奏くん2

 鳥海先生に宥められてようやく落ち着くも、奏くんの心は穏やかではありませんでした。その原因は怪我にあります。


 奏くんの荷物の中に保険証はありません。自宅に電話をかけてもお母さんの携帯電話に連絡しても、緊急連絡先に電話をしても繋がりません。留守電を残しているのですが折り返し電話がかかってくる様子はありません。


「奏くん。保険証って持ってるかな?」

「ほけんしょー? よく、わかんないけど、金かかるやつなら、ない」

「お母さん、どこにいるかわかