翼をもがれた天使達

暁烏雫月

エピソード1 腹ぺこ少年

遊喜くん1

 着ているのは毎日同じ服。でも同じ色、同じ柄の服を何枚も持ってるわけではありません。たった一枚の服を毎日着続けてるのです。しかも、季節に関係なくいつも半袖半ズボンでした。


 どんなに汚れてしまっても、その汚れが綺麗に落とされることはありません。どんなに服が破れたりほつれたりしても直されることはありません。穴が空いて汚れてしまったヨレヨレの服を着ています。それが遊喜くんでした。


「あー、遊喜くん、また同じ服着てるー」

「穴が空いてるよー。うっわー」

「しかもこの服、臭いぞ。臭い臭い。遊喜くん臭い」


 教室の端っこの席で大人しく座っていれば、子供達が遊喜くんのことをからかい始めます。次第に声は大きくなり、手拍子までついてきます。しまいにはクラス中の男子が遊喜くんの服をからかうようになりました。だけど遊喜くんは何も言いません。


 周りの声が聞こえてるはずなのに何も言わず、何もせず、ただ大人しく席に着いているだけ。いいえ、正確には何も言えないし出来ないのです。顔を歪めて両目に涙を溜めて、両手は握り拳を作っています。その原因は遊喜くんの口にありました。


 遊喜くんが口を開けると、そこにはほとんど歯が残っていません。まともに生えているのは数本だけ。多くの歯が同時に生え変わったのではありません。不自然に欠けたり変色した歯がその証拠です。遊喜くんの歯が無くなった原因は虫歯でした。


 治療されてない虫歯がたくさんあります。多くの歯は根っこの部分しか残っていません。数少ないまともな歯もいくつかは虫歯になっていて、ひどく痛みます。遊喜くんは虫歯が痛くて何も言えない状態でした。


 遊喜くんの生活環境はあまり良くありません。そのことには同級生達もとっくに気付いてました。気付いているけど知らないフリをしているのです。だって彼らの知る遊喜くんは、初めて会った時からこんなふうだったから。初めて会った時より少し状態が悪化しただけなのです。


「体操着貸すから着替えろよ」

「臭いし汚いし、保健室で洗ってもらおうぜ」

「ついでに、具合悪いなら保健室に行くか?」


 遊喜くんは子供達の言葉に小さく頷くだけです。もう言葉を話す気力も残っていません。そんな遊喜くんの異変に気付いた子供達は、急いで遊喜くんを立たせます。遊喜くんの手足はゾッとするほど細く、まともに歩けるのが不思議なくらいでした。





 保健室のベッドは柔らかくて温かいです。それより何より、保健室には養護教諭の鳥海先生がいます。授業を教えるのとは違う先生が、白衣を着て優しく見守ってくれる。それが遊喜くんにとってはとても嬉しいことでした。


「遊喜くん。虫歯のこと、お母さんに話した?」

「……一応」

「お母さんと歯医者、行けそう?」

「無理」

「どうしてかな? 今のままじゃ遊喜くん、歯がなくなるかもしれないんだよ?」

「……怒られたから、無理」


 他に生徒がいないのをいいことに、鳥海先生は遊喜くんに声をかけます。だけど遊喜くんの口から飛び出た言葉は短く、感情がありません。まるで何もかも全てを諦めたように思えます。


「また少し痩せちゃったね。ご飯、食べてる?」

「昼だけ」

「そっかそっか。お母さんは忙しそう?」

「多分。よくわかんないけど」


 遊喜くんの手足は細く、文字通り骨と皮だけ。頬もコケていてとても健康そうには見えません。遊喜くんの言葉を借りるなら、お昼の給食しか食べていないから、なのでしょう。鳥海先生は遊喜くんに見えないように小さくため息をつきました。


 遊喜くんが保健室に来るようになったのはここ最近のことです。去年まではここまで酷くありませんでした。体型は人並みだったし洋服も毎日変わっていたし、季節に応じて袖の長さも変わっていました。虫歯こそ放置されていたけれど、それ以外はごく普通の平凡な男子小学生だったのです。変わり始めたのは去年の冬からでした。


 虫歯は放置されていて口腔環境は最悪でした。食事は学校の給食だけで痩せ方も異常です。一年中半袖半ズボンの同じ服。髪もボサボサで、何日も洗っていないと思われます。この状態から想定されることはただ一つ――育児放棄ネグレクトです。


「ねぇ、遊喜くん。今日はもう帰ろっか。歯も痛いだろうし――」

「やだやだ! まだお昼食べてない! 給食までは帰らない」

「お母さんは今日、家にいるかな?」

「い、いるけど寝てる。起こすと怒るからダメだよ」

「お母さん、いつも帰り遅いのかな?」


 給食まで帰りたくないと言い張る遊喜くんに、鳥海先生は質問を変えました。お母さんの事を聞かれると一瞬言葉に詰まります。そして困ったように視線を上に向け、少ししてから視線を鳥海先生に戻して話し出すのです。


「早いけど、男の人連れてくる」

「そうなんだ」

「で、裸になって変な声出してる。そしたらお金が貰えるんだって」

「その間遊喜くんはどうしてるの?」

「押し入れにいる。俺がいると、お金もらえないんだって。だから、押し入れにこもって、静かにしてる。お母さんは何も悪くないんだから」


 何が起きているのかを理解しきれていないのでしょう。遊喜くんは困ったように笑っています。今にも泣きそうな瞳。痩せ細ってしまっても母親のことを悪く言わない、母親思いのいい子です。自分の身に何が起きているのか、察していても気付かないフリをしています。


「わかったわかった。あ、そうだ。明日も遊喜くんに会いたいな。歯の痛みも心配だし。来れるかな?」

「いいよ」


 遊喜くんは、鳥海先生の瞳の奥に宿る怒りに気付きません。無邪気に笑って元気に振る舞います。本当は話すのだって辛いてましょうし、はしゃぐ体力だって残っていないのに。鳥海先生は遊喜くんの様子を見て、ぐっと拳に力を入れました。





 ちょうど三限の終わりを告げるチャイムが鳴った時のこと。遊喜くんは給食を食べたい一心で教室に戻りました。歯は相変わらず痛いし頭も少し痛いけど、保健室で休んだおかげが朝よりマシです。だけど、廊下を歩く遊喜くんの姿は生徒達の注目の的でした。


 すっかり小さくなってかかとまで入りきらない、大きな穴の空いた上履き。履いてある靴下も遊喜くんには小さくて、足の先端が丸見えです。靴から見える爪はヒビ割れていました。


 枝のように細い手足は体を支えるのには頼りないです。鎖骨も肋骨も浮き出ているのは見ていて痛々しい。少し歩けばバランスを崩してよろけ、転がる度に立ち上がり、ゆっくりと頼りない足取りで教室へと向かうのです。



 念願の給食が配られると「いただきます」をする前に手を伸ばします。そして、物凄い勢いで手掴みでお昼ご飯を食べ始めてしまうのです。みんなが「いただきます」をしている間にも一心不乱に給食を口に詰め込む遊喜くん。誰もそれを止めることは出来ません。


「今日はおかわりがあるよ。食べたい人いる?」

「食べる」


 今日の給食はお米や味噌汁におかずが少々、余っていました。給食係の子がそれを伝えると、遊喜くんが真っ先に手を上げます。誰よりも早く食べ始めた遊喜くんのお皿はすでに空っぽです。遊喜くんのおかわりに文句を言う子は誰もいませんでした。


 遊喜くんは頼りない足取りで、少しふらつきながら立ち上がります。配膳トレーを手に給食係の元へと歩きました。余っていたお米、味噌汁、おかずを取り分けてもらうと自分の席に向かって歩き始めます。でも、ここで問題が起きました。


 元々ふらつきながら歩いていた遊喜くん。給食を載せたトレーを持って二往復するのは体力的に限界でした。ふとした拍子にバランスを崩して派手に転んでしまいます。その時、運んでいた給食も床に落ちてしまいました。


 遊喜くんの目の前に転がるお米の入った茶碗に唐揚げ。それを見つけた瞬間、遊喜くんの目の色が変わります。


 教室の誰よりも早く食べ物に反応して手を伸ばします。床に落ちた唐揚げを素手で掴むと、ためらうことなく口に入れました。もぐもぐと美味しそうに唐揚げを味わいながらもその手はもう1つの唐揚げに伸びています。


 床に落ちた唐揚げはお世辞にも綺麗とは言えません。ホコリや砂、消しカスや鉛筆の芯。そういったゴミが付着しています。にも関わらず、遊喜くんは付着したゴミごと口に入れて食べてしまうのです。


「遊喜くん、やめなさい!」


 担任の先生が止めた時にはもう、遊喜くんは拾った唐揚げを飲み込んでいました。同級生達と先生が協力して床に落ちた給食を回収します。


「俺の……俺の、メシ」

「こんなの食べたらお腹痛くなるよ?」

「食べれるなら、食べる。食べれる時に食べる。俺の、返せ!」


 細い体のどこに力があったのでしょう。遊喜くんは給食を拾った先生にむかって体当たりし、その手に噛みつきます。ギラギラと輝く目はゴミ箱に入った唐揚げを見つめていました。


 今にも泣きそうな顔で、顔はりんごのように赤くなり、担任の腕に爪を立てています。食べれるならどんなに汚い食べ物であっても構わない、例えそれがホコリや砂にまみれていても。そんな、遊喜くんの食べ物に対する異常なまでの執着がわかります。


 これはただ事ではない。きっと、同じ教室にいた誰もがそう思ったことでしょう。でもこれは、悲劇の始まりに過ぎなかったのです。

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