葉子ちゃん4
葉子ちゃんが目を開けるとそこは保健室のベッドでした。温かくてふわふわとした布団と消毒液の匂いは不思議と心を落ち着かせてくれます。さっきまで鳥海先生と話していたはずなのに、いつの間にか寝てしまったようです。急いで起きて保健室にあるソファへと向かいます。
ソファでは鳥海先生とお母さんが真剣な顔で話していました。だけど葉子ちゃんの存在に気付いたのか、話を中断します。お母さんの苦しそうな顔と鳥海先生の穏やかな笑顔が葉子ちゃんの方を見ていました。
「お母さん、どうしているの?」
「私が呼んだのよ。葉子ちゃん、調子悪そうだからって迎えに来てもらったの。今日は一旦お家に帰りましょう。お母様もそれでいいですよね?」
お母さんに優しく問いかけていますが、鳥海先生の目は「何も言わず連れて帰りなさい」と告げています。その有無を言わせない雰囲気に、お母さんはそっと葉子ちゃんの手を握るのでした。
葉子ちゃんの家は遠くから見てもはっきりとわかります。というのも、お父さんが逮捕されてからというもの、家の扉には様々な貼り紙がされるようになったからです。それは昼の十二時であっても変わりません。
扉全体に貼られた紙には「死ね」「ロリコン」「犯罪者」「消えろ」などと書かれています。剥がしても剥がしても貼られてしまいます。玄関ポストにはたくさんの手紙が詰め込まれていました。この手紙の殆どはただの脅迫文です。中には葉子ちゃんの動画を焼き増ししたDVDを送り付けてくる人もいます。
特定されたのは住所や家族構成だけではありませんでした。葉子ちゃんとお母さんの顔もネットに公開され、お父さんが販売していた葉子ちゃんの動画は世界中に拡散されています。一度でもネットに広がってしまったものを完全に消し去ることは不可能に近いです。
「……ごめんね」
貼り紙に埋もれた鍵穴を見つけ、そこに鍵を差し込みながらお母さんが言いました。ガチャりと鍵を開ける音にちょっと胸が苦しくなります。結局、家の中に入るまで葉子ちゃんがお母さんに返事をすることはありませんでした。
お父さんのいなくなった家は、お父さんの私物が無くなった家は、どこか広く感じます。イタズラ対策のために固定電話の受話器もインターホンの受話器も外されています。窓はカーテンを閉めるだけでなくガムテープで目張りまでしてあります。
暗い部屋の中で、お母さんは葉子ちゃんの姿を捉えました。鳥海先生の前では少し穏やかな表情を見せていましたが、家に帰るとまるで別人のように無表情です。目の下に色濃く残るクマが、これまでの葉子ちゃんの生活を教えてくれます。
葉子ちゃんは夜、まともに寝れていませんでした。ある時はお父さんのベッドで、ある時は葉子ちゃんの部屋で、お父さんに襲われていました。何も無い日でもお父さんを警戒しているせいか熟睡なんて出来なかったのです。
お母さんはそんな葉子ちゃんを間近で見てきました。夜中に何が起きているかを知っていたのに、見て見ぬフリを続けてきました。お母さんの態度もまた、葉子ちゃんのクマを悪化させた原因の一つなのです。
葉子ちゃんはお父さんの手によって汚れてしまいました。その行為の意味も知らぬまま、カメラの前でされるがままになっていました。その心に深く刻まれた傷はそう簡単には癒えません。
「ごめんね」
「……でよ」
「葉子?」
「今さら謝らないで!」
お面のように作り笑いが貼りついた、感情のない顔。体が凍りつきそうなくらい冷たい眼差し。葉子ちゃんをこんな風にしてしまったのはお父さんとお母さんです。
「一度も止めなかったくせに。全部なかったことにしたくせに。謝るくらいなら止めてよ、助けてよ! 今になって謝らないでよ!」
ずっとずっと言うのを我慢していたのでしょう。葉子ちゃんは目から涙を流して、顔には作り笑いを貼りつけて、ぎゅっと力一杯拳を握ります。心と表情がチグハグになっていました。
「あの日、私のことを見て笑ってたよね。見たけど私にもお父さんにも何も言わなかったよね。助けようともしなかったよね。どんなことされてるか知ってたのに見ないフリして、今になって謝って…………もう遅いよ」
葉子ちゃんの裸姿は、お父さんと性行為をしている様子は、あちこちに出回っています。だから葉子ちゃんは後ろ指をさされる度に不安になります。「あの大人は私の秘密を知っているんじゃないか」と心配になってしまいます。
謝られてももう遅いのです。葉子ちゃんがお母さんにして欲しかったのは謝ることじゃなくて助けること。どうせ知らないフリをするなら、変に謝ったりせずそれを貫き通して欲しかったのです。お母さんに見て見ぬフリをされたという事実の方が、葉子ちゃんには苦しいものでしたから。
お父さんに襲われる葉子ちゃんを見て、お母さんは何を思ったのでしょう。目の下に出来たクマを見ても何も感じなかったのでしょうか。何事もなかったかのように振る舞うことが出来たのはどうしてでしょう。葉子ちゃんにはもうお母さんを信じることが出来ません。
「私の動画、お父さんが売ってたんだって。知ってた?」
「それは……」
「知ってたけど、お金になるから黙ってたの? 私がお父さんと変なことをすれば高く売れるって知ってたから、助けなかったの?」
「そんなことは――」
「警察の人が教えてくれたよ。お母さんはお父さんが何をしてたのか全部知ってたって、そう言ってたよ」
葉子ちゃんはそれだけ言うと自分の部屋に入ってしまいました。お母さんが後を追いかけて部屋に入ろうとすると「来ないで!」と拒絶されてしまいます。葉子ちゃんとお母さんの関係は、お父さんの事件をきっかけに一気に壊れてしまいました。
葉子ちゃんの家から押収されたカメラやパソコン。そこから出てきたのは小学校低学年の子供――葉子ちゃんとの性行為を収録した、無修正の動画でした。このような動画を所持しているだけでも問題ですが、お父さんはさらに悪いこともしていました。
どうやら葉子ちゃんの動画をその手のマニアに高値で売っていたようなのです。パソコンの履歴には購入者に動画を送った痕跡が残っていました。お父さんの口座には不規則的な入金がされていました。さらに、動画購入者とのやり取りも見つかっています。
テレビをつければお父さんの顔写真が映っています。児童ポルノを所持し、製作し、販売したとして様々なテレビ番組で話題になっています。お父さんの逮捕をきっかけに、何人もの大人が児童ポルノ所持法違反の容疑で逮捕されているようです。
葉子ちゃんは学校を早退した日を境に部屋から出てこなくなりました。小学校どころかリビングにすら出てきません。お母さんと顔を合わせないようにして、お風呂や食事を行っているようです。たまに顔を合わせても気まずく、お母さんは時々感情任せに手が出そうになりました。
お母さんが葉子ちゃんとの接し方に悩む間にも時間は進んでいきます。鳥海先生からの連絡を受けて、児童相談所の職員さんが何回か家庭訪問にやって来ました。お父さんがいなくなったことで生活が一気に苦しくなりました。お父さんに関する悪評がついてまわるため、下手に外を出歩くことが出来ません。
そうこうするうちに、職員さんが葉子ちゃんを一時保護する日が来てしまいました。
何回かの面談を通じて、葉子ちゃんが今の環境で暮らすのは良くないということになりました。経済的にも精神的にも、今の状態でお母さんと暮らすのは負担が大きいと判断されたのです。お母さんもそれに同意し、一時保護してもらうこととなりました。
「主人が悪いとわかってるんです。わかっているのに、何故か葉子が憎いと思ってしまう時があります。主人が逮捕されてから、葉子に手を上げないようにと必死でした」
お母さんは家庭訪問の際、職員さんに相談していました。心の内を打ち明けていました。
「主人が葉子にしたことは許されません。なのに私は……私は、それでも主人が葉子を選んだことが羨ましくて、憎くて。どうしようもなくなる時があるんです」
悲しいことに、お母さんにとっては葉子ちゃんよりもお父さんの方が大切な存在でした。それはお父さんが性的虐待をしていたと世間に晒された今になっても変わりません。見て見ぬフリをしていたのだって、今にして思えば全てお父さんを守るためだったのでしょう。
職員さんが葉子ちゃんの部屋の扉を開けます。葉子ちゃんはすでに身支度を整えていました。部屋から出てきた葉子ちゃんが久々にお母さんの前に姿を見せます。葉子ちゃんの目の下のクマは以前より薄くなっていました。
葉子ちゃんの顔に笑顔は張り付いていません。代わりに、喜怒哀楽を一切感じさせない無表情な顔がお母さんの方を向いていました。お母さんを見る眼差しは相変わらず冷たいです。
「葉子ちゃん、何か言い残したことはないかな?」
「……私は、お母さんのこと、好きだったよ。信じてたよ。見間違いだって、思いたかったよ」
一瞬だけ、葉子ちゃんの顔がほほ笑みを浮かべました。だけどそれはすぐに苦笑いに変わり、また元の無表情に戻ってしまいます。久々に聞いた葉子ちゃんの声は今まで聞いたどの言葉よりもズシンと重く響きます。
「どうせなら謝らないで、何も知らないフリを続けてほしかったよ。それならまだ、お母さんのことを信じられたから。まだ、お母さんのことを好きでいられたから。顔を見るのが辛いなんて思わないで済んだから」
「それは――」
「言い訳なんか聞きたくない! お母さんのこと、好きだったよ。だけど今は、この世でお父さんの次に大っ嫌い!」
お母さんが止めていれば葉子ちゃんの運命は変わったかもしれません。葉子ちゃんの動画がネット上で広まることもなかったかもしれません。何も知らないフリを続けていれば、葉子ちゃんはお母さんに失望しなかったかもしれません。けれどどれだけ後悔してももう、意味がありません。
お父さんは葉子ちゃんのガラスのような心に傷をつけ、ヒビを入れました。お母さんはそんなボロボロの葉子ちゃんの心を突っついて粉々に砕いてしまったのです。どんなに破片を組み合わせても、一度壊れた心は何もかも元通りにはなりません。
葉子ちゃんは必要最低限の荷物を持つと玄関で靴を履きました。職員さんが傍で見守っています。いざ外に出ようと扉を開けたところで、葉子ちゃんが後ろを振り返りました。
「本当はね、お母さんに助けてほしかったんだよ」
お母さんに向けてそう言い放つと寂しさの入り交じった笑顔で玄関の外に出ます。閉まっていく扉の隙間から見えたのは、お母さんに向けて小さく手を振る葉子ちゃんの姿。扉が完全に閉まると二人分の足音が部屋から遠ざかっていきます。遠ざかる足音を耳にしたお母さんは床に泣き崩れてしまいました。
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