奏くん4

 奏くんが警察署でお話をしている頃のこと。お母さんは実家にいました。お母さんは家に帰らない時間の大半を実家で過ごしています。そこに奏くんはいません。


 おじいちゃんとおばあちゃんは最初こそ奏くんのことを何度も尋ねました。ですが何度聞いてもはぐらかされるばかり。終いには「奏は私がちゃんと育ててるから!」と逆ギレされてしまいます。いつしかおじいちゃんもおばあちゃんも奏くんのことを尋ねるのを止めてしまいました。


 お母さんは定職に就くわけではなく、家事をするわけでもなく、ただただ家で転がってスマホやゲーム機を片手に遊んでいるだけです。時折バイトで稼いだ僅かなお金を手にパチンコ屋へと向かいます。


「おい、お前。これはなんだい? 給水停止予告書に電気停止の予告状? お前、水道代も電気代も払ってないのかい?」


 おばあちゃんが見つけたのは、お母さんがテーブルの上に置いたままにしていた二枚の紙でした。


「うるせーなぁ、クソババア。こっちは負け続きで金がねぇんだよ。仕方ねぇだろ?」

「奏は大丈夫なの?」

「大丈夫なんじゃねぇの。よくあることだし。それに、元はと言えばあいつの怪我がいけねぇんだし」

「怪我だって? 奏が怪我してるのにどうして――」

「あーもう、うるせぇな! 奏は私が私のやり方で育ててんだよ! あんたらには関係ねぇだろ!」


 おばあちゃんに干渉されたことが嫌だったのでしょう。お母さんは声を荒らげ、近くにあったテーブルを蹴飛ばします。テーブルの上にあった灰皿が音を立てて床に落ちました。むせ返るような煙草特有の臭いが部屋に充満します。


 お母さんは今、手に持ったゲーム機に夢中でした。やや値段の張るゲーム機本体と発売されたばかりの新作ソフト。実はこれらを揃えるために電気水道ガスを犠牲にしたのでした。ゲームに夢中なお母さんは、スマホの着信に気付きません。


 スマホはゲームの邪魔をしないようにとサイレントマナーになっていました。警察署から電話がかかってきても、スマホの液晶を見ていなければ着信があったことすらわかりません。スマホは床に放り投げられています。


 結局、その日のうちにお母さんがスマホを見ることはありませんでした。警察署や小学校、児童相談所からの着信に気付くこともありません。お母さんがそれらに気付くのはもう少し日が経ってからのことでした。





 奏くんが待っても待っても、お母さんと連絡が取れることはありませんでした。度重なる万引き行為とその理由、そして過去に一時保護された経緯。奏くんの知らない内に大人達が様々な情報を元に話し合い、一時保護所にて少しの間保護されることとなりました。


 お母さんは本当に月に一度家に帰ってくるか来ないかという状態。家事は全て奏くん自身が行っていました。左足を骨折したと知っても病院に連れてかず、怪我人である奏くんに対して暴力を奮っていたという通報もあります。


 児童相談所は何年も前、一時保護をしたものの緊急性はないとして奏くんをお母さんの元へと返していました。その後少しの間は定期訪問を繰り返していましたが、いつしかお母さんに拒絶され、話すこともできなくなりました。それでも小学校に通っているからと、経過観察を続けていたのです。


 小さな部屋で、児童相談所の職員さんが奏くんと向き合います。警察からの連絡を受けて最初に動いたのは、お母さんではなく児童相談所でした。奏くんは職員さんと目を合わせようとしません。


「奏くん。もう一度、少しの間お母さんと離れて過ごそうか」

「なんで?」

「なんでって――」

「俺が悪いから。お母さんは、悪くないから。万引きしたのは俺が我慢出来なかったからだし、そもそも俺がしっかりしてたら……」


 奏くんは困ったように視線を左右に動かします。その姿は見えない何かに怯えているように見えます。けれどお母さんを庇う姿は嘘をついているようには思えません。


「あのね、奏くん。普通のお家は水も電気も止まったりしないの。お母さんやお父さん、育ててくれる大人がいるの。保護者……保護者はお母さんのことね。保護者は、子供を置いてけぼりにしちゃいけないの。お金ちょっとだけ置いてたって、お母さんが何もしなかったってことはダメなことなんだよ」

「でも、お金くれたよ? お金くれたから。だからお母さんはきっと、きっと……」


 奏くんは知りません。お母さんが定職に就いていないことも、少ない稼ぎのほとんどがギャンブルに消えていることも、生活環境の維持よりギャンブルを優先していることも、保険料を滞納し過ぎて保険証を貰えない状態にあることも。それは、奏くんが警察に保護されてから初めて判明したことでした。


 知らないからお母さんを庇えるのでしょうか。気付いていてもお母さんを庇わずにはいられないのでしょうか。折れた左足が痛いはずなのに、通院すらさせてもらえないのに。それでも奏くんはお母さんを庇って笑うのです。


「一時保護所って分かるかな? だいぶ前に来たことあると思うんだけど……」

「嫌だ。俺、あそこだけは嫌だ!」

「どうして?」

「外出られないし、学校より忙しいし、大人の人怖いし」

「でも、水も電気もあるよ? ご飯もきちんと三食食べられるよ?」

「……また家に戻ったら、お母さんに怒られるし」

「怒ったお母さんは何をするの?」

「蹴ったり、殴ったり、色々。けどお金くれるから、お母さんは悪くないから。俺が怒らせるからいけないんだし。お母さんは悪くないから」


 奏くんが気になるのは一時保護所という特殊な空間に対する恐怖と、またお母さんの元に戻ってきたあとの暴力に対する恐怖。怖いはずなのに小さく笑うのは、負の感情を出さないようにして生きてきたからでしょうか。


「それにお母さん言ってたし」

「何を?」

「『じどーそーだんじょ』はいい親のフリすれば子供を返してくれるんだって。たまたまその日は強く叱っただけとか、『いーわけ』をすればいいんだって。またお母さんのところに戻るんでしょ?」


 職員さんを見る奏くんの眼差しが変わります。お母さんを庇っている間はまだ、その瞳は光を放っていました。ですが職員さんを疑うような内容になると、その顔から表情が消えます。瞳はただ外の光景を反射しているだけになりました。


「戻るかもしれないなら行きたくない。一時保護所から戻った時の方が辛い。どうせまた戻して放置するんでしょ? なら、一人で頑張る方がマシだよ」


 ガラス玉のような瞳が瞬きもせずに職場さんを見つめます。けれどその瞳はどんなに見つめても空っぽで、感情を感じられません。奏くんが何を考えているのかを仕草や表情から察することさえ出来ないのです。職員さんの口から出かかった言葉は音になる前に喉の奥へと引っ込んでしまいました。





 奏くんは職員さんを信用しません。児童相談所も信じません。お母さんの元に戻ることを前提に物事を考えています。「戻った時の方が辛い」という奏くんの言葉が全てを物語っていました。


 満足いくまでご飯を食べることが出来なくても、電気や水道が止まっても、お母さんが帰ってこなくても。これまで一人で乗り切ってきた奏くん。万引きが見つかる今日まで、誰一人として奏くんの状態に気付かず手を差し伸べることもしませんでした。


 泣きたい日もあったでしょう。やり場のない怒りを抱えた日もあったでしょう。そんなどこにもぶつけられない感情を、諦めることでやり過ごしてきたのです。痛みも悲しみも怒りも何もかも全てを忘れようとすることで乗り越えてきたのです。


「ごめんね」


 長い間を空けてようやく職員さんの口から飛び出たのは謝罪の言葉でした。職員さんが伸ばした手を奏くんは勢いよく叩き落とします。職員さんの手の甲が赤く染まります。


「すぐに気付けなくてごめんね。助けに来れなくてごめんね」

「俺に中途半端に関わんなよ!」

「ごめんね」

「またいなくなるくせに。戻った後のことなんて気にもしないくせに」

「ごめんね」

「今更謝らないでよ!」


 奏くんが欲しいのは謝罪の言葉ではなく、一時的な優しさでもなく、救いの手でした。かつて一度掴んだそれは驚くほど簡単に離れていきました。差し伸べといてその手を離すのなら最初から差し伸べないで欲しい、というのが奏くんの言い分です。


 職員さんは職員さんで「必ず」とは言えません。奏くんを保護した後、元の場所に戻るか施設に行くことになるのかは、職員さん一人が決めるわけではないのです。最終的な決断がどうなるかはその時にならないとわかりません。


 一時保護の期間は限られています。二度目の一時保護であること、その間のお母さんの態度、などから奏くんの今後を考えなければいけません。けれど今の職員さんには奏くんを一時保護することしか出来ないのです。


「一緒に、来てくれないかな?」

「お母さんがいい人のフリをしたらまた戻るのに? どうせ戻るのに、あの場所に行ってなんの意味があるんだよ」

「まだ戻るって決まったわけじゃ――」

「戻らないって決まったわけでもないし。どうせお母さんのことを信じて俺を返すんでしょ?」


 奏くんが職員さんを信じていないのは誰の目にも明らかでした。一度お母さんの元に返されてから、誰も手を差し伸べてくれませんでした。長い月日が奏くんの心を凍りつかせてしまったのです。職員さんは何も言い返せないまま、奏くんの手を握ることしか出来ませんでした。





 その日、奏くんは苦虫を噛み潰したような顔で職員さんの隣にいました。左くるぶしは相変わらず白いギプスで固定されていて、松葉杖と右足で体重を支えています。怪我した日を境に病院に行けなかった奏くんには、足がどの程度良くなっているかわかりません。


 着ているのは万引きの時と同じぶかぶかのパーカーでした。着崩れたパーカーの下には鎖骨と少し浮き出た肋骨が見え隠れしています。くたびれて穴の空いたズボンは定期的に持ち上げないとすぐに脱げてしまいます。


 奏くんが一時保護所へ移動する日になってもお母さんからの連絡はありませんでした。ゲームに夢中で着信があったことも留守電が残っていることも気付かないのでしょう。もう奏くんはお母さんが迎えに来ることを諦めています。


「一時保護所にいる間に俺をどうするかが決まるんだよね」

「うん、そうだね」

「大丈夫。もう期待してないから。お母さんにも『じどーそーだんじょ』にも」

「奏くん……」

「最初から期待しなけりゃ苦しむこともないし。スーパーの店長みたいに、俺みたいな奴のこと、信じない奴の方が多いし。だからさ、もう大人に期待すんのはやめた」


 期待していないと言い張る奏くんですが、その目は近くを通る大人達へと向いています。お母さんが来ているのではないかと無意識に探しているのです。


 一時保護所に行ってしまえばしばらく外の世界には触れられません。たまにしか会わないお母さんとも、学校で仲良くしていた友達とも、会えなくなります。けれど食べ物に困ることはありません。万引きする理由はなくなります。


「万引きはいけないことって知ってる?」

「知ってるよ。そんなこと、ずっと前から知ってる」

「知ってて?」

「他に方法知らなくて。本当はやりたくないけど、空腹とかに耐えられなくて。盗む度に、盗んだ物を飲み食いする度に、胸が苦しくなった。お金があれば普通に買うよ。当たり前じゃん」


 悪いことを悪いと言える、善悪の区別がきちんとついている。そんな奏くんに、どうしてか職員さんは安堵の表情を隠せません。水道やガスが止まらない、三食きちんと食べられる環境であれば、奏くんは万引きを止めるでしょう。奏くんに必要なのはお母さんとの関係改善ではなく、安心して生きられる環境です。


「お母さんのこと、好き?」

「……お酒を飲んでないお母さんなら、嫌いじゃ、ない」

「家に帰ってこなくても?」

「それでも、たまに帰ってきて少しだけどお金くれたから。だから、いいんだよ。悪いことしたのは俺」


 お母さんが奏くんに会いにこなくても、お母さんがお母さん自身のことを優先していると知っていても。それでもやっぱり、奏くんはお母さんのことを悪くは言いません。まだお母さんのことを心の奥底では信じているのです。


 どんなに目を凝らしてもお母さんらしき大人は現れません。まだ少しだけ時間に余裕があります。職員さんは時間いっぱいまで、奏くんが納得するまで、お母さんを待ってあげることにしました。


 奏くんは小さな目を大きく見開いて、近くを通る人達の顔を必死に見ています。お母さんはまだ職員さんに折り返しの連絡すら寄越さないままです。時間だけが淡々と過ぎていきました。

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