遥ちゃん4

 遥ちゃんの話を聞いた鳥海先生の行動は迅速でした。聞いた話をまとめ、遥ちゃんの現状と家から追い出されて行き場がないことをすぐさま報告。ひとまず児童相談所に緊急で一時保護してもらえるか検討してもらえることになりました。


 問題はその後です。遥ちゃんは自分の身に起きていることを把握していません。証明するには病院のとある科に行く必要があるのですが、未成年の子供――小学三年生の子供が行くのはあまりにも不自然です。けれど遥ちゃんの様子を見るにあまり時間的余裕はありません。


 出来ることなら保護者が一緒に行くべきなのでしょうが、お母さんはきっとついてきてくれないでしょう。遥ちゃんの話を聞く限り、お母さんは遥ちゃんの今の状態を知った上で家から追い出しているのですから。


 智樹さんとお母さんに連絡を取ろうにも、学校からの連絡には応じてくれず留守電になってしまいました。意図的に出ようとしないのか、本当に出られないのか、折り返し電話が来るまで判断できません。その折り返し電話だって本当にかかってくるのかわかりません。


「鳥海先生。私、家に帰れるかな?」


 沈んだ声で呟く遥ちゃんを前にして、不安そうな顔は見せられません。鳥海先生は必死に作り笑いで場を取り繕います。けれども聞かれたことに対して否定も肯定もしません。嘘をついて変に期待を持たせるようなことはしたくありませんでした。


 電話が繋がるまで、お母さんがどう動くのかわかりません。智樹さんなる人物が今頃どうしているのかもわかりません。連絡がとれるかどうかに関わらず、数日中には現状の調査が始まるでしょう。おそらく、遥ちゃんは一時保護の対象となるはずです。そうなれば家には帰れません。


「遥ちゃんの話をもう少し聞かないと、何も言えないかな」


 なんとかそう言葉を濁すことしか出来ませんでした。病院に行かなければいけないこと、もう手遅れであること、下手すれば生命に関わる状態であること。遥ちゃんの身に起きていることの全てを伝えるのは、あまりにも難しすぎます。


 保健室の時計がチクタクと音を立てて針を動かします。遥ちゃんが来てからというもの、他の生徒は誰一人来ません。その不気味な静寂が、鳥海先生の不安を一層掻き立てるのでした。





 遥ちゃんは小学三年生。お母さんから身を守るためにと、お母さんの恋人にその身を委ねていました。その行為の意味、行為に伴う危険性も知らずにです。


 そのお腹には新たな命が宿っていました。誰もそのことに気付かないまま時間が過ぎ、もう中絶という形は取れません。遥ちゃんには望まぬ生命を産むという選択肢しか残されていないのです。


 そして産んだとしてもその子供を育てるだけの経済力はありません。お母さんは遥ちゃんを助けるどころか拒絶しています。お母さんの恋人だった智樹さんは、遥ちゃんがいなくなってから家を出ていったようです。


 遥ちゃんが説明されたことを理解し、納得するまで二ヶ月の時間を要しました。鳥海先生から説明されたのは一度だけ。その後は何度も自問自答を繰り返し、考えに考えて、ようやく理解することが出来たのです。その間にも遥ちゃんのお腹は大きくなり続けます。


 この二ヶ月の間、遥ちゃんはずっと同じ場所にいました。学校にも行かず、家にも帰らず、一時保護という名目で見知らぬ子供達と一緒に暮らしていました。どうにか理解したのは一時保護がいよいよ終わるという時のこと。


 一時保護期間が終了した遥ちゃんは、幸か不幸か児童養護施設へと移動することになりました。元いた小学校に通うことは出来そうですが、小学生には不釣り合いな大きいお腹がそれを良しとしません。遥ちゃんが真っ先に訪れたのは、保健室にいる鳥海先生でした。


「久しぶり、遥ちゃん」


 鳥海先生は今日も、保健室を訪れる生徒達に優しい笑みを向けています。遥ちゃんもその例外ではありません。久しぶりにみる笑顔が、その存在感が、不思議と遥ちゃんの心を穏やかにしてくれます。けれども体はとても穏やかとは言えませんでした。


 大きくなったお腹は不規則に、その一部が出っ張ります。赤ちゃんが手足を伸ばしているからです。もはやそれを服で誤魔化せるはずもなく、廊下を歩くだけでも注目の的です。


 これから生まれるであろう子供は残念ながら遥ちゃんとは暮らせません。遥ちゃん自身の今後のこともまだはっきりとは決まっていません。お母さんとの日々を良くするために遥ちゃんが犠牲にしたのは、他でもない自分自身でした。


「智樹さんがどこにいるか、知ってる?」

「知ってるも何も、先生は智樹さんて人のことを詳しくは聞いてなかったからな」

「……お母さんと私と一緒に暮らしてた人なんだ。智樹さんのこと、探してるの。」


 鳥海先生にこれまでのことと今後どうなりそうなのかを説明した遥ちゃんが唐突に切り出します。


 智樹さんは遥ちゃんをこんな状態にした犯人です。お母さんの恋人でしたが、今はもういません。遥ちゃんとの関係がお母さんに見つかり、逃げるように家を飛び出したそうです。


「どうして?」

「さよなら、言えなかったから。お礼も言えなかったから」

「お礼を言いたいの?」


 智樹さんが遥ちゃんにした行為は決して許されるものではありません。けれども遥ちゃんはそんな智樹さんにお礼を言おうとしています。どうしてなのか、鳥海先生はすぐに理解が出来ませんでした。


「智樹さんはね、私をお母さんから守ってくれたんだよ」

「だからお礼を言いたいってこと?」

「うん。お母さんにされたことより、智樹さんにされたことの方が嬉しかった。智樹さんだけだった、私を心配してくれたの。智樹さんがいたから、何されても我慢できたの」


 それは事が大きくなるまで話してくれなかった遥ちゃん自身の言葉。ようやく紡いでくれた、遥ちゃんが思っていたこと。鳥海先生は静かにそれに耳を傾けます。


「良くないことされてるって思ってた。だから言えなくて、けど気持ちよくて。途中からは私からお願いしたこともあった。慣れたんじゃないよ、きっと。だって、こうなるって知らなかった。だから、全部私のせいなの。お母さんが怒るのも当たり前で……」


 毎日同じことをされていればそれに慣れていくものです。けれども遥ちゃんは慣れではなく「自ら望んで 」と言いました。智樹さんとの行為の危険性も知らず、自らの意思で智樹さんに身を委ねたのだと。本当は「だから智樹さんは悪くない」と言いたいのでしょう。


 けれどもどんな理由であれ、最初に手を出したのは智樹さんです。お母さんから遥ちゃんを守ることを条件に、体の関係を求めたのは智樹さんです。この件に関しては智樹さんが悪いとしか言えません。


「ありがとうとごめんね。言えないまま、家から追い出されちゃったから……」

「そっか」

「戻ってきて最初に、今まで住んでいたところに行ったの。けどもう、お母さんはいなかった。誰も住んでなかった」


 どうやらお母さんは遥ちゃんが児童養護施設に入ることになると知り、早々に家を売ったようです。今頃どこで何をしているのか、もう誰にも分かりません。文字通りお母さんに捨てられた遥ちゃんに、鳥海先生はかける言葉が浮かびませんでした。





 誰にも相談出来なかったはずです。お母さんとの関係に苦しんで、どうにかしようともがいて。そうして辿り着いたのは、遥ちゃんとの肉体関係を求めていた智樹さんという人で。けれど今、自らの体の変化に戸惑う遥ちゃんを支える大人は誰もいません。


 遥ちゃんは智樹さんとのそれを本心で望んではいなかったはずです。少なくとも最初は拒絶していたはずです。そこに喜びを見出すようになったのは、遥ちゃんなりに環境に適応しようとした結果なのではないでしょうか。今遥ちゃんに必要なのは――。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 鳥海先生の温かな体が正面から遥ちゃんを包み込みます。頑張って背中に手を伸ばしたけれど、大きくなったお腹が邪魔をするから脇腹までしか手が届きません。それでも、鳥海先生は遥ちゃんを抱きしめて声をかけ続けます。


「怖かったね。辛かったね。たった一人でよくここまで頑張ったね」

「鳥海、せんせ?」

「自分を責めなくていいんだよ。遥ちゃんは悪くない。遥ちゃんはただ、毎日頑張って生きてただけじゃない。生きるために我慢して頑張って、頑張ったことに自分で気付かないくらいに頑張って……」

「そんなこと、ない」

「ある。生きててくれてありがとう。辛いことがあっても今日まで生きててくれてありがとう。生きるってね、凄いことなんだよ」


 温かい言葉をかけられたのは初めてでした。行為目的でない人の温もりを感じたのも初めてです。鳥海先生の言葉に、少しずつ心に刺さっていた棘が溶けていきます。


「嫌だった。怖がっだ。痛がっだ。でも、お母さん、もっど、怖ぐで」

「うん」

「最後の方、気持ちよかった。けど、慣れるまで、苦じぐで。お腹も、どんどん、大きくなるがら、怖ぐで。でも、誰にも、言えなぐで」

「うん」

「誰がに、気付いで、ほしがっだの。自分がら、言いだぐないげど、気付いで、ほじがっだ」


 溜め込んでいた言葉が想いが、涙と共に吐き出されていきます。誰かに気付いてほしくてSOSを出していた遥ちゃん。鳥海先生の勘は間違っていなかったのです。あの日初めて来た時に踏み込んだことを聞いていれば、遥ちゃんの現在いまは変わったのでしょうか。


 過ぎた時間を取り戻すことはできません、戻ることも出来ません。今になって「あの時こうしていれば」と後悔してももう遅いのです。けれども未来なら変えることが出来ます。鳥海先生は遥ちゃんを抱きしめる力を強めました。


「もう、これ以上隠さないで。辛いことも嫌なことも全部、一人で抱えちゃダメ。誰にでもとは言わないけれど……この人なら大丈夫って人に、お話ししよう?」


 思っているだけでは誰にも伝わりません。けれど中には遥ちゃんみたいに誰かに相談することが苦手な子もいます。我慢することに慣れてしまって、辛いことを辛いと感じなくなっている子がいます。


 そんな当たり前のことに、鳥海先生はようやく気づくことが出来たのでした。SOSの出し方も、するべき対応も、人によって全然異なります。遥ちゃんに必要なのは、「我慢せず吐き出すこと」を知ることです。


 鳥海先生の言葉に、遥ちゃんは小さく頷きました。小さな拳のようなものが鳥海先生のお腹の辺りを力強く叩きます。校内に授業開始を告げるチャイムが鳴り響きました。

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