龍斗くん4
その朝、凪ちゃんはアラームが鳴るより早く目覚めました。息を殺して耳をすませてみますが物音が聞こえません。音を立てないようにそーっと寝室の扉を開け、様子を伺います。
お父さんの姿は見えません。もうお仕事に向かったのでしょう。龍斗くんの姿も見えません。凪ちゃんは龍斗くんの様子を見に、リビングへと移動を始めました。
足を踏み入れて最初に感じたのは鼻にツンとくる強い臭いです。臭いのする方へと視線を向ければ、尿で出来た水たまりの中で動かない龍斗くんがいます。お父さんの姿はありません。
『にーちゃんがもし、何しても目覚めなかったら、鳥海先生に』
龍斗くんが何度も言っていた言葉を思い出し、鼻をつまみながら龍斗くんに近寄ることにしました。
軽く皮膚を引っ張ります。ペチンと弱く頬を叩いてみました。見ているだけで痛々しい青紫色の痣を怖々と押してみました。心の中で謝りながら胸元に乗っかってみます。けれども龍斗くんは少しも動きません。
「にー、ちゃん?」
昨日よりも腫れている顔。首には薄らとですが指の跡が残っています。真新しい傷は少し触れただけで出血してしまいます。そんな龍斗くんの変わり果てた姿に、凪ちゃんは混乱するばかりでした。
肩を叩いてみたり体を揺すったり。龍斗くんの傍から離れようとしません。昨日何度も言われた「何をしても目覚めない」状態です。微かに胸が上下していますが、今の龍斗くんの状態が良くないことくらいは凪ちゃんにもわかりました。
「にーちゃん! なー、鳥海先生、電話するから。待ってて」
凪ちゃんは立ち上がるとリビングにあった子機を手に取ります。けれど電話のかけ方を知りません。説明書はありますが、漢字が多くて凪ちゃんには読めません。頼りの龍斗くんは今、会話が出来ません。
頼りない手つきで、頭の中で何度も繰り返した鳥海先生の連絡先の番号を押していきます。赤と緑、二つの電話を模したマークがありました。凪ちゃんは勘を頼りに緑色のボタンを押します。すると、電話がコール音を奏で始めました。
「はい、鳥海です」
「鳥海先生、助けて」
「……その声、凪ちゃんかな? どうしたの?」
「にーちゃん、起きないの。叩いても、呼んでも、起きないの」
「救急車呼ぶから、お家で待ってて。私も今から向かうから」
「先生、にーちゃん……にー、ちゃん……」
「凪ちゃん。凪ちゃんの家のインターホンに、モニターは付いてるかな?」
「付いてる」
「じゃあ、私が救急車の人と一緒にインターホン鳴らすから、そしたら鍵を開けてね。それまで待てる?」
「うん」
「出来るだけ急ぐからね」
電話から聞こえたのは保健室で何度も聞いた鳥海先生の声。けれどその内容は穏やかではありません。救急車がどんな車かは凪ちゃんでも知っています。誰が龍斗くんをこんなにしたのかも気付いています。凪ちゃんは龍斗くんの傍で大人しく待つことしかできません。
凪ちゃんは鳥海先生と一緒に病院にいました。鳥海先生の隣には見たことのない大人がいます。スーツ姿をしたその大人が怖くて、鳥海先生の後ろに体を隠しました。鳥海先生の背中からこっそりと顔だけをのぞかせます。
「すみません、本日そちらに伺おうと思っていたのですが……」
「私の方こそ、すみません。無理を言ってでも昨日のうちに来ていただくか、せめて私が保護していればこんなことには……」
スーツを着た大人は児童相談所の職員さんです。そしてこの職員さんは鳥海先生の知り合いでもありました。二人は龍斗くんの怪我にショックを受けているように見えます。
昨日、龍斗くんは「お父さんから一緒に逃げる」という選択肢を凪ちゃんに教えてくれました。「あと数回寝たら逃げられる」と聞いていました。まさか逃げるより先に龍斗くんが起きなくなるとは、誰一人思わなかったのです。
「谷口凪ちゃん、かな」
「……うん」
「お兄ちゃんが起きるまで、おじさんと一緒に安全な所に行かない?」
「……や」
