三踏 フローラ・ハッシュ

「ここは、何処なんだ……」


 混濁した意識のままタイヤーは目を覚ますと横に寝かされており、部屋の天井に貼り付けられた木板の模様を自然に目で追っていた。


 ゆっくりと記憶を整理していくと、最後に見たのは目の前に迫る二本の指。

ひとまず失明してなくて良かったと安堵する。

いや、違うとタイヤーは、再び記憶を整理する。最後に見た景色は間違いなく二本の指で危うく失明しかけたのだが、今最も痛むのは下顎だ。

微かに覚えているエルの声。

顎を突き上げる一撃を喰らわしたのは恐らくエル。

幾ら伯爵令嬢とはいえ流石にやりすぎだと、タイヤーははらわたが煮えくり返りそうになる。


「あ、起きたの? 良かった……」


 まだ体が上手く動かせないタイヤーは、目だけを声のする方向へと向ける。

そこには肩まで伸びたコバルトブルーの髪と、髪と同色の瞳、少しだけ垂れ下がった目尻が優しそうな女の子が心配そうな顔をしながら前屈みになり、自分の顔を覗き込んで来た。


 あれは──暴力だ!


 タイヤーが、そう感じるのも仕方のないことであった。


 山が動いた。それも、二つの並んだ山が。


 自分の顔を覗き込んできた女の子が前屈みになった瞬間、二つの、たゆんと大きな山が揺れたのを、タイヤーは見過ごさなかった。


 紺色のブレザーの前はボタンがしっかりと止められており固定されているはず。にも関わらず小柄な彼女に不釣り合いなほどのたわわに実った、二つの山が動いたのだ。


 そう、大きすぎると流石に山は動くのだと、タイヤーは生まれて初めて知った瞬間であった。


「大き……いや、君は?」


 思わず口が滑りそうになったタイヤーは、いかん、ダメだと「絶対親父のようになるものか!(三十二回目)」とすぐに心を戒め、改めて彼女の名前を尋ねた。


「わたしはフローラ。フローラ・ハッシュよ。宜しくね、タイヤーくん」

「あれ、どうして俺の名前……」


 内心ドキッと心臓が跳ねるタイヤー。

自分と彼女は出会った記憶はない。けれども自分の名前を知っている。


 実は、影からこっそりと自分に好意を抱き「前から好きでした」と告白される場面を想像する。

男の子なら、誰しも一度は夢を見る。


「先生がわたしに『そこのタイヤーを保健室に運んでやれ』って」


 夢は所詮はかないものだと、思い違いをしたことに急に恥ずかしくなったタイヤーは、思わずフローラの顔から体に視線を逸らす。

裾や袖を合わせて制服を購入したのだろう、胸の辺りのボタンが数ヶ所悲鳴を上げていた。


「すごいな……」と、どうしても声に出して感嘆してしまったが、彼女は何のことか気づかずにに首を傾げるのみ。


「そう言えば、君……じゃなかった。ここにはフローラだけ?」

「そうだよ。皆は教室にいるよ」


 もしかしてフローラが一人で自分を此処に運び連れてきたのかと、一瞬思ったが、そんなはずはないと考えを改める。

制服の上から判るほど折れそうなくらいの細腕で、同学年でも体格のある自分を運べるわけはないと。


 誰かと一緒に来たが、フローラだけ残って看病してくれていたのだろう。


「ねぇ、もしかしてエルが此処に俺を運んだのか?」

「エルちゃんが? 違うよ、タイヤーくんを保健室まで運んだのは、わたしだよ」


 フローラが一人で運んだのかと心底驚く。他の同年代の女の子より全然背も低く、抱き締めると折れそうなくらいに細い肢体。一部は除くが……。

見た目から、とてもそんな力があるとは考えられなかった。


 「力はある方なんだ」と、照れ臭そうに、えへへと笑うフローラは、腕を曲げて力こぶを作る仕草をするが、制服の上からとはいえ、全く力こぶなど見えない。


「くそぅ、エルの奴。俺を介抱したってバチなんて当たらないだろうが」


 ふと、可愛らしい笑顔のフローラとは対照的に、エルの憎らしい顔が目の前に浮かぶ。そして、それでもエルの綺麗な顔が尚、憎らしい。


「ごめんね……エルちゃんが」

「何でフローラが謝るの? というか、エルと知り合いなの?」

「うん。幼馴染みなの」


 エルの幼馴染み。

エルとは幼い頃、よく一緒に遊んだ。しかし、タイヤーに彼女の記憶はない。

物覚えは悪くは無いはずだった。


 確かに五年前のあの日からエルが突っかかってくるから、仲は悪くなったけれどもニアミスくらいならしていそうなものだ。


「えっと……エルと幼馴染みなんだよね? 俺と会ったことないかな?」


 しかしフローラの答えは否定であった。一体どういうことなのだろうかとエルに聞いてみたいタイヤーであったが、どことなく癪だと感じていた。


「あ! ごめん、長々と引き止めて。フローラは、もう教室に戻りなよ」

「大丈夫なの、タイヤーくん? もう、痛まない?」


 フローラの手がタイヤーの頬を擦る。吸い込まれそうな綺麗なコバルトブルーの瞳に見つめられ、なんだか気恥ずかしくなってしまったタイヤーは、明後日に視線を逸らしたいのだが魅了されたかのように、フローラの目を見続けてしまっていた。


「ちょっと顎がズキズキするけど、大丈夫だから」


 精一杯、何かを振り絞るかのようにそう言うと、フローラが保健室を出ていくのを見送るのであった。

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