入店の対応をしようとやって来た店員が面食らうのを見やしながら、グロリアが指を二本立てて見せる。


「今から二人、入れるカシラ? それとこの子なんだケド、先に入ってイル金髪の男性のお連れ様ナノ。そっちに通してもらえるカシラ」

「か、かしこまりました。確認いたしますので、少々お待ちください……」


 慌ただしく店内に駆け戻っていく店員。

 程なくして店員に連れられ、入り口に姿を見せたのはパトリックだ。先程グロリアから電話で事情を説明されてはいるものの、なんとも苦々しい顔つきである。


「奥様、申し訳ございまセン、お手間をかけてしまいまシテ……」

「私達ノ行先に先回りするのもいいケレド、私達の身の安全ハ、ちゃんと守って頂戴ネ」

「……」

「なんっ……えっ、えっ」


 深々と頭を下げるパトリックに、グロリアが首を傾げながらため息をついた。

 グロリアの手から離れてパトリックにひしっとしがみついているヘレナに睨みつけられ、そのパトリックにも睨みつけられ、田中は今にも逃げたそうな面持ちで腕をぐいぐい引っ張るが、グロリアの手の爪が喰い込まんばかりに立てられていて逃げられない。

 そしてパトリックを案内してきた店員が、グロリアに視線を向けた。


「二名様、テーブル席のご用意が出来ましたので、ご案内いたします」

「アリガトウ。さ、行くわヨ」

「ひっん……」


 店員に頭を下げたグロリアが、ぐいと田中の腕を引っ張った。鋭い爪の先端が手袋越しに深く刺さり、田中の喉から引き攣った声が漏れる。

 そして田中がグロリアに連行されるのを見届けたパトリックが、ようやく肩の力を抜いた。


『やれやれ。では、私達も行きましょう、ヘレナ。ここの店の唐揚げは絶品ですよ』

『……はい、パトリック』


 そうしてヘレナの肩に手を置いて歩き出すパトリックに寄り添いながら、ヘレナもふっと緊張を解いたのだった。



 結果的にグロリアと田中が通された席は、店内の奥の方、二人掛けのテーブルだった。向かい合わせになって、腰掛けるグロリアと田中。

 すっかり観念した様子で小さく縮こまる田中から視線を外すことなく、壁際に置かれたタッチパネルを操作するグロリア。鱗に覆われた手で手際よく操作していく様に、田中の表情は何とも複雑そうである。


「生ビールでいいワネ? ここなら安いカラ気持ちも楽デショ」

「はい……あの、ほんと、すみません、でした……」


 タッチパネルでさっさと「生ビール中ジョッキ」を二回タップするグロリアに、田中はしおらしくなって謝罪の言葉を述べた。

 そんな彼に視線を向けたまま、タッチパネルをタップする指を一瞬だけ止めると、彼女はくい、と口角を持ち上げた。目元が笑わないままで。


「これに懲りタラ、もう二度と痴漢・・なんてやっちゃダメヨ? 相手がヘレナで、私がいる時だったカラ、警察に貴方を突き出さないデ済むんだカラ」

「うっ、はい……反省してます……」


 そう告げて、おつまみの注文も終わらせたグロリアが、テーブルに肘をついてまっすぐに田中を見た。それを受けて眼鏡の中年男性は、ますます小さく縮こまる。

 しかしすぐさま、生ビールの中ジョッキが二つ、テーブルへと置かれた。それと一緒に生のキャベツと味噌ダレも。

 店員ににこやかに礼を述べると、グロリアはジョッキの一つを田中の方へと押しやった。もう一つを自分の手に持つ。


「それジャ、日本式に行きまショ。カンパーイ!」

「……乾杯」


 痴漢を糾弾する側と糾弾される側の乾杯だとはとても思えないほどに、高らかに上がるグロリアの声とジョッキ。対して田中はというと、小さく掲げただけ、声も非常に小さい。とはいえこちらは糾弾される側の人間、無理もない。

 ぐびり、ぐびりといい音を立ててジョッキのビールを飲んでいくグロリア。程なくしてジョッキの半分ほどを一息に空けて、満面の笑みを浮かべた。


「やー、安いカラどれくらいかと思っていたケド、美味イ!

 ア、そうそうアナタ。ここでの食事代デこの件は手打ちにシマショ。逮捕されて前科が付くよりいいデショ?」

「え、あ、はい……そちらが、それでいいのなら」


 彼からしてみれば思いもよらなかった解決法を提示されて、田中は数瞬目を見開いてグロリアを見た。彼の眼鏡の向こうで、再びジョッキに長い口の先をつけてぐびぐびとビールを飲んでいる竜人の姿が映る。

 あっさりとジョッキを空にしてみせたグロリアが、満足そうに微笑んだ。


「あー、やっぱりタダで飲む酒ッテ美味しいワ。

 それにしてもゴメンナサイ、何とか知り合いである風ヲ装って、その場デ騒ぎにならないようニ収めるタメ、適当に『田中サン』なんて呼んじゃッテ」

「いえ……むしろ、ありがとうございます、騒ぎにせずにここまで……悪いのは全部私なのに」


 グロリアの言葉を受けて、田中と呼ばれ続けていた・・・・・・・・・眼鏡の中年男性は後頭部に手をやった。

 そう、グロリアが田中と呼んでこの店まで連れ込んだのは、知り合いを装うためのその場での方便。本来のこの男の名前は別にあるのだ。

 機転の利かせ方、切り抜け方、いずれも熟練していて上流階級の貴婦人とは想像もつかない。異世界での彼女の普段の生活を、想像するのは困難だろう。

 さっさと二杯目の生ビールを注文したグロリアの目の前に、鶏軟骨の唐揚げがこんもり盛られた皿が置かれた。先程に注文したものだ。


「鶏軟骨の唐揚げ、お待たせいたしましたー」

「アリガトウ。さぁドンドン飲みまショー!」

「……はい」


 箸立てから割り箸を一膳抜き取ったグロリアが、満面の笑みを名も知らぬ中年男性へと向ける。その笑顔にようやく表情が和らいだ男性も、箸を一膳。

 パキン、と割り箸を割る音が、二つ同時に鳴った。




 ちなみにこの後、グロリアはどんどんビールやら日本酒やらを飲み進め、料理もたんまり頼んで、しっかり満腹になった状態で酔いつぶれた中年男性と伝票をその場に残して、パトリックとヘレナを伴い悠然と立ち去った。

 目を覚ました中年男性が伝票の総額を見て真っ青になったことを、彼女は知る由もない。

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