「嫌?」
「にーちゃんと、離れるの、嫌!」
「……でもきっとお兄ちゃんは、凪ちゃんが傷つくのを嫌がると思うんだ。だからまずは凪ちゃんだけでも、お父さんの所から離れよう」
「でも、でも、にーちゃん……」
お父さんが何をしているのか知っています。お父さんから逃げたくないわけではありません。けれど凪ちゃんが一番恐れているのは、龍斗くんと離れることなのです。
「龍斗くんは……」
「脳に異常はないとのことですので、今日か遅くても数日中には目覚めると思います。怪我が完治するのはまだまだ先ですが」
「うーん」
凪ちゃんは龍斗くんが目覚めるまで離れようとしないでしょう。けれど目覚めたところで、龍斗くんは少しの間入院しなければなりません。そのあとも治療のためにしばらくは病院に通わなければいけません。
凪ちゃんを一人にするわけにはいきません。職員さんは凪ちゃんを一時保護するために鳥海先生の所へとやってきたのでした。龍斗くんも退院したらそのまま一時保護されます。
虐待の証拠は龍斗くんの体です。これまで必死に耐えてきたその体には数え切れないほどの傷があります。今回の一件もあるため、お父さんの元に戻されることはほぼないでしょう。ですがその後二人が一緒にいられるかとなると話は変わってきます。
「凪ちゃん。龍斗くんが言ってた逃げる場所は、この人がいるところなんだ」
「そーなの?」
「うん。だから、龍斗くんの怪我が良くなるまでは、凪ちゃんが先に行って待ってよっか」
職員さんに怯える凪ちゃんに気付き、鳥海先生が優しく声をかけます。鳥海先生は凪ちゃん達の通う小学校の養護教諭で、困った時にはよく助けてくれます。初めて見る職員さんの言葉は信じられませんでしたが、鳥海先生の言葉は不思議と信じられました。
「にーちゃんに、会いたい」
「少しの間、待とうね。怪我が治ったら会えるからね」
「にーちゃん……」
「すみません、凪ちゃんをよろしくお願いします」
「こちらこそ、通告されたのに対応が間に合わず申し訳ありませんでした。龍斗くんの方は治療が終わり次第一時保護所で保護します」
「お願いします」
鳥海先生は職員さんに頭を下げます。凪ちゃんが鳥海先生の背中からゆっくりと出てきて職員さんの様子を伺いました。けれど近寄ろうとしません。
「もしかして、おじさんは怖いかな?」
職員さんの問いかけに凪ちゃんはコクリと頷きました。
「どうして怖いのかな?」
「パパ、みた、い」
「パパ?」
職員さんの問いかけに再び凪ちゃんが頷きます。
「にーちゃん、攻撃する、パパ、嫌い。なー、怖いの。鳥海先生、助けて……」
凪ちゃんには職員さんとお父さんが重なって見えるようです。物心ついた時から虐待の現場を見てきたからでしょう。大人の男性に脅えているように見えます。これには職員さんも苦笑いするしかありません。
「女性の職員が龍斗くんの方を対応してるので、迎えに来れるか確認してきます」
「すみません」
ここで無理強いするのは良くないと判断したのでしょう。職員さんは凪ちゃんが怯えないようにと女性の職員さんを探しに向かいます。職員さんが場を離れると、凪ちゃんが不安そうに鳥海先生の顔を見上げました。
「あのね、違うって、わかってる」
「うん」
「けど、怖い。にーちゃんがされてたこと、思い出しちゃうの」
「うん」
「なー、知ってた。にーちゃん、大丈夫じゃ、なかった。なーのせいで、にーちゃん……」
凪ちゃんは龍斗くんが無理していることに気付いていました。けれど「大丈夫」と言い張る龍斗くんに従うことしか出来なくて、寝室でお父さんに怯えることしか出来ませんでした。
「ごめんねって。にーちゃんにごめんねって、しなきゃなのに……言えないまま、にーちゃんと、バイバイしちゃう。なーは――」
「凪ちゃんは悪くないよ。龍斗くん、凪ちゃんのこと怒ってない。凪ちゃんがこうして元気でいることが、龍斗くんにとって一番大切なことなんだよ」
泣き始めた凪ちゃんのことを鳥海先生は優しく抱きしめました。胸の中では「ごめんね」とくぐもった声が聞こえます。けれど鳥海先生には、震える凪ちゃんの背中を優しく撫でることしか出来ないのでした。
凪ちゃんが保護されてから少し経った頃のこと。龍斗くんは無事に意識が回復し、運良く凪ちゃんと同じ一時保護所で保護されることとなりました。今日は龍斗くんが一時保護所に移動する日です。
目覚めた龍斗くんが真っ先に心配したのはお父さんではなく凪ちゃんの安否でした。無事に保護されたと知ると安心したように顔に負の感情を出しました。凪ちゃんと少しでも早く会うために、出来るだけ安静にして今日という日を迎えました。
その顔はもう青紫色に腫れてはいません。残念ながら歯は欠けたままですが、いくつか傷跡が残ってしまいましたが、パッと見ただけでは元気な小学生とそう変わりありません。
職員さんに連れられてやってきたのは子供達がたくさん集まる部屋でした。泣き叫ぶ子供、静かに本を読んでいる子供、何をするでもなくぼーっとしている子供。様々な子供がいます。今は自由時間なのでしょう。会話をする子供達もいます。
自己紹介のようなものはありませんでした。集団生活をしている子供達の中にいきなり混ざるようなものです。最低限の注意事項を説明されて部屋に連れられた龍斗くんは、すぐに部屋のあちこちに目を動かします。
探しているのはただ一人だけ。龍斗くんのことを「にーちゃん」の愛称で呼ぶ可愛い妹。別れの挨拶も出来ないままに、目覚めたら離れ離れになっていました。離れていたのは時間にして一ヶ月くらいでしょうか。少しでも早く会ってその無事を確かめたい。その一心でした。
「に……に、ちゃ……にー、ちゃん?」
「なー? 凪?」
お世辞にも広いとは言えない部屋で二つの声が重なりました。視界に映る全てがスローモーションに見え、互いの声以外の音が途絶えました。二人分の瞳が宙で確かに交わります。
凪ちゃんは部屋の隅で大人しく座っていました。部屋にあるおもちゃで遊んだりせずに、黙って静かに扉の方を見ている子供。その姿を視界に入れるや否や、龍斗くんは早足で近付きます。腫れていない顔を近付けてその頭を優しく撫でました。
「凪。無事で、よかった。最後まで傍にいれなくて、ごめん」
「なーも、ごめんね。にーちゃん、大丈夫、じゃないって、知っでだ、のに……」
「いいんだよ。凪は謝らなくていいんだ」
床に膝をつくとその小さな体を抱きしめます。最後に会った時より少し痩せた気がするのは気のせいでしょうか。背も少し伸びたような気がしました。龍斗くんは凪ちゃんの肩に顎を乗せ、耳元で言葉を紡ぎます。
「死ぬ前に、凪だけは、助けなきゃって。あいつから、離さなきゃって」
龍斗くんの瞳から零れた涙が凪ちゃんの肩を濡らします。これは龍斗くんが凪ちゃんの前で初めて見せる弱々しい姿でした。
「にーちゃん、いないの……いや」
「もう、大丈夫、だから。――もう、凪を置いて、どこにも、行かない、から。もう、あいつは、いない、から」
「なー、怖かった」
「……本当は……にーちゃんも、怖かった。凪が、いたから……今日まで、頑張れた」
守ってくれる大人は誰もいない中、たった一人で凪ちゃんのことを守り続けた龍斗くん。本当は誰かを頼りたかったでしょう、怖かったでしょう。けれど凪ちゃんを不安にさせないために、そんな素振りすら見せずに今日まで耐えてきたのです。
凪ちゃんも龍斗くんも泣くことしか出来ませんでした。お父さんの元から逃げられたこと、今日まで生き延びたこと、一時保護所で再会出来たこと。ただそれだけが嬉しくて。込み上げてくる涙を抑えることが出来なくて。
「心配、がげで、ごめん」
龍斗くんの言葉は凪ちゃんの耳に心に、確かに届きました。
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