遊喜くん2

 遊喜くんの家は街の中にある小さくて安いアパートです。玄関を入ってすぐのところにはキッチンと洗面所とトイレ。キッチンを通り越すとちょっと広い和室があります。遊喜くんの居場所は和室の隅にある押し入れでした。


 和室にはいつも布団が一枚敷いてあり、お母さんはそこで寝ています。頭上にはつっぱり棒があり、お母さんの衣類が干されています。でも遊喜くんの布団はありません。遊喜くんの衣服が干されることもありません。


 遊喜くんはお母さんを起こさないように忍び足でそっと移動します。優しく押し入れを開けるとその中に小さな体を押し込んで、内側から戸を閉めました。これが遊喜くんの毎日です。


 押し入れの上段には余り物の敷布団が一枚、畳んでおいてあります。そこが遊喜くんの寝床でした。いつも狭くて暗い押し入れの中で、掛け布団無しで体を丸めて眠っています。布団の上には水道水を入れたペットボトルと目覚まし時計が無造作に置かれていました。


 ランドセルを枕の代わりにして体を丸めていると、押し入れの外で物音がしました。どうやらお母さんが起きたようです。押し入れの扉が乱雑に開かれました。遊喜くんとお母さんは見つめ合います。


「今から仕事するから、そこでいい子にしててね。物音を立てちゃダメ、そこから出てきちゃダメ、お母さんの邪魔をしちゃダメ。いいね?」


 お母さんは押し入れの下段から三枚ほどオツを取り出し、遊喜くんに投げつけました。遊喜くんは家に帰るとオムツを使用し、押し入れから出ることなく生活します。トイレに行くことも水を飲むことも許されません。ただじっと、次の朝が来るまでを押し入れで過ごすのです。


 これからお母さんはお化粧して、綺麗で華やかな服を着て、夜の街に向かいます。そして男の人を連れて帰ってきて、布団で妙な遊びを始めるのです。遊喜くんの知る限りでは多い時で五人の男性が入れ違いにやってきていました。


 遊喜くんとお母さんが話すことはほとんどありません。あるとしたらそれは遊喜くんが悪いことをして叱られる時かお母さんが仕事を始める前、そして仕事が終わった時。言葉のやり取りはなく、遊喜くんはお母さんが話すことを黙って聞いているだけです。


 今日も遊喜くんはいつものように押し入れに入り、お母さんの言葉に頷きます。そして無言のまま大人しくしているのです。遊喜くんが動くのは、お母さんが男の人を連れて帰ってきてからでした。





 押し入れは遊喜くん専用の部屋です。明かりがない上に立つことも出来ない狭さです。でも遊喜くんはこの場所を気に入り、自分なりに改良を加えていました。例えば押し入れの襖に開けた小さな穴。お母さんが気付かないくらい小さなその穴は、遊喜くんが外の様子を確認するのに使います。


 お母さんがいつものように男の人と楽しそうに話しながら帰ってきました。その声を確認すると、遊喜くんはそっと襖に開けた穴から外を覗きます。穴はお母さんの布団が見える位置に開けていました。


 お母さんが男の人の上半身を裸にしました。男の人は楽しそうな声を上げてお母さんの上半身を裸にします。そのまま男の人はお母さんを仰向けに寝かせ、その上に覆いかぶさりました。


 お母さんの甲高い声が部屋中に響きます。続けて生々しいキスの音が一つ二つ。そうこうするうちにお母さんと男の人は下半身も裸にし、奇妙な音を奏で始めるのです。これが四ヶ月前から始まったお母さんの新しいお仕事でした。


 裸になって布団の上で密着して奇妙な声を出してタイマーが鳴るまで一緒に過ごします。そうすると、一回でそれなりの金額になるそうです。毎晩複数人と同じことをすれば、前の仕事よりも稼げるそうです。


 遊喜くんは穴からお母さんの様子を見つつ、大人しくしています。押し入れの中に食べ物はなく、あらかじめ用意したペットボトルに入った水道水があるだけ。寝言も物音を立てることも許されません。それでも、遊喜くんはお母さんのことが大好きでした。


 遊喜くんを押し入れに閉じ込めるのはお金を稼ぐため。夕食と朝食がないのはお母さんにその余裕がないから。いつかお金が貯まったら、また四ヶ月前みたいに優しくなってくれる。遊喜くんはお母さんを信じることしか出来ません。だけど今日はいつもと違いました。


 お母さんが男の人と一緒に家を出ていく音がします。いつもとは違う、チェーンを引っ掛けるような音も。それを最後に部屋が静かになりました。


 いつもなら一時間以内には新しい男の人を連れて帰ってきます。だけど今日はなかなか帰ってきません。襖の穴から外を覗いてもお母さんの姿はありません。それどころか、敷いてあったはずの布団もありません。


(お母さん、どこいったんだろう)


 遊喜くんは声を出さずに考えます。押し入れから出て確かめればいいのかもしれません。でも、押し入れから出る度にお母さんに怒られてきた遊喜くんには無理でした。外に出たら怒られて叩かれて殴られて、言いつけを無視することを体が拒絶したからです。


 お母さんが帰ってきても来なくても、朝の六時になれば目覚まし時計が鳴ります。お母さんの仕事はどんなに遅くても目覚まし時計が鳴るまでには終わることになっています。アラームの後に押し入れを出る分には怒られません。


(朝まで待とう。お母さんはきっと、俺の朝ごはんを買いに行ったんだ。もう、何日も家でご飯食べてないもん。きっとそうだ)


 家を出たっきり帰ってこない。きっと仕事相手が見つからないんだ。お腹が空いたからご飯を買いに行ったんだ。朝になればきっと元通り。そう、お母さんを信じることしか出来ません。でも異変が起きた次の日の朝は容赦なく遊喜くんの期待を裏切るのでした。





 遊喜くんは朝、お腹を空かせた状態で押し入れから出ます。でも押し入れから出るといつもと違う光景が広がっていました。


 敷いてあったはずの布団は部屋の隅に畳まれていました。つっぱり棒に干してあった洗濯物は姿を消しています。なにより、外が明るいのにお母さんの姿が見当たりません。遊喜くんは不思議に思って家の中を歩き回ります。


 タンスは開かれたまま放置され、中にあるはずの衣類はありません。クローゼットを開けても中は空っぽです。急いで玄関に行けば、扉にはチェーンロックがかかっていました。


 遊喜くんは背が高くないためチェーンロックに手が届きません。お母さんがどうにかして外からチェーンロックをかけたのでしょう。このままでは学校に行くことも給食を食べることも出来ません。


 どうしたらいいのかわかりませんでした。家に電話はなく、学校に連絡することができません。チェーンロックを外そうにも踏み台として使えそうなものはありません。そして家の中にはほとんど食べ物がありません。


 失意の遊喜くんは困ったように畳まれた布団に目をやります。きちんと三つ折りで畳まれた布団。その上には一枚の紙切れが置いてありました。何かにすがるように、遊喜くんはその紙切れを手に取ります。


『ゆうきへ。おかあさんはしばらくおしごとでかえりません。いえでいいこでまっててね。そとにでちゃだめだよ。じかんがあるときに、ごはんをわたすね』


 学校は遊喜くんにとって大切な場所です。いつも同じ服を着てボロボロの上履きを履いている。そんな遊喜くんにとって学校は友達のいる場所であり、優しい保健室の先生がいる場所であり、そして貴重な食事にありつける場所なのです。


 お母さんはいつどのタイミングでどれくらいの食糧を持ってきてくれるのかわかりません。姿はなく、衣類もカバンもどこかに運んだ。そんなお母さんが本当に家に帰ってくるのかもわかりません。


 ひらがなだらけの手紙を読んだ遊喜くんは、今度はキッチンへ向かいました。水道は使える、電子レンジも使えそう。だけど冷蔵庫や食品棚には……歯の少ない遊喜くんには食べにくいものばかりがありました。


 マヨネーズ、プラスチックケースに入った生の米、少し傷んだ生野菜。見るからに堅そうな煎餅、意外と噛むのが辛いスナック菓子、カレーのルーやスルメもあります。


 お腹ならいつだってペコペコです。朝食も夕食もまともに食べていません。だから遊喜くんは、少しでも食べられそうなものがあると気づくや否や手を伸ばしていました。後先のことなんて考えずにカレールーを口に放り込み舐めています。


 お世辞にも美味しいとはいえません。だけど食べるものがあるだけマシです。遊喜くんは空腹の恐ろしさを誰よりも知っています。だから食べ物を見つけると直ぐに口に入れてしまうのです。


(お母さん、いつ帰ってくるのかな)


 寂しいけれど泣きません。お母さんを疑うこともしません。大人しく待つことだけを考えることにしました。それが更なる悲劇を生むとも知らずに。

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