栄町
埼玉県川口市、川口駅そばの居酒屋にて。
カウンターに腰掛けたグロリアは、静かに日本酒の満たされたグラスを傾けていた。
隣の席にはパトリックが座り、同じように日本酒のグラスを手に持っている。
「……」
「……」
二人とも、言葉少なで。普段のグロリアからしたらなんとも珍しいほどに語らないままに、日本酒をちびりちびりと飲んでいる。
やがて、日本酒のグラスが空になる頃合いで、パトリックが小さく口を開いた。
「ユアン・マート=ニューウェル、ですカ」
「……エエ」
日本語で、そう零しながら。グロリアは店の天井を仰ぎながらふーっと長い息を吐いた。
先日に大宮の居酒屋で顔を合わせた、新緑色の鱗を持つ地球に住む
つい昨日に、「またどこかで飲みに行きましょう」などという約束を取り付けたばかりである。どの場所で飲むかは、今後の相談次第だが、ユアンは大宮在住とのことなので埼京線沿線になることだろう。
しかし、だとしても。グロリアは出会ったばかりの同じ種族の男を想って目を細めた。
『ウィートストン連合国の元老院議員、アダルバート・マート=ニューウェルの弟。若い頃に
まさか、こっちに来ていたなんてね』
『行方不明になられた当時はまだ、大公国の外のニュースが入ってくることはなかったですからね。私も最近まで、彼の人物のことは存じ上げませんでした。
奥様も、二十年ほど前の国際会議でアダルバート様にお会いした時に、お話を伺ったきりと伺っておりますが』
『ええ、そうよ。どうしたものかしらね……アダルバート殿の息子を預かっている身だし、何も言わないわけにはいかないんでしょうけれど』
自身の生徒である、彼と同じマート=ニューウェルの姓を持つ青年を想いながら、グロリアは嘆息する。
ユアン・マート=ニューウェル。五十七歳。男性、独身。ドルテの大陸西方に位置するウィートストン連合国の出身。
二代続けて連合国の上級議員を務め、元老院議員にも選出されているマート=ニューウェル家の一員で、現当主であり元老院議員であるアダルバートの弟である。
彼曰く、十三歳の頃にウィートストン連合国首都のユーイング市から埼玉県の大宮市、今でいうさいたま市大宮区に転移してきたとのこと。
その当時は地球は1975年。以来、四十年余をずっと地球で、故郷に帰ることもなく過ごしてきたらしい。道理で日本語が達者なわけである。
『四十年もドルテを離れていたら……咄嗟にドルテ語が出てこないのも無理はないわね』
『しかし、かの御仁は……
『そうよ。彼は
普通じゃ考えられないことだわ。今とは違って、SNSも無い。国外から移住してくる人もそんなに多くは無い。そんな時代に、彼は日本で生きることを選択した。
聞くところによるとね、お仕事はシステムエンジニアなんですって。その当時は自分の外見で就ける仕事がそれくらいしかなかったからって』
そう話して、グロリアは再び、ふっとため息をついた。彼女の手の中で日本酒のグラスが小さく揺れる。
今の時代ですら、
きっと、随分と辛い思いをしてきたことだろう。悲しいことも数多く経験したことだろう。こんな異国の地に、一人やってくることになって。
手の中のグラスに残った酒を、ぐいと飲み干しながら、グロリアは口を開く。
『アガター先生のお店と同じように、接続点は何かしらのお店で……喫茶店だと仰っていたかしら。そのお店の店長さんや店員さんがいて、彼はそこの人たちに日本語を教わりながら学校に通っていたんだそうよ。中学校から、大学まで、ずっと。
ウィートストンに帰ろうとも、最初は思っていたそうだけれど……日本での学校生活が、随分楽しかったんですって。今彼がお勤めの会社も、学校の縁で入社させてもらったんだそうよ』
そう話しながら、グロリアは小さく口元に笑みを浮かべた。
まだ、ユアンとはあのお店で顔を合わせてから会ったことは無い。LINEで何度かメッセージのやり取りを交わして、彼の人となりや経歴は分かって来たけれども、その程度だ。
メニューを手に取り、食事を何を頼もうか思案するグロリアに、パトリックはほんのりと憂いを帯びた視線を投げた。
この主人は、日本に何かと縁がある人だ。日本人の助手を迎え入れていたこともある。日本にやって来たことも一度や二度ではない。
それだけに、日本でずっと暮らしてきた同じ種族の人間の存在に、思うところは多くあるのだろう。
程なくして、頼むものを決めたらしいグロリアがさっと手を上げる。少しして近づいてきたアジア系の店員がハンディの画面をタップした。
「ご注文ですか」
「水餃子を十個ト、ソーセージとベーコンのピザを一ツ。あと、杉蔵を一つネ。パトリックは何か頼ム?」
「あ、私も杉蔵ヲ」
「かしこまりました」
ほんのりと祖国の訛りを感じさせる口ぶりで言いながら、席を離れていく店員。
その背中から視線を外して、頬杖を突いたグロリアはふっとため息をついた。
『同じ姿をしていても、扱う言葉の違う地球。扱う言葉は皆同じでも、種族のそれぞれで姿が違うドルテ。
どっちがいい、どっちが悪いってことは無いけれども、やっぱりお互いに、いいところもあれば悪いところもあると、思うのよね』
『……奥様』
そんな、誰に話すでもないような独り言を、隣にパトリックがいるにもかかわらず零すグロリア。その言葉を聞いたパトリックは、グロリアを呼ぶことで精一杯だ。
地球と、ドルテ。それぞれ二つの世界はこうして故あって繋がっている。しかしそのどちらもが、それぞれ種族の違い、言語の違いを持っている。
同じであるようで、分かり合えない違いもある。違うようでいて、歩み寄れるところもある。
特に歩み寄ろうとしているグロリアとしては、この二つの世界について、もっと歩み寄れればと思うのだ。
やがて運ばれてきた日本酒のグラス二つ。同じ酒の入ったそれを、グロリアとパトリックはそれぞれを手に持つ。
ゆらりと、グラスの中で酒の水面が揺れた。
「……カンパイ」
「カンパイ」
日本語で短く零す異世界人二人。そうしてきゅっとグラスの縁に迫る日本酒を吸い込みながら、一緒に目を細めた。
『あ、そうそう。ユアンさんに話を聞いたんだけどね、あの人ワインも日本酒もビールもウイスキーも、何でも好きなんですって。案外パトリックと酒の趣味が合うかもしれないわ』
『ほう、それはそれは。機会があれば、酒の席をご一緒したいものですねぇ』
『今度の飲みはサシでやろうって話になってるから、また別の機会にセッティングするわね』
そんな話をしながら、二人は日本酒のグラスを傾けていく。
店員が運んで来た水餃子にも視線を落とすと、二人は静かに笑いながら既に割った割り箸を手に取った。
地球に迷い込んで以来そこで暮らし続けた異世界人と、地球にたびたび訪れては異世界に帰っていく異世界人。
その二人の出会いに、何とも奇特な縁もあるものだと、グロリアもパトリックもその目を細めながら酒を楽しむのであった。
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