遥ちゃん3
遥ちゃんが保健室に初めてやってきてから二ヶ月の月日が経ちました。相談していた当時苦しんでいた吐き気がようやく治まり始め、保健室にも通わないまま少し過ぎた頃。一つの事件が起きようとしていました。
いつものように、お母さんが仕事に出かけてしまうと智樹さんが動き出します。遥ちゃんの体を背後から抱きしめ、その胸やお腹を優しく撫でていくのです。それがはじまりの合図でした。
胸を撫でまわす手つきが徐々に激しくなっていきます。その唇が遥ちゃんの口を塞ぎました。口の中に入り込んでくる舌は温かく湿っていて不思議な感触がします。けれど遥ちゃんはもうそれを拒絶しません。
「最近ちょっと太った?」
「そんなこと――」
「僕は今の方が、ガリガリに痩せてた時より好きだな」
「そ、そう?」
「うん。やっと普通って感じ。お腹が出てるのはちょっと気になるけど、体型のこと考えたら今の方がバランスがいい」
服の下を蠢く大きな手。それが少し丸く膨らんだお腹を優しく撫でます。おへその辺りに口付けされると、遥ちゃんの体がピクリとはねました。今度は遥ちゃんの方から智樹さんに手を伸ばします。その時です。
ガチャリと小さな音を立てて玄関が開きます。廊下からリビングへと向かう慌ただしい音が聞こえます。遥ちゃんと智樹さんがそれに気付いた時にはもう既に手遅れでした。
「智樹……? 遥?」
リビングに駆け込んできたのはお母さんです。目の前には少し顔を赤くした遥ちゃんと、そんな遥ちゃんの服の下をまさぐる智樹さんの姿。予期せぬ二人の姿にお母さんの顔が一瞬にして赤に染まります。
智樹さんがお母さんを見て慌てて遥ちゃんから離れます。無理やり口角を上げて笑顔を貼り付けました。けれどどんなに智樹さんが笑いかけてもお母さんの怒りは収まりそうにありません。
遥ちゃんはその場から動きません。代わりにギュッと固く目を閉じます。お母さんの手が遥ちゃんの服を胸元まで持ち上げると、少し膨らんだお腹があらわになりました。お腹の下の方にはヒビと見間違えてしまいそうな傷跡がいくつも出来ています。
「私の智樹に手を出すんだ。ここまで育ててやった恩も忘れて、私から男奪うんだ」
「違うんだよ。遥ちゃんは――」
「智樹は黙ってて。……このお腹は何?」
「何って――」
「人の恋人に手を出した挙句恩を仇で返すわけだ。へぇー」
お母さんの言っている意味がわからず、遥ちゃんは混乱してしまいます。けれどそんな遥ちゃんの気持ちそっちのけで、お母さんは手を挙げました。バチンと大きな音が部屋に響きます。
お母さんの顔は真っ赤でした。今にも泣きそうな顔で遥ちゃんを見下ろしていました。けれど遥ちゃんはそんなお母さんのことを見ることができません。目を合わせるのが怖いと感じているからです。
「出てけ。今すぐ出てけ! 二度と帰ってくんな! ほら、早く家出てく準備するんだよ、遥」
お母さんが遥ちゃんの体を引きずります。遥ちゃんのリュックを引っつかむと教科書やら本やら、遥ちゃんのものと思わしきもの全てを突っ込んでいきます。一時間後には、ランドセルを前に、リュックを後ろに背負った遥ちゃんは家から放り出されてしまいました。
遥ちゃんはいつも、帰りのホームルームが終わるとすぐに帰宅していました。お昼休みも誰かと話すことなく、本がお友達です。遊びに行くような相手はいません。
追い出されたばかりの家。そのインターホンを何度か押すけれど、誰も応じてくれません。代わりに家の中からは耳を塞ぎたくなるような物音がします。家の中にはもう遥ちゃんの居場所はありません。
今まで遥ちゃんを守ってくれていた智樹さんは家の中です。お小遣いを貰ったことの無い遥ちゃんにはご飯を買うためのお金もありません。今は夜の六時。このままでは外で寝ることになってしまいます。
ドアノブに頑張って手を伸ばして回してみました。けれども扉はビクともしません。扉にピタリと耳をくっつければ、智樹さんとお母さんが言い争っている声がしました。ドアノブの音にも気づかないようです。
(こういう時、どうするのがいいんだろう)
頼れそうな人として真っ先に浮かんだのは、いつだったか悩み相談に訪れた保健室のことでした。もしかしたらまだ鳥海先生は学校にいるかもしれません。けれど暗い夜道をいつもより重い荷物を持って移動することはかなり危険です。
(明るくなってから、学校に行こう。そこで鳥海先生に……)
ここまで考えてからふと気付きます。前に保健室を訪れた時、遥ちゃんは智樹さんとの関係を言えずにいました。今の遥ちゃんを見たら、鳥海先生はお母さんと同じような反応をするでしょうか。それとも優しく遥ちゃんを受け止めてくれるでしょうか。
(とりあえず学校に行かなくちゃ。鳥海先生に会わなくちゃ。それまで、家の前にいよう。もしかしたら途中で気が変わって家の中に入れてくれるかもしれない)
お母さんが仕事に行くために家を出るかもしれません。お母さんが寝たら、優しい智樹さんがこっそり遥ちゃんを家に入れてくれるかもしれません。そんな淡い期待を捨てきれないまま、遥ちゃんは玄関近くにうずくまります。
丸くなったお腹がつっかえて体育座りだと苦しくなります。お腹と背中に背負っている荷物は枕や布団の代わりにするには硬すぎました。遥ちゃんが寝ようともがく間にも夜は更けていきます。
どうにか一晩を明かすと、遥ちゃんはグーグー音を立てるお腹を宥めながら保健室までやって来ました。保健室にはもう鳥海先生が来ていて、保健だよりを作成しています。
ランドセルの他にリュックを抱えた遥ちゃん。その丸くなったお腹を見るやいなや、鳥海先生の顔色が変わりました。けれど遥ちゃん自身は事の重大性に気付いていません。
「何があったの!」
「お母さんに家、追い出されちゃいました」
「そこじゃないでしょ。遥ちゃん、そのお腹どうしたの?」
「最近太っちゃったみたいで……」
鳥海先生は遥ちゃんをベッドの上へと案内しました。ベッドに座らせると、そのベッドをカーテンで囲います。そしてまず追い出された時に持たされた、見るからに重そうなリュックとランドセルを床に置きました。
遥ちゃんのお腹はスイカ程とはいきませんが膨らんでいます。その膨らみがただ太っただけではないことくらい、知識のある人が見ればひと目でわかります。問題は本人がそれを自覚していないことと、すでに手遅れであることでした。
「遥ちゃん。ここに来ない間に何があったのか教えてくれるかな?」
「家でね、お母さんと智樹さんと三人で住んでるの。智樹さんがいればお母さんはちゃんとご飯用意してくれるんだ」
「うん。でもどうして追い出されることになったの?」
智樹さんがお母さんの恋人であろうことは容易に想像がつきます。それでも数ヶ月前までは、鳥海先生が聞いた限りでは上手くいっていたはずなのです。智樹さんが来てからはお母さんの
「智樹さんがお母さんと一緒にいてくれるために、私に約束したの」
「約束?」
「私がちゃんとすれば、いてくれるって。智樹さんがお母さんといるかは私次第なんだって」
「……何をするの?」
遥ちゃんに問いかける鳥海先生の声は震えていました。初めて来てくれた時言いたがらなかった智樹さんとのこと。言うのを躊躇った時点でその内容なんて想像出来たのです。けれど誘導したと思われたくなくて、鳥海先生はあえて深くは聞きませんでした。
あの時誘導になるかもしれなくても話を聞いていれば、遥ちゃんの体調不良をただの風邪と判断しなければ、何かが変わったかもしれません。目の前で助けを求めていたのに詳しいことを知らないからと手を差し伸べ無かった、自分の決断を今になって鳥海先生は悔やみます。
「胸とか触ったり、下着脱がされたり……。智樹さんの、棒みたいなものを、袋みたいなのを付けてから、――ここに入れたり」
遥ちゃんの指がスカートの中を示します。その姿が、かつて相談に乗った一人の少女に重なります。その時の子は、映像がネットに流出してしまい、取り返しのつかないことになっていました。
「カメラとかはない?」
「カメラ? そういうのはないよ。けど毎日、同じことするの。お母さんがお仕事に出かけると決まって、同じこと繰り返すの」
遥ちゃんは撮影をされていないようです。けれど遥ちゃんの膨らんだお腹は間違いなく智樹さんが原因です。そもそも大人が遥ちゃんのような子供を犯すこと自体がおかしいのです。避妊具を付ける付けないの問題ではありません。
もう少し早く気付けたなら、今のこの状況は回避出来たでしょうか。せめて手遅れになる前になんらかの対応をすることは出来たかもしれません。相談に乗っていたのに阻止出来なかった、その事実が鳥海先生の心を苦しめます。
「そうすればね。智樹さん、お母さんといてくれるの。智樹さんがいなくなると、お母さんはまた昔に戻っちゃうの」
「うん」
「ゴミを漁るのは辛いから。私、お母さんと二人きりじゃなくて、智樹さんを選んだの」
智樹さんがいなくなればお母さんの育児放棄が始まります。けれど智樹さんにいてもらうには、遥ちゃんの体を智樹さんに捧げなければなりません。遥ちゃんには逃げ場なんてなかったのです。
「だけど智樹さんとのこと、見つかっちゃったの。お母さんに見つかっちゃったの。そしたらお母さん、怒ってね。私のこと追い出したの。インターホンどんなに鳴らしても開けてくれなくて、鍵も無いから家に入れなくて」
お母さんからすれば恋人を寝取られたようなものです。智樹さんと遥ちゃんの関係をそう簡単に認められるはずがありません。加えて元々遥ちゃんを
何も知らない幼い少女に何から説明するべきでしょう。その体で起きている事についてか、智樹さんとの関係についてか、これから鳥海先生がすることについてか。鳥海先生は遥ちゃんに優しい笑顔を向けたまま考えます。けれどいくら考えても最適な答えは見い出せそうにありませんでした。
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