奏くん3
骨折をしてからの奏くんは酷い有様でした。同じ柄の濡れた服を毎日着ており、体からは少し変な匂いがします。松葉杖を使った状態では上手く体を洗えず、申し訳程度に濡れたタオルで手の届く範囲を拭くことしか出来ません。衣類を手洗いするも上手く干すことが出来ません。
顔や唇は不自然に腫れていて、腕や足には青紫色の痣が残っています。転んだと誤魔化すにはあまりにも痛々しい傷跡。加えて白いギプスに覆われた左足と松葉杖。見ている方が目を背けたくなるほどです。それでも一番辛いはずの奏くんは笑っていました。友達の前でいつも通りを心がけていました。
「奏くん、その怪我は?」
「ちょっと怒られちゃって」
「お母さん?」
「でも、悪いのは俺だからさ」
お母さんに蹴られた翌日の昼休み、奏くんは保健室にやって来ました。さすがに怪我を放置するのは良くないと考えたからです。鳥海先生が傷の手当をしていきます。
念の為にと服をまくってもらうと、目を背けたくなるような傷跡がありました。腹部を中心として赤黒い痣が広範囲に存在しているのです。こちらの怪我は残念ながら保健室では何の手当も出来ません。
「病院に通えそう?」
「…………正直に言うと、無理」
「どうして?」
「立て替えてもらった分のお金しか貰えなかった。もう、本当に何も無い。病院行っても、お金払えない」
奏くんは今にも泣きそうでした。友達の前では泣くまいと必死に涙を堪えていたようです。鳥海先生がそんな奏くんの隣にそっと腰をかけます。
「歩くの、辛いでしょ」
奏くんは小さく頷きます。
「ちょっと休んでく?」
こちらの問いかけには首を左右に振りました。
「教室、戻れる?」
「転んだ怪我の手当って言ってきたから。ここで帰ったら、不自然でしょ?」
「でも……」
「大丈夫。きっと、大丈夫。まだ水道使えるし、電気も使えるし、節約すれば大丈夫。鳥海先生、手当してくれてありがとう」
小学生の口から電気、水道、節約といった単語が出てくるのは不自然です。普通の家庭であれば電気水道ガスは親がきちんと支払っているはずですし、節約と口にするのは保護者くらいのものです。けれど奏くんは違いました。
体中の痣、金銭面の心配、電気水道ガスの心配。それらから感じられるのは虐待の兆候でした。お母さんが月に一度帰ってくるかどうか、という話もありました。これは
「気をつけて戻ってね」
「わかってる。また怪我したら来るね」
奏くんは器用に松葉杖を使い、保健室から去っていきます。そして誰の手も借りずに階段を上り、友達の待つ教室へと戻るのです。そんな奏くんの姿に、鳥海先生はある決意をするのでした。
奏くんの身に第二の悲劇が起きたのは、お母さんがいなくなってから数週間後のことでした。いつも通りに帰ってきた奏くんは洗面所で手を洗おうとして違和感に気付きました。
蛇口をどんなに捻っても水が出てこないのです。台所の蛇口も風呂場も同じでした。トイレではどんなにレバーを上げても水が流れません。給水そのものがストップしているようです。
嫌な予感して照明のスイッチをオンにしてみましたが、明かりはつきません。いつもならひんやりしているはずの冷蔵庫の中は生ぬるくなっています。コンセントを差し込んでも電子レンジは動きません。水だけでなく電気も止められていました。
「よりによってこのタイミングかよ」
実は電気や水道が止まるのはこれが初めてではありません。前から何回か似たようなことが起こっていました。大抵止められた翌月の給料日かその翌日には元に戻るのですが、それまでしのぐのに一苦労します。
これまで、電気や水道が使えなくなった時は万引きしてやり過ごしてきました。飲み物と食べ物を万引きし、明かりのない部屋で体を丸めて寝る。奏くんは電子レンジや冷蔵庫を使う物を避けて万引きし、事なきを得てきました。
けれど今回ばかりはそう上手くしのぐことは出来ません。万引きの腕には自信があります。毎日のように万引きしていたせいか、自然と手際が良くなりました。問題は万引きの手腕ではなく足にあります。
奏くんは左足は骨折しています。松葉杖を持ったまま上手く万引き出来る自信はありません。松葉杖のせいで目立つ上に素早く動けないからです。だから今月はどうにか水道水と給食だけでやりくりするつもりでいました。
水と電気が使えなくなった今、奏くんに残されたのは過去に万引きして取っておいた500mlのジュース二本だけ。トイレは使えず、体を拭くことも出来ず、衣類を水洗いすることも出来ません。
お母さんが料金を滞納したことにより起きた水と電気の停止。今までの感じからいけばきっと次の給料日まで水と電気は止まったままです。足の治療はもちろん、次の給食費だって払えるかどうか。
奏くんは声を失い、棒立ちするしかありませんでした。
電気と水が止まってから数日後の夕方。奏くんは何度も何度も通っていた行きつけのスーパーに来ていました。ぶかぶかのパーカーを着て、松葉杖で店内を歩いています。
もう家に飲み物も食べ物も残っていません。お金も残っていません。お腹はペコペコ、喉はカラカラです。公園の水飲み場に行くことも試しましたが、松葉杖で往復する間に余計に喉が乾くだけでした 。これ以上は我慢できないと、ついに奏くんは行動に出たのです。
ぶかぶかのパーカーは中に盗んだ食べ物や飲み物を入れるためのもの。これまで何度も通っているため防犯カメラの位置と向き、死角はわかっています。今までと違うのは松葉杖のために手際が悪くなるのと買い物客の視線が集まってしまうことだけ。
お惣菜コーナーにやってくると、商品を選んでいるフリをして周りの人達が自分を見ているか確認します。防犯カメラの位置や向きが変わっていないかもさりげなく確認します。これまで万引きを繰り返して生きてきただけあって、確認する姿に不自然さはありません。
陳列棚に並ぶおにぎりへと手を伸ばします。おにぎりを掴む指先が少し震えました。今までなら手際よくサッとパーカーの内側におにぎりを入れられたのに、今はおにぎりを手に取ることすら躊躇ってしまいます。
出来ることなら今すぐ口に入れてしまいたい。けれどそんなことをすれば間違いなく捕まるでしょう。万引きも悪いことですが、今までのように上手く逃げ帰ることが出来れば大丈夫です。そう頭ではわかっているのに、いざおにぎりを目の前にすると衝動を抑えられなくなりました。
店内の軽快な音楽に合わせてお腹がググーっと大きな音を立てます。右手に掴んだおにぎりを急いでパーカーの内側に放り込み、何事もなかったかのように振る舞います。けれどお腹の音にびっくりして慌てた奏くんは、周りの人達の視線を見ることを忘れてしまいました。
奏くんは周りの人に見られてることに気付かず、外へと移動します。その途中、ペットボトルを何本か手に取ってパーカーの内側にしまいました。入ってきた時より少し膨らんだパーカー。中身を落とさないようにゆっくりと松葉杖で移動します。
そんな奏くんの肩を後ろから優しく叩く人がいました。奏くんが後ろを振り返るとそこにはスーパーの店員さんがニコニコと笑って立っています。店員さんに肩を叩かれた理由なんて一つしかありません。
「ちょっといいかな。そのパーカーの下に隠したもの、見せてくれる?」
奏くんは逃げようとしませんでした。松葉杖をついている状態では逃げてもすぐに捕まるとわかっていたからです。店員さんが奏くんをスーパーの裏側へと案内していきます。もう万引きを誤魔化すことは出来ません。
店員さんに連れていかれた先にあったのは大きなテーブルでした。テーブルを挟むように椅子が二つ置いてあります。奏くんが座ると店員さんがその向かい側に座ります。
「お母さんとお父さんの連絡先、わかるかな?」
「知らない」
「家の電話番号は?」
「家に電話ない」
「……ふざけないで真面目に答えてくれる?」
「俺は嘘なんてついてない!」
奏くんの家に電話機はありませんでした。緊急連絡先であるお母さんの連絡先を奏くんは知りませんし、繋がったところで出るとは限りません。そして奏くんの家にはお父さんがいませんでした。
「お名前は?」
「羽沢奏。豊谷小学校四年生」
「お父さんとお母さんは?」
「お父さんはいない。お母さんは給料日って日にしか帰ってこない」
「どうしてものを盗んだの?」
「金がない。水、止まった。喉カラカラ、お腹ペコペコ。買えないから、こうするしかなかった」
奏くんがパーカーの中からペットボトルやおにぎりを出しながら言います。けれど店員さんはその言葉を笑って聞き逃しました。そして奏くんの目を真っ直ぐ見て告げるのです。
「親が子供を置いてでかけっぱなしなはずないでしょ?」
「でも……」
「お母さんのことそんなふうに言っちゃいけないよ。喧嘩でもしたのかな?」
「違う!」
「帰ってこないはずないよ。家族なんだから」
「でも……」
「君がしたのは悪いこと、犯罪なんだよ。今から警察呼ぶからね」
万引きが悪いことだということは奏くんも知っています。奏くんだって出来ることなら万引きなんてしたくありません。今回の万引きは奏くんなりに悩んだ結果です。
奏くんの置かれた状況に困った店員さんは警察に通報し、奏くんが通ってるという小学校にも一報を入れることにしたのでした。
スーパーにやってきたのは警察官でした。警察官は奏くんを車に乗せ、警察署まで連れていきました。奏くんが案内されたのは警察署の中にある個室です。
「どうして盗んじゃったの?」
「お金なくて。水も電気も止まって、食べ物もなくて。お腹がすいたから」
「水も電気も? お父さんかお母さんの連絡先、わかるかな。電話番号とか」
「お父さんはいない。お母さんは帰ってこない。電話番号は知らない」
「そっかー。盗むのって今回が初めて?」
「…………前から。お金なくて、お腹がすいて。お昼は給食があるけど朝と夜はないから、それで盗んでた」
警察官は奏くんが話していることをメモします。ですが次第に、その顔が険しくなっていきました。
「お母さん、どれくらい帰ってきてないの?」
「給料日? に、帰ってくる。たまに帰ってこないけど。で、五千円だけ置いてどっか行っちゃう。五千円貰っても給食費でほとんど無くなっちゃって。残ったお金はお母さん帰ってこない時に備えて、給食費払えるように取っておいてて」
「うんうん」
「けど足怪我しちゃったから、今月貰ったお金は立て替え? してくれた担任の先生に返した。で、貯めてたお金は今月の給食費にした。そしたらお金無くなって。このタイミングで水と電気も止まっちゃって」
「それは困ったねぇ」
「今まではお腹すいたらおにぎりとか取ってたけど、足怪我してるから上手くいく気がしなくて、少し我慢してた。我慢出来なくて久々におにぎりとか取ったら、予想通り見つかった」
警察官は奏くんの話を疑ってはいないようです。いえ、正確には疑うよりまずは奏くんの話を記録することに徹しました。奏くんの話を否定せず、時折相槌を打って先を促します。
「いつからこんなことしてたの?」
「覚えてない。お母さんに鍵貰ってから。小学校入る前からやってた。最初はたくさん見つかって怒られて蹴られたけど、段々見つからないように出来るようになった」
「お名前、フルネームで教えてくれる?」
「羽沢奏」
「羽沢奏くんだね。昔もこんなふうに僕と同じ服着た人とお話した?」
「した。で、変なとこ連れてかれて、そこでちょっとの間過ごして、また戻ってきた」
「わかった。ちょっと待っててくれるかな」
奏くんが万引きで警察署に来るのは今回が初めてではありませんでした。お店こそ違いますが、万引きが見つかって警察官が来るのは何年かぶりです。奏くんのいう「変なところ」は児童相談所のことでした。
警察官が戻ってくるまでの間、奏くんは考えていました。また昔みたいに変なところへ連れていかれるのか、お母さんと連絡が取れるのか、不安なことは沢山あります。けれど途中でググーっとお腹が鳴ってしまい、そのままぐったりと机に伸びてしまいました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます