エピソード3 守護る少年

龍斗くん1

 リビングは凄まじいことになっていました。粉々になって散らばった食器類、壁には大きな穴が空いています。テレビは液晶にヒビが入った状態で床に転がっています。そんなリビングで、男の子が壁にもたれかかっていました。


 顔はあちこち痣だらけで、頬は青紫色に腫れ上がっています。腕には真新しい切り傷がたくさんあり、傷が塞がりかけています。その腹部には火のついたタバコが押し付けられていました。肉の焦げる臭いがします。


 荒れた部屋も怪我もこの家では日常茶飯事のこと。龍斗くんはそんな、毎日を傷だらけで過ごす男の子でした。


「金と保険証なら置いとく。病院ではテキトーに誤魔化しとけ。片付けもサボんなよ? 分かったか?」


 龍斗くんにタバコを押し付けている男性がいました。お父さんです。タバコが肌から離れると、そこには不自然な円形と跡が残っています。けれどそんなことには目もくれず、お父さんは分厚い財布を投げ捨てました。


 お父さんの言葉に龍斗くんは返事をしません。代わりにギロりと睨みつけています。そんな龍斗くんの態度に気付いたのでしょう。お父さんのつま先が龍斗くんの腹部に深く食い込みました。


「ガキが喧嘩売ってんじゃねーよ! てめぇらが食えんのも学校行けんのも俺のおかげだろ?」


 龍斗くんの腹部を何度も何度も蹴りつけるお父さん。そのつま先が変なところに入ったのでしょうか。龍斗くんは返事をするより先に、床に嘔吐しました。吐瀉物に気付くと、お父さんの手が龍斗くんの首を絞めます。


「何勝手に吐いてんだよ、このクソガキが。あーイライラする。仕方ねぇ、もう一人で――」

「手ぇ、出すんじゃ、ねぇ、よ。殴んなら、俺を、殴れ、や、クソ、親父」

「クソ親父だ? てめぇ、クソガキの分際で親を馬鹿にしてんじゃねぇよ!」


 龍斗くんの口答えにお父さんの顔は赤くなりました。首を絞める力を強め、何度も何度もその腹部を蹴りつけます。その度にドシンドシンという音がリビングに響きました。龍斗くんはお父さんを睨みつけ、必死に耐えています。


 そんな二人の様子を物陰からそっと伺う女の子がいました。物音に気付いて起きてきたようです。龍斗くんがひと睨みすると、逃げるように寝室へと戻っていきます。お父さんは女の子の存在に気付きません。


「今日はこの辺にしといてやるよ。俺がやったって言うんじゃねーぞ? わかってんな?」

「……はい」

「わかればいいんだよ、わかれば。ったく、手間かけさせやがって、このクソガキが」


 お父さんに蹴られ殴られ首を絞められ、散々痛めつけられた龍斗くんにはもう抗う気力はありませんでした。床に崩れ落ちるとお父さんの言葉に弱々しく返事をします。そんな龍斗くんの姿を見て、お父さんは満足気にリビングを去っていくのでした。





 龍斗くんはそのままリビングで朝を迎えました。立ち上がろうとすれば激痛が走ります。けれど、動かないわけにはいきません。お父さんが帰ってくるまでに家を片付けなければなりません。


 幸いにももうお父さんはいないようです。龍斗くんが弱った姿を見て、そのまま家を出ていったのでしょう。今頃は人が変わったように真面目に仕事をしているはずです。


 とりあえず起きて着替えなければなりません。見た目の酷さは諦めるとして、病院にも行くべきでしょう。学校を休みたくはありませんし、片付けは登校前にある程度終わらせなければなりません。どうしようかと考える龍斗くんに、女の子が近付いてきました。昨晩物陰から顔を覗かせた女の子です。


「にーちゃん、大丈夫?」

「お前、ここに来ちゃ、ダメだろ。危ないぞ?」

「平気だもん! なーも手伝うの。ほら、スリッパ履けば怪我しないよ?」

「……分かった。分かったよ、凪。じゃあ、にーちゃんの、ランドセルと、着替え。持ってきて、くれるか?」

「うん。その前に……にーちゃん。なーの手を掴んで? 引っ張るよ?」


 その女の子は凪ちゃん。龍斗くんの妹であり、龍斗くんがお父さんから守ろうとしている女の子です。その努力あってか、龍斗くんと違って凪ちゃんには傷一つありません。龍斗くんは差し出された手をしっかりと掴みました。


 凪ちゃんは小さな体で龍斗くんの体を上へと引っ張ります。それに合わせて龍斗くんは足に力を入れ、歯を食いしばって痛みにこらえます。やっとの思いで龍斗くんの体が立ち上がるとその反動で凪ちゃんが尻もちをついてしまいます。


 首には不自然な指の跡。青紫色に腫れた顔は一晩では元に戻ってくれません。何度も蹴られたせいか、動くだけで腹部に鈍い痛みが走ります。どうにか立ち上がりはしたものの、龍斗くんは壁にもたれかかったりしなければまともに立っていられませんでした。


「にーちゃん!」

「だ……じょぶ。だい、じょぶ。大丈夫」

「にーちゃん?」

「凪の、にーちゃん、だぞ? 大丈夫に、決まってる、だろ。さっき、頼んだこと、覚え、てるか?」

「ランドセルと着替え、だよね。なー、取ってくる!」

「任せたぞ」

「にーちゃんは休んでて!」


 広い家の中を走って移動する凪ちゃん。龍斗くんはその後ろ姿を目で追うことしかできませんでした。昨晩の余韻が残っているせいか、支えなくして立つことも歩くことも出来ないのです。けれど凪ちゃんの前ではそんなこと、口が裂けても言いたくありません。


 きっと今日は病院に行って、片付けて、それだけで一日が終わるでしょう。夜になればお父さんが帰ってきます。お父さんの機嫌の善し悪しで明日どうなるのかが決まります。泣いてなんかいられません。龍斗くんに出来るのは、お父さんが凪ちゃんに手を上げないようにすることだけなのです。


(凪だけは……凪だけでも……)


 最近は相当機嫌が悪いのか、お父さんが龍斗くんに手を上げる回数が増えました。攻撃にもかなり力が入っていて、龍斗くんは時々身の危険を感じます。このままでは死ぬかもしれないと。凪ちゃんを守れなくなると。


 この家で凪ちゃんを守れるのは龍斗くんしかいません。お母さんはお父さんの度重なる暴力に耐えかねて家を出ていきました。お父さん以外の親戚とは一度も会ったことがありません。龍斗くんにはいざと言う時に頼れる身近な大人がほとんどいないのです。


「にーちゃん、持ってきたよ!」

「ありがと」


 凪ちゃんの声でハッと我に返ります。それと同時に一人だけ、頼れる大人がいたことを思い出しました。けれどその大人には小学校に行かなければ会えません。無理してでも小学校に行かなければならない理由が出来ました。





 小学校にはたくさんの生徒がいます。ほとんどの生徒が走ったりお喋りしたりと今日も元気一杯です。そんな校内で、休み時間だと言うのに唯一静かな場所がありました。保健室です。


 保健室には養護教諭の鳥海先生がいて、やってきた生徒一人一人と向き合ってくれます。けが人も病人も、悩み事がある生徒も。鳥海先生は平等に扱ってくれるのです。龍斗くんはそんな保健室の常連でした。


「龍斗くん、その怪我は――」

「転んだ」

「……凪ちゃんは?」

「教室に。凪は、知らなくて、いい」

「……本当に転んで怪我したの?」


 鳥海先生は龍斗くんの傷を消毒し、簡易的な治療を施します。ですが保健室は万能ではありません。龍斗くんの怪我は本来、病院で治療してもらうのが最善です。けれど龍斗くんは病院ではなく保健室にやってきました。


 龍斗くんが酷い怪我をして保健室にやってくるのは一度や二度ではありません。本人は「転んだ」と言い張りますが、鳥海先生の中では別の仮説が浮かんでいます。


 煙草の火を押し付けた火傷跡。新しいものと古いものが混ざった内出血の跡。転んで火傷はしません。衣服に隠れる腹部や背中にばかり集中した内出血の跡。今回は顔も青紫色に腫れ上がっており、転んで出来た怪我ではないのは明らかです。


 鳥海先生の頭の中に、身体的虐待の兆候が過ぎりました。龍斗くんが「転んだ」と言い張る以上強く追求は出来ません。ですが、度重なる来室と不自然な怪我は典型的な身体的虐待の兆候です。


「もし。もし、違うって、言ったら、どうなる?」


 その日の龍斗くんはいつもと違いました。いつもなら「本当に転んだんだって」と言い張るのですが、今回は例え話として鳥海先生の対応を尋ねてくるのです。今にも泣きそうな顔で、歯を食いしばりながら鳥海先生のことを見上げてきます。


「凪と、離れる?」

「それは――」

「俺がいなくなったら、凪がやられるんだ。凪を守らなくちゃ。凪だけは、凪だけでも……」

「まず、凪ちゃんと一緒にいることは出来る。けどそれは、龍斗くんが抱えていることをどれくらい話してくれるか、にもよるかな」

「俺?」

「そう。龍斗くんの『もし』が本当なら、その内容次第では、凪ちゃんと一緒に家から離れることも出来る。……龍斗くんの怪我について、私に話してくれるかな?」


 龍斗くんは鳥海先生の話にわかりやすく目を見開きました。けれどすぐに嫌なことを思い出したのか、浮かない顔で俯きます。傷だらけの拳は小刻みに震えていました。鳥海先生は龍斗くんの拳をそっと両手で包み込みます。


 家庭で起きていることまでは鳥海先生にはわかりません。龍斗くんが話してくれないと、どうして凪ちゃんが危険なのかも、龍斗くんの怪我の原因も、憶測でしか判断出来ません。龍斗くんの親に話を聞いても適当にぼかされてしまうかもしれません。


「嫌なら話さなくて大丈夫だよ。龍斗くんがしたいように――」

「本当は! 本当は、本当は……」


 龍斗くんが口を開きかけたところで休み時間終了を告げるチャイムが鳴ります。龍斗くんは教室に戻ろうと一瞬だけ腰を上げかけました。けれどすぐにまたソファに腰を下ろし、鳥海先生の目を真っ直ぐに見つめます。


「仮病、使っても、いい、かな?」

「大丈夫だよ。私から伝える。だからお話の続き、聞かせてくれるかな?」

「……本当は……親父に、クソ、親父に、やられたんだ。今日も、今までのも、全部」


 廊下から微かに聞こえていた生徒の声が途絶えたからでしょうか。龍斗くんの言葉はしっかりはっきり、鳥海先生の耳へと届きました。

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