由貴ちゃん2

 由貴ちゃんには仲のいい友達が何人かいます。休み時間になれば集まって話したり遊んだり。そんな何気ない時間が由貴ちゃんは大好きでした。


「ねぇねぇ、皆同じ中学に行けるかな?」

「行けるよ。そしたらさ、クラスが違っても一緒にご飯食べよ」

「中学ってクラスの数、今より増えるんだよね? 寂しいなぁ」

「まだ離れるって決まったわけじゃないからね?」


 最近友達との間で話題に上がるのは中学校のことばかりでした。友達やクラスメートのほとんどが、地元にある公立の中学校へと進学します。別れるのは他の中学校を受験し、見事合格した人くらい。


 由貴ちゃんだって本当は友達と離れたくありません。難しい学校に行くより、今仲良くしてる友達といる方が楽しいに決まってます。本当は受験なんてしないで、友達と同じ公立の中学校に通いたいのです。


 でもそんなこと、とても口には出来ません。お母さんは怒るでしょう。悪魔に取り憑かれて手を上げるかもしれません。それが怖くて、いつからかお母さんに本当のことを言えなくなりました。


(受験なんてしなくていい。いい中学なんて通いたくない。『高校受験から頑張る』じゃダメなの?)


 由貴ちゃんは友達に見られないようにこっそりと左手を広げます。親指の付け根付近には不自然な小さなカサブタがありました。昨晩シャーペンを突き立てたせいです。今でもまだじんわりと痛みます。


 違う中学校に行かなければならないことも、そのために受験勉強をしていることも、友達には打ち明けられません。打ち明けたらどうなるのかを想像すると怖くなってしまうからです。


 受験すると知っても仲良くしてくれるかもしれません。知ったら由貴ちゃんはグループの裏切り者に、邪魔者になるかもしれません。打ち明けた後の人間関係が怖くて、あと一歩がいつも踏み出せないのです。


「ねぇ、由貴。放課後遊べる?」

「ごめんね。今日もお母さんに早く帰ってくるよう言われてるんだ」

「やっぱり? 由貴のお母さん、厳しいもんなー。卒業するまでに一回くらい、放課後に由貴を入れて遊びたいよね」


 由貴ちゃんが放課後の誘いを断るのは今日が初めてではありません。学習塾に通う前は毎日のように様々な習い事をさせられていました。ピアノ、英会話、水泳、書道、プログラミング、そろばん。何ひとつとして由貴ちゃんが自分からやろうとした習い事はありません。


 どの習い事もお母さんが強制的にさせていたものです。習い事をサボろうものならお母さんの体を乗っ取る悪魔が由貴ちゃんを攻撃します。けれどいつだって傷は服に隠れる場所にしか出来ません。


 蹴られたり叩かれたりして出来た青痣も。引っ掻かれて出来たカサブタも。噛み付かれた時に出来た、動物ではなく人の紫色の歯型も。全部全部、由貴ちゃんとお母さんしか知りません。とても他人には言えませんでした。


 由貴ちゃんは友達の前で必死に笑顔を作ります。けれどその指は昨晩作った傷口へと動いていました。爪でカサブタを剥がせば、鮮やかな血と共に鈍い痛みが走ります。


「由貴、怪我してるじゃん」

「保健室行った方がいいんじゃない?」

「消毒してもらった方がいいと思う」


 由貴ちゃんの左手を伝う血液。それに気付いた友達に促され、由貴ちゃんは渋々保健室へと足を向けることになりました。





 保健室には養護教諭の鳥海先生がいます。鳥海先生は女の先生で、生徒達に好かれています。いつも穏やかで優しくて、どんなくだらない話でもきちんと聞いてくれます。そんな鳥海先生が由貴ちゃんは少し苦手でした。


 コンコンとノックをすれば「どうぞ」と声がかかります。そっと扉を開いてみれば、鳥海先生が由貴ちゃんに笑いかけます。机の上には作りかけの「保健だより」がありました。


「どうしたの?」

「血が出ちゃって」

「あらら、カサブタが取れちゃったのね。ちょっと待ってて」


 由貴ちゃんの怪我は軽傷です。ちょっとカサブタが取れて血が出ちゃっただけの、なんてことない怪我。けれど鳥海先生は自分の仕事を放棄して由貴ちゃんの怪我を診てくれます。


 あっという間に消毒され、その上に絆創膏が貼られました。処置が終わってもまだ、鳥海先生は由貴ちゃんを見ています。由貴ちゃんの心を見透かすかのように、じーっと見つめます。


 次の瞬間、鳥海先生の手が由貴ちゃんの手首を掴みました。袖の下から醜いミミズ腫れが姿を現します。ミミズ腫れがあるのは左手首だけ。けれどそれはただのミミズ腫れではありませんでした。


 赤いミミズ腫れは綺麗なバツ印を描いていました。ただ引っ掻いただけではこうも綺麗なバツ印にはなりません。意図的に引っ掻いて描いたわけでなければ、こんなミミズ腫れにはなりません。


「怪我はいつから?」

「昨日から」

「何時頃かわかるかな?」

「……多分、夜の十一時くらい」

「このバツ印も?」

「…………これは、夜中の……何時かわからないです」

「昨日何時に寝た?」

「寝てないです」


 長袖に隠されるようにして描かれたバツ印。それは、眠らないようにと由貴ちゃん自らがシャーペンで腕を引っ掻いて出来た傷でした。どうしてバツ印にしたのかは由貴ちゃんにもわかりません。


 鳥海先生は由貴ちゃんから聞いたことを元に「保健室来室カード」を記入していきます。鳥海先生が聞いていることは全て来室カードの記入項目です。なのにどうしてか、由貴ちゃんには自分を責めているように聞こえてしまいます。


