龍斗くん2

 龍斗くんにとってお父さんは、物心がついた時からずっと「怖い人」でした。今も昔もそれは変わりません。以前と違うのは、お父さんが怖い態度で接する対象だけ。


 龍斗くんは今でもはっきりと覚えています。怖い夢を見て夜中に目が覚めた時のことです。眠い目を擦りながら右隣に目を向けると、一緒に寝ていたはずのお母さんがいません。リビングからはお父さんとお母さんの声が聞こえます。穏やかな話し合いという雰囲気ではなく、大きな物音も聞こえてきます。


 幸いにも左隣にいる凪ちゃんはすやすやと寝息を立てています。龍斗くんは凪ちゃんを起こさないようにゆっくりと布団から抜け出し、寝室の扉に隠れて何が起きているかを見ることにしました。そしてその選択をすぐに後悔します。


「ふざっけんなよ!」

「ちょっと! 龍斗と凪が起きるから――」

「敬語使えっつってんだよ! 俺のおかげで働かずに食っていけんだろ? 一家の大黒柱に敬意を払えよ!」


 リビングではお父さんがお母さんに暴力を奮っていました。細いお母さんの体に馬乗りになり、その胸ぐらを掴んでいます。お父さんの拳がお母さんの腹部を何度も何度も殴っています。その周りには食器の破片が散らばっていました。


 お父さんはお母さんの顔や手足を攻撃しません。狙うのは衣服で隠れる範囲だけ。龍斗くんの聞いた大きな物音は食器を投げる音やお母さんの体を床に叩きつける音です。お母さんを襲うお父さんはどうしてか、楽しそうに笑っています。


 お父さんがどこからかタバコを取り出しました。ライターでタバコに火をつけると、白煙の出るそれをお母さんの背中へと押し付けます。お母さんの呻き声が龍斗くんの耳にまで聞こえました。


「次俺のことをバカにしてみろ。龍斗と凪に手を出すからな」

「それ、だけは……やめ、くだ、さ……ああ!」

「二度と俺に逆らうんじゃねーぞ?」


 龍斗くんの知るお母さんはいつだって優しく強い人でした。お父さんが出かけてからは料理に洗濯にと大忙しで、その合間を縫って龍斗くんと凪ちゃんの相手もしてくれるのです。そしてそんな忙しいお母さんは、服の下に隠された怪我を少しも感じさせず笑っているのでした。


 けれど衝撃的な場面を目にして初めて龍斗くんは気付きます。一緒にお風呂に入る時、お母さんは服を着たまま龍斗くんと凪ちゃんを洗ってくれました。龍斗くんと凪ちゃんの前では服の下を見せることはまずなかったのです。


 遠くから見てもはっきりとわかるほどに青いお母さんの腹部。真新しい内出血の跡や治りかけの痣がいくつも重なって出来上がった、醜い青紫色のお腹。背中にはタバコを押し付けて出来た火傷の跡が数え切れないほどついています。


 この光景を目にした日から、龍斗くんの中ではお父さんは「怖い人」から「ものすごく怖い人」になりました。幼心に妹だけは守らなければと感じたその日のことを、龍斗くんは一度だって忘れたことはありません。





 鳥海先生は龍斗くんの長いお話を静かに聞いていました。話が途切れそうになるとそれとなく先を促します。龍斗くんが自分から話さないと意味がないと考えたからです。龍斗くんの話はまだ続きます。


「いつだったか、忘れたけど。お母さんが、帰ってこなくなった」

「家に?」

「うん。出かける前に『ごめんね』って俺と凪を抱っこしてくれて。それから……スーツケースを持って、どこかに行っちゃった」

「そうだったんだ」

「お母さんがいなくなったら、今度は俺がやられる番だった。俺がいなくなったらきっと凪に当たる。親父は、そういうことをしないと、落ち着かない人だから」


 ある日突然、お母さんがいなくなりました。お父さんは必死に探すけれど誰も行き先を知らなくて。リビングのテーブルには、内容の半分程が埋まった離婚届が置かれていたそうです。全ての歯車が狂ったのは、お父さんがお母さんの不在を受け入れてからでした。


「初めはまともだったよ。帰るのが遅いとか、片付けしないとか、成績悪いとか」

「うん」

「でも、いつからか……帰ってきたら俺に当たるのが普通になって。凪も狙われてるけど、俺が身代わりになってる」

「辛くない?」

「凪が死ぬことに比べたら、全然」


 辛くないと言う龍斗くんは涙目で鳥海先生のことを見ていました。傷が痛むのかお父さんを思い出してなのか、それとも凪ちゃんを思ってなのか。その答えが龍斗くんの口から紡がれることはありません。


 龍斗くんはお母さんの代わりにお父さんに虐待されていました。ということは、龍斗くんがいなくなれば間違いなくその矛先が凪ちゃんへと向かうでしょう。龍斗くんはそれを恐れているのです。


「でも」


 これまで凪ちゃんが被害を受けないように頑張ってきたという龍斗くん。ボロボロになった体で鳥海先生を見つめます。まだ話すことがあるようです。鳥海先生は静かに耳を傾けました。


「もう、俺一人で……守れる自信、ないよ。俺が死んだら、誰も、凪を、守れないんだ。……同じ目に、あってほしく、ない。凪だけは、凪だけは……」


 じんわりと目に涙が浮かんだかと思えば、両手がそれを隠してしまいました。鼻をすする音と声を抑えて涙を飲む音が聞こえます。両目を隠すその腕には痛々しい痣や火傷跡が残っています。「転んだ」と言い張ってきたそれらの傷も本当はお父さんが原因なのでしょう。


 龍斗くんがお父さん以上に恐れているのは自分の死。お父さんの行動が日に日にエスカレートしてくのを肌で感じているからこその恐怖。龍斗くんが鳥海先生にいつもと違う返事をしたのもそれが理由です。


 龍斗くんの小さな勇気を無駄にするわけにはいきません。幸いにも状況証拠は揃っています。通告すれば龍斗くんはすぐにでも保護してもらえるでしょう。お父さんの攻撃対象が移ることを説明すれば凪ちゃんも保護してもらえるかもしれません。


「話してくれてありがとうね、龍斗くん。凪ちゃんと一緒に家から離れること、出来ると思うから。早速――」

「俺が言ったって親父に知られる?」

「言わないよ。大丈夫」

「本当に?」


 龍斗くんの問いかけに鳥海先生は一瞬言葉が詰まりました。鳥海先生個人からお父さんに情報を流すことはありません。ですがこれから龍斗くんが保護される施設ではどうでしょう、鳥海先生以外の教員はどうでしょう。実際、過去に情報を渡したことを原因とした起きた事件も起きてます。


 すぐに「本当に言わない」とは返せませんでした。事件の影響を受けて、虐待されている児童の情報を親に渡さないよう様々な機関が注意するようになった今でも。龍斗くんのお父さんが学校に怒鳴り込んできても、児童相談所で暴れても、本当に情報は守られるのか鳥海先生は確信が持てません。


「大丈夫。けれど、凪ちゃんを絶対に助けるために、龍斗くんに協力してほしいことがあるの」

「凪を守るためなら、凪を助けるためなら、なんでもする。なんでも言って、先生!」

「嫌だったら言ってほしいんだけど……龍斗くんの怪我を証拠として、写真で記録してもいいかな? それと、病院にも行こうか」

「いいよ。必要なら家の写真も撮る。それで凪を親父から守れるなら。病院には……凪も一緒に、行きたい。一緒じゃないと、守れないから」


 龍斗くんは鳥海先生の申し出をすぐに承諾しました。潤んだ瞳が鳥海先生の顔を見上げます。青紫色の痣が残る腫れた顔で、笑顔を見せてくれました。





 その日のお昼休み。凪ちゃんは廊下で騒がしい生徒達の間をすり抜けてある部屋を目指していました。その部屋は下駄箱のある場所――昇降口のすぐ近くにあります。


 凪ちゃんは赤いランドセルを背負い、黒いランドセルを前に背負っています。二つのランドセルにはネームプレートが付いていました。赤い方には「たにぐち なぎ」の名前が、黒い方には「谷口りゅうと」の名前が、お世辞にも上手いと言えない字で書いてあります。


 そんな凪ちゃんが駆け足で向かった先には「ほけんしつ」とひらがなで書かれた色鮮やかなプレートがぶら下がっていました。息を整えるより先に扉を開ければ、養護教諭の鳥海先生が笑顔で出迎えてくれます。


「にーちゃん、大丈夫?」

「大丈夫だよ。凪のにーちゃんは、無敵、だからな」

「ムテキ?」

「そ。にーちゃんは、凪がいれば、どーんなことでも平気なんだぜ」


 保健室のソファには、怪我の応急手当を終えたばかりの龍斗くんがいました。その隣で鳥海先生が病院へ向かう支度をしています。すでにタクシーを手配してありました。あとは三人で病院に行くだけです。


「凪」

「どしたの、にーちゃん?」

「……もし、もしさ。にーちゃんと二人で、どこかへ逃げられるってなったら、凪はにーちゃんについてきてくれるか?」

「当たり前じゃん! なーはにーちゃんが大事なの。にーちゃんを傷つけるパパは嫌い!」

「はは、そっか。……そっか」


 タクシーが来るまでの間にと話を切り出した龍斗くん。凪ちゃんは龍斗くんが問いかけるや否やすぐに言葉を返します。勢いよく答える凪ちゃんに龍斗くんは思わず笑ってしまいました。けれどすぐに顔をしかめます。


 笑うと腹部が強く痛みました。保健室で安静にしていて痛みが和らいだせいか、龍斗くんは自分が怪我人だということをすっかり忘れていたのです。一度痛みを自覚してしまうと、今度は体のあちこちが痛く感じます。


「凪」

「にーちゃん、さっきからどうしたの?」

「もし、もしだ。もし、にーちゃんが、叩いても、何しても、起きなかったら、鳥海先生を、頼れよ?」

「なーはそんな事聞きたくない!」

「何か、起きてからじゃ、遅いんだよ。鳥海先生、あとで、連絡先、教えてくれる、から。電話のかけ方、は、わかるよな?」

「……う、うん、わかる」

「ならよし。鳥海先生が、全部、わかってるから。一緒に、親父から逃げよう、凪」


 鳥海先生が児童相談所に通告したとして、その日のうちに龍斗くんと凪ちゃんが一時保護されるとは限りません。となれば龍斗くんが考えることはただ一つ。いざという時に備えて、事前に凪ちゃんにやるべきことを伝えることだけ。


 昨晩の怪我は少し休んだだけで良くはなりませんでした。気を抜けば、何もしなくても傷が痛みます。家から小学校まで歩いてこれたのが奇跡だと思えるほどです。そんな今の龍斗くんだからこそ、「いざという時」を考える必要がありました。


 龍斗くんが強く死を意識して逃げるための勇気を振り絞ったその日。朝から嫌な予感が胸の辺りをグルグルしていました。急がないと手遅れになる。どうしてかそう強く感じたのです。


(これで、凪をクソ親父から救える。あとは、俺がどこまで耐えられるか、だ。)


 決して声には出さない本音。龍斗くんの体は今までにないほど強い悲鳴を上げています。鳥海先生も凪ちゃんも知らない龍斗くんだけの秘密。もうタイムリミットがすぐそこまで来てると、龍斗くん以外の誰も知らないままでした。

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