エピソード4 日和見少女
由貴ちゃん1
ガシャンと何かの割れる音がリビングに響きます。音に反応して「ヒャッ」と小さな悲鳴が口から飛び出しました。慌てて口を手で塞いでソファに隠れ、こっそりと音のした方向を窺います。
視線の先には目を釣りあげたお母さんがいました。何かを投げた後なのでしょう。何かを握るような形をした手が真正面へと伸びています。お母さんの肩は激しく上下していました。
お母さんとソファの間には割れたコップが落ちています。幸いにも中身は空っぽのようですが、床に散らばったガラスの破片は照明でキラキラと輝いています。
「こんの、クソガキー!」
お母さんのヒステリックな叫び声が聞こえました。ギョロリと動く目はソファの影に隠れる女の子を見て動きを止めます。かと思えば女の子に近付いてきました。その足音がやけに大きく聞こえるのは怯えているせいでしょうか。
(また始まっちゃった)
お母さんが声を荒らげるのも物を投げるのも今日が初めてではありません。お母さんを怒らせないように常に顔色を窺って、怯えて生活する。由貴ちゃんはそんな臆病な子供でした。
お母さんの手が由貴ちゃんの胸ぐらを掴みます。次の瞬間、血管が浮き出る程強く握られた拳が由貴ちゃんの鼻を潰しました。鼻からダラりと血が垂れてきます。鼻血はお母さんの拳にも付着しました。
予期せぬ血に動揺したのでしょうか。釣り上がっていたお母さんの目が元のアーモンド型に戻ります。拳に付いた血と由貴ちゃんの鼻から流れる血が、お母さんの服に赤い染みを作ります。
「由貴、ごめんね」
我に返ったお母さんが由貴ちゃんの小さな体をぎゅっと抱きしめます。その手が由貴ちゃんの背中を優しく撫でました。さっきまで怒っていたのが嘘のように優しくなるお母さん。由貴ちゃんはそんなお母さんの服を怖々と掴むのでした。
お母さんは急に不機嫌になって叫んだり暴れたりします。けれどふとしたきっかけで機嫌が治り、表向きの優しいお母さんに戻るのです。由貴ちゃんにはどっちが本当のお母さんかわかりません。けど、怒っているお母さんより優しいお母さんの方が好きです。
「由貴こそ、ごめんなさい」
由貴ちゃんはお母さんに謝ります。それがお母さんの機嫌を損ねない一番の方法だからです。だけど謝るのは優しいお母さんでなければいけません。怒っているお母さんに謝れば、お母さんがさらに暴れるだけだからです。優しくなったお母さんが由貴ちゃんの頭をそっと撫でてくれました。
由貴ちゃんは臆病な子供です。カラスやハトが歩道にいたらその道は怖くて通れません。雷が鳴っていたら怖くて外に出られません。そんな由貴ちゃんが一番怖がっているものがあります。それは模試の結果発表でした。
地元の小学校に通う由貴ちゃんは特に行きたい学校があるわけではありません。けれど学校が終わると毎日のように学習塾に通います。これはお母さんが決めたことでした。
「今勉強を頑張れば全部上手くいくの。由貴は頭だけは良いんだから、そのレベルに見合った中学校に行かなくちゃ。ね?」
お母さんに受験することを求められたのはいつのことでしょうか。由貴ちゃんにはもう思い出せません。遠い昔のように思えます。
学習塾では定期的に模試や塾内の試験が行われ、その順位が掲示板に張り出されます。そして成績に応じて生徒を三つのクラスに分けるのです。学力の高い中学校に行くには実力別のクラスで一番上にいなければなりません。
模試の結果が出るとお母さんはイライラし始めます。模試の結果が出るとすぐにクラスの再編が行われるからです。お母さんが由貴ちゃんに求めたのは一番上のクラスにいることと、難関中学校に合格することでした。
最初の頃、成績が少し下がったりしたくらいでは何も言われませんでした。けれどいつからか成績が下がれば文句を言われるようになり、いつしかその文句には暴力や脅しが加わるようになりました。ましてや、最近の由貴ちゃんの成績は下降気味です。
今日はそんな、由貴ちゃんの大嫌いな模試の結果発表の日でした。学習塾へと向かう足取りは重々しく、今にも泣き出しそうな顔をしています。けれど休んでしまえば家に連絡がいき、お母さんに無断欠席したとバレてしまいます。由貴ちゃんに逃げ場はありませんでした。
(順位が下がっただけで怒られるのに、クラスまで下がったらお母さんどうなるんだろう?)
お母さんの中には悪魔がいます。悪魔はお母さんが不機嫌になるとその体を乗っ取ってしまいます。そして由貴ちゃんのことを叩いたり蹴ったり噛み付いたりしてくるのです。悪魔のせいで服の下は傷だらけでした。
いい中学校にいって、いい高校にいって、いい大学にいって、いい企業に入る。それがお母さんが毎日のように言う、由貴ちゃんの歩むべき人生です。けれど由貴ちゃんにはそれのどこがいいのかも、どうしてそうしなきゃいけないのかもわかりません。本当は受験勉強だって、したくありません。
お母さんのことを考えていると、あっという間に学習塾のある建物に着いてしまいました。もう逃げられません。由貴ちゃんは唇を噛み締め、目的のフロアへと移動します。
由貴ちゃんの通う学習塾はワンフロア丸々使用しています。エレベーターを降りればそこはもう、学習塾です。エレベーターを降りて真っ先に目に付くのは、模試の順位などを貼り出す掲示板でした。
掲示板には最新の順位表とそれに伴う新しいクラス分けが発表されています。今日の授業からは新しいクラスで行われるため、無視することは出来ません。掲示板の前に立った由貴ちゃんは恐る恐る掲示板を見上げます。
由貴ちゃんはこれまで一番上のクラスに所属していました。得意科目では一位二位を争うほどで、順位表を見るのも怖くありませんでした。けれど今は違います。少しずつ長い時間をかけて、だけど着実に、由貴ちゃんの成績は下降していました。
「……あっ」
まず初めに一番上のクラスの名簿を見ます。けれどそこに由貴ちゃんの名前はありません。視線を少し横にズラして、真ん中のクラスの名簿を見ます。けれどそこにも由貴ちゃんの名前はありません。恐る恐る一番左側に貼られた、一番下のクラスの名簿を見ます。一番下のクラスの上から三番目に由貴ちゃんの名前がありました。
クラスが落ちることは想定していました。けれど、一気に二つもクラスが下がるとは思っていませんでした。お母さんが望む難関校に行くには、一番上のクラスにいなければなりません。これから配られるであろう模試の結果を想像すれば胃が痛くなります。
お母さんは成績を見て何を思うでしょう。お母さんの中にいる悪魔が体を動かして、由貴ちゃんにお仕置きをするに違いありません。こんなに成績が落ちたのは初めてです。きっと今まで以上に怒られ、暴れるでしょう。
決して勉強を疎かにしたわけではありません。学習塾に休まず通って、小学校にも休まず通って、家に帰ってからも机に向かって宿題や課題をこなして、毎日眠い目を擦りながら道を歩きます。
けれど成績は思うように伸びてはくれません。それどころか、由貴ちゃんが頑張れば頑張るほど成績が落ちていくのです。そして成績が落ちれば落ちるほど、お母さんは由貴ちゃんに辛く当たるのです。
(家に帰りたくないな)
あと数分もすれば学習塾での授業が始まります。新しいクラスで模試の結果が配られます。そして授業が終わればもう、急降下した模試の結果を持って家に帰るしかないのです。怖い怖いお母さんが待っていて逃げたいと思っても、帰る場所は一つだけしかありません。
今日は何をされるでしょう。お母さんはいつになったら悪魔から解放されるのでしょう。由貴ちゃんにできるのは、お母さんの言葉に出来る限り従うことだけ。そこに由貴ちゃんの意思は存在しません。
「優しかったお母さんに、会いたいな」
由貴ちゃんの呟きは周りの生徒達のざわめきに掻き消されました。
家の中は驚くほど静かでした。リビングではお母さんが静かに模試の結果を見ています。由貴ちゃんは少し離れたところで棒立ちになり、お母さんの言葉を待っていました。
お母さんが大きなため息をつきました。かと思えば由貴ちゃんへと近付いてきます。次の瞬間、お母さんは由貴ちゃんの髪の毛を引っ掴んでその体を後ろへと引っ張り始めました。ブチブチと髪の毛の抜ける音がします。
「痛い! 痛い! ねぇ、お母さ――」
「成績が下がったならもっと勉強しないとね」
由貴ちゃんが泣き叫んでもお母さんの手は止まりません。お母さんは由貴ちゃんの髪を掴んだままです。お母さんに引きずられてやってきたのは、由貴ちゃんの部屋でした。
参考書や問題集、勉強に関する本ばかりが並べられた机。漫画やゲームといった娯楽になりそうなものは何一つ部屋にありません。由貴ちゃんが学習塾に通うことになった時、お母さんが全て捨ててしまいました。
由貴ちゃんのお腹が大きな音を立てます。学習塾に行っていた由貴ちゃんはまだ夕飯を食べていませんでした。お腹が空きすぎて体に上手く力が入りません。けれどお母さんはそれを無かったことにして由貴ちゃんを机に座らせます。
「お母さん、お腹空いた」
「二つもクラスが下がったの。一番上に戻るには、ご飯も寝る時間も削って勉強するしかないの!」
「でもお腹が減って――」
「口答えする間があったら勉強しろー!」
いつもなら帰ってきてから夕飯を食べます。けれど今日はそれが許されないようです。きっと、布団に入ることも許されないでしょう。少し言葉を返せばお母さんの拳が飛んできます。
グーパンチで殴られた鼻からはドロりとした血が垂れてきます。けれどもそんなこと、お母さんは気にもしません。部屋にあるだけの問題集を集めると机の上に積み上げます。
「今頑張らないと後で苦しむのは由貴なのよ?」
問題集を広げれば、白いページに赤い染みが現れます。鼻から流れる血が止まらないのです。けれどそんなことお母さんには関係ありません。
「いい中学に通って、いい高校に通って、いい大学に通って、そして安定したいい企業に務める。由貴のためを思って言ってるの。由貴が大人になって苦労しないために。わかる?」
お母さんの口から紡がれる「由貴のため」という言葉。けれどお母さんが見ているのは由貴ちゃんではなく由貴ちゃんの成績。将来を思っているのは本当なのでしょう。けれど、由貴ちゃんからすれば今のお母さんは夢や希望を奪い去る悪魔でしかありません。
由貴ちゃんはお母さんにバレないようにこっそりと、手のひらにシャーペンを突き立てます。皮膚に浅く刺さったシャー芯を中心として、鈍い痛みが走ります。その痛みが由貴ちゃんの心を辛うじてつなぎ止めていました。
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