「こっちも包帯、巻いとく?」

「……大丈夫です」

「そっか。何かあったら遠慮なく来てね。あ、名前書くの忘れちゃった。お名前、教えてくれるかな?」

「新井由貴。四年二組」

「ありがとう。じゃあ由貴ちゃん、気をつけてね」


 鳥海先生は寝なかった理由を問い詰めはしません。怪我の理由を問い詰めはしません。生徒が自分の口から話すまで待っています。由貴ちゃんにはその優しさがちょっとだけ辛く感じました。


「また、来てもいいですか?」

「全然大丈夫。混んでる時は待ってもらうかもだけど、いつでも来ていいんだよ」

「カサブタが取れただけでも?」

「うん、それでもいい。怪我しっぱなしより、ここで手当した方がいいでしょ?」

「ありがとうございます」


 また来てもいい。いつでも来ていい。その言葉が嬉しくて、けれどちょっと怖くて。鳥海先生に由貴ちゃんの心の奥底まで見透かされそうです。


(バツ印のこと、詳しく聞かれなくてよかった)


 由貴ちゃんは怪我について詳しく聞かれる前に、逃げるように保健室を後にしたのでした。





 朝、ご飯抜きで出かけるギリギリまで机に向かいます。学校と学習塾では普通に過ごして、家に帰るとまたご飯抜きで机に向かいます。家にいる間はトイレもお風呂もお母さんが時間を管理しています。必要以上に長くなれば怒られます。


 だけどお母さんは気付きません。由貴ちゃんの左腕に刻まれたバツ印も、左手にあるシャーペンを刺した時の傷も、全く気付きません。お母さんには由貴ちゃんの成績しか見えていないようです。


 お部屋で勉強している間だけ、少し自由になります。けれど時々お母さんが抜き打ちで部屋に入ってきてちゃんと勉強しているのか確認するので、勉強をサボることは出来ません。


 由貴ちゃんは勉強の合間にシャーペンを使って腕に引っ掻き傷を作ります。シャー芯が出ているせいか少し黒いその傷跡は決まって同じ場所でバツ印を描きます。袖に隠れる場所にしたのは、何となくでした。


(やりたくないよ。勉強、嫌だ。受験なんてしなくていい。どうしてしなきゃいけないの?)


 腕にバツ印の引っ掻き傷を作ると心が少しスッキリしました。引っ掻き傷から赤い血が滲むようになると安心しました。左手にシャーペンを突き刺せば、その痛みが胸の内のモヤモヤを打ち消してくれます。


 今日も、由貴ちゃんはシャーペンで皮膚に傷をつけていきます。シャー芯は出したまま、ちょっと力を込めてペン先を動かせば皮膚が薄くめくれます。それを何度か繰り返すと引っ掻き傷になり、ちょっと時間が経つとミミズ腫れになります。


(次のテストで良くない結果だったらまた怒られちゃう。結果を出さないと、また……)


 次のテストのことを考えると胃や頭が痛くなりました。けれど由貴ちゃんには人の倍以上机に向かって勉強する以外の選択肢はありません。お母さんはそれを望んでいます。


 お母さんのこと、成績のことを考えれば考えるほどシャーペンで腕を引っ掻く力が強くなります。傷口からは既に血が出てきていて、ペン先を赤く染めていました。それでもシャーペンで同じ場所を引っ掻き続けます。


 由貴ちゃんのしているそれは自傷行為と呼ばれるものでした。世間的に良くないとされている、自分を傷つける行為。けれど由貴ちゃんにとってそれは、勉強というストレスに耐えるための、心を守るための手段です。


 腕に刻まれたバツ印は誰かに向けたメッセージのようにも見えました。赤い線で作られたバツ印は袖の下に隠され、由貴ちゃんは再び問題集と睨めっこを始めます。





 由貴ちゃんは小学四年生です。学習塾でも小テストや模試を受けますが、校内で定期的に行われるテストのことも忘れてはいけません。授業がひとつの区切りを迎えると、テストが行われるのです。


 先日学習塾で所属するクラスが変わったばかりですが、今日は小学校で単元テストが返却される日です。算数の単元テストが返ってきます。由貴ちゃんは名前順にすると決まって最初の方になるため、返却されるのも早いです。


「新井由貴さん」


 算数の先生が由貴ちゃんの名前を呼んだのは、授業が始まって十分と経たない時でした。由貴ちゃんは震える手で答案を受け取ります。


「よく頑張りました」


 先生の言葉で答案に目を向けます。目に入ったのは赤丸がたくさん付いた答案。ですが――。


「けど惜しかったな」


 一問だけ計算ミスをしていたため、満点ではありません。由貴ちゃんの点数は黒板に書かれた学年最高得点と同じです。悪い成績ではないですが、由貴ちゃんは浮かない顔を見せます。


 答案を持つ手が震えました。着席するや否や、間違えた問題を食い入るように見つめます。何度見ても間違っています。しかも初歩的なミスによる失点です。


(お母さん、これを見たらなんて言うかな)


 模試の結果一つで取り乱したお母さん。きっと今回の単元テストの結果を見たら、また悪魔に乗っ取られてしまうでしょう。小学校に入ってからの四年間で由貴ちゃんは学びました。


 学年一位ではダメなのです。小学校のテストでは満点を、学習塾では一番上のクラスに入れるだけの成績を、お母さんは求めています。


「……なさい」


 授業中ですが、由貴ちゃんの口から小さな声がこぼれ落ちました。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 命乞いでもするかのように何度も何度も告げられる「ごめんなさい」。不自然に震える手足が、両目から溢れ出る涙が、由貴ちゃんの心が限界であると告げていました。


 算数の先生が由貴ちゃんの様子がおかしいことに気付きます。次の瞬間、由貴ちゃんの視界は真っ暗になりました。

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