龍斗くん3

 広い家の中にいるのは子供二人だけ。衣食住に困らないだけの、子供にしては多すぎるお金を与えられていますが、子供達は決して幸せではありませんでした。それは、子供の体に残った真新しい怪我を見ればわかります。


 時計の針がチクタクと音を立てて進んでいきます。あと少しすれば夜の九時。お父さんが帰ってきます。スーパーで買ってきた出来合いの夕飯をのんびり食べられる時間はもうあまり残っていません。


 龍斗くんの目はぼんやりとリビングの壁を見つめていました。穴の空いた壁、血や汚れで少し変色した壁紙。視線を床に向ければ、片付けきれなかった食器類の破片や血の跡が残っています。あと少しすればお父さんが帰ってきて、いつものような日常が繰り返されるのでしょう。


「……凪、寝室行ってこい」

「なーはまだ眠く――」

「意味、わかるだろ? 寝たフリしとけ。何があっても、リビングには出てくんなよ?」

「うん」

「で、明日の朝か、あいつがいなくなってからでいい。にーちゃんがもし、何しても目覚めなかったら、鳥海先生に」

「……うん」

「凪はいい子だな。ほら、寝てこい」


 龍斗くんの言葉に凪ちゃんの表情は暗くなります。その言葉が意味することに気付いているからです。凪ちゃんは直接お父さんに手を上げられたことはありません。けれど、お父さんが夜に何をしているのかは知っています。


 夜になると、リビングからは大きな物音と振動がします。どんなに強く耳を塞いでも、お父さんが龍斗くんを罵る声が聞こえてきます。お父さんがいなくなってから龍斗くんの様子を見に行くと、決まって龍斗くんは傷だらけで床に伸びているのです。


 龍斗くんを傷つけているのがお父さんだということに、凪ちゃんはすでに気付いていました。龍斗くんがこうして凪ちゃんを寝室へと向かわせるのは凪ちゃんを守るためだということも知っています。気付いていても何も出来ないのは、お父さんが怖かったからでした。


 けれど今回は違います。鳥海先生を通じて、逃げ道が出来ました。あと何回か寝れば、凪ちゃんは龍斗くんと一緒にお父さんから離れることが出来るでしょう。それまでの辛抱です。なのにどうしてか、凪ちゃんは龍斗くんと離れることがこれまで以上に怖くなっていました。


「なーぎ? 時間ないって、にーちゃん言ったよな?」

「う、うん。でも……」

「にーちゃんは大丈夫だ。凪のにーちゃんだからな。凪を置いてどっか行ったりしない。だから、頼むから、寝てくれ」


 龍斗くんは凪ちゃんの前で弱い所を見せません。「にーちゃんだから」を強調して凪ちゃんを優しく睨みつけます。これ以上龍斗くんの指示を無視することは、凪ちゃんには出来ませんでした。


 仕方なく、凪ちゃんはリビングから部屋へと移動します。玄関の方からは鍵を開ける音が聞こえてきます。今、運命の歯車が大きく回ろうとしていました。





 乱雑な足音がリビングに近付くにつれて大きくなります。凪ちゃんは大人しく寝室で寝たフリをしています。今リビングにいるのは龍斗くんだけ。龍斗くんは耳に入ってくる足音にゴクリと息を飲みます。


 その視線がリビングと廊下を仕切る扉へと向きます。ガチャりと音を立てて扉が開きました。そこからリビングにやってきたのは、黒いスーツを着込んだお父さんです。龍斗くんの姿を見るやいなやお父さんは口角を上げました。


「俺の顔になんかついてるか?」

「違うし」

「じゃあ、ジロジロ見てんじゃねーよ、このクソガキが!」


 リビングに入るなりカバンを床に放り投げ、ジャケットを脱ぎ捨てたお父さん。龍斗くんとの距離を早足で詰めると早速頬に拳を食らわせます。身構える余裕のなかった龍斗くんは殴られた反動で椅子から転げ落ちました。


 音を立てて床に落ちたせいか昨晩の傷が痛みます。けれど痛みを感じるより先にお父さんのつま先が龍斗くんの鼻を直撃しました。その刹那、鼻から流れ出た血が床を汚します。


 お父さんの足は何度も何度も龍斗の顔を蹴りつけました。龍斗の体を強く踏みつけました。腹部を強く踏みつけられると、喉に込み上げる不快感を抑えきれません。それに気付いたのか、お父さんは龍斗くんの口にハンカチを詰め込みました。


「俺の家だ。勝手に汚すな。そう、いつも言ってるよな?」


 苦しくてえずいてもハンカチで口を塞がれては出るものも出ません。仕方なく口まで込み上げたものを飲み込むと、喉がヒリヒリと痛みました。酸っぱくて少し苦い味が口の中に広がります。


 鼻で呼吸をしながらお父さんを見上げます。息を吸うのに合わせて血が口に流れ込みます。けれどハンカチが口を塞いでいるから、むせることが出来ません。床に横たわってくの字になる龍斗くんを、お父さんは冷たい眼差しで見下ろしていました。その足が龍斗くんを机へと押し付けます。


 ふいにお父さんが龍斗くんの胸元を掴んでその体を持ち上げました。そのまま体を宙に浮かせて軽く揺さぶると、宙に浮かせた状態でパッと手を離します。支えを失った龍斗くんは音を立てて床へと崩れ落ちました。


「お母さんがなんでいなくなったか知ってるか?」


 床に倒れたまま動かない龍斗くんにお父さんが問いかけます。龍斗くんは小さく首を横に振るのが精一杯でした。お父さんは龍斗くんの口からハンカチを取り除くと笑いかけます。


「お前達のせいだよ」

「なんで――」

「疲れたんだとよ、お前達育てるの。だから俺が育ててやってんだ。金なら腐るほどある。金がありゃ病院に行けるし飯も食える、学校にも行ける。お母さんはな、お前達を捨てたんだよ」

「てめぇの、せい、だろ、クソ、親父」


 お父さんが語る言葉は嘘です。龍斗くんは知っています。お父さんが居なくなると決まって龍斗くんと凪ちゃんを抱きしめて謝り続けるお母さんの姿を。お母さんは最後までお父さんに暴力を振るわれていました。そしてそれは、龍斗くんと凪ちゃんを守ろうと限界まで頑張ったからです。


 龍斗くんは思わず口答えしてからミスに気付きました。お母さんのことを知らないはずなのです。先程お父さんの質問に対して首を横に振ったのです。けれど今の口答えでお父さんは確信したでしょう。龍斗くんはお母さんがいなくなった理由を知っていると、気付いてしまったでしょう。


「嘘をついたらどうなるか、わかってるよな?」


 龍斗くんにとってお父さんのその言葉は死刑宣告と同じようなものでした。





 お父さんは龍斗くんの体を床から抱き上げると、そのまま壁に押し付けました。両手で首を掴むと龍斗くんの頭部を前後に揺すります。頭が何度も何度も壁に打ち付けられました。首の周囲が気持ち悪いのは掴まれているからでしょうか。


 最初のうちは頭部に強い痛みが走りました。けれど何度も壁にぶつかるうちに、鋭い痛みは鈍い痛みに変化し、それほど痛いと感じなくなっていきます。痛いと思わないのにどうしてか、体が言うことを聞いてくれません。


「てめぇら養ってんのは俺だ。俺に逆らう奴はこうしてわからせる」

「最低、だな、あんた」

「親に向かって『あんた』はないよなぁ?」


 龍斗くんの言葉がお父さんの怒りをかきたてます。その肘が龍斗くんの腹部を深く突きました。膝が龍斗くんの顎を鋭く突き上げます。指先がズボンと下着を脱がせ、龍斗くんを辱めます。


 拳が顔を何度も殴りつけます。爪が皮膚を裂きました、殴られた皮膚は変色し腫れ始めます。朝から青黒く腫れていた顔はもうその原型を留めていません。衝撃で欠けた歯が口の中でゴロゴロと動いています。


 抗おうにも腕が上がってくれたません。足は思うように動いてくれません。体全体に重石をつけられたかのようです。息をするのも苦しくなってきました。


「チッ、動かなくなったか。仕方ねぇ、凪でも殴るか」


 龍斗くんの動きが鈍くなったせいかお父さんは首を掴む力を緩めました。まだ満足していないのか、凪ちゃんに狙いを定めます。その言葉を黙って聞いている龍斗くんではありませんでした。


(凪に、手を出させて、たまるか!)


 血の匂いがする鼻から思い切り息を吸い込み口に溜めます。頭の中では家を出ていくお母さんの姿と楽しそうに笑う凪ちゃんの姿が浮かびます。そして重い体を必死に動かして、お父さんの顔めがけて欠けた歯を吹きました。


 少し黄ばんだ歯がお父さんの頬に命中し、血を滲ませます。龍斗くんから手を離したばかりのお父さんがピタリと動きを止めました。壊れかけのロボットのようにゆっくりとぎこちなく顔を動かし、視線を龍斗くんへと向けます。


 次の瞬間、右足が龍斗くんの胸部を強く蹴飛ばしました。壁と踵に挟まれた骨が妙な音を立てます。気を抜くと意識がどこかへ持っていかれそうです。それでも必死に力を振り絞り、重たい体を無理やり動かしました。


 龍斗くんの両手がお父さんの足首を掴みます。潤んだ瞳はお父さんの顔を真正面から見つめました。けれど胸部を押す力は弱まらず、口の中は血の味がします。鼻から息を吸い込めば鉄の錆びたような匂いがしました。


(起きろ、俺。寝たら、凪が……。守れるのは、俺だけだ)


 お父さんに真正面から抵抗したところで叶わないのはわかっています。抵抗をやめれば、動かなくなれば、お父さんは間違いなく凪ちゃんを狙うでしょう。凪ちゃんを守るためには、お父さんが満足するまで抵抗し続けるしかないのです。


 それがどんなに恥ずかしくても、苦しくても、痛くても、辛くても、悔しくても、逃げたくても。凪ちゃんを守る最後の壁は龍斗くんだけなのです。もう、龍斗くん達を守ってくれたお母さんはこの家にいないのですから。


「あんたは、いつだって、弱い、奴しか、狙え、ない、よな」

「ああ?」

「卑怯って、言って、んだよ、クソ、野郎」

「その言葉、誰に向かって――」

「弱い者、いじめしか、出来ない……親父に、だよ」


 龍斗くんは言葉でお父さんの注意を引きます。お父さんの足首に伸びた爪を立てました。今にも消えそうな意識を、自らの舌を噛むことでどうにか引き止めます。遠くに見える壁掛け時計は夜の十時を示しています。あと八時間後には学校の支度をしなければいけません。


「そんな、だから、おか、さん、は――」

「その口を閉じろ!」


 お父さんの手が再び龍斗くんの首を掴みました。先程のは揺するための掴み。でも今度の掴みは……龍斗くんの首を絞めるためのもの。指が喉を強く圧迫していきます。


 首を掴む手の感触が明瞭に伝わってきました。皮膚に指が食いこむ気持ち悪い感触。徐々に力が加えられて感じる息苦しさ。首にまとわりつく独特の感触に吐き気すら覚えます。


 どんなに息を吸っても息苦しさは消えません。息苦しさから魚のように口をパクパクと動かしますが、酸素が入ってくる感覚がありません。掴まれたままの首が気持ち悪くて。吐き気と場にそぐわない尿意が襲いかかってきます。


 龍斗くんはその場で放尿し、そのまま意識を手放したのでした。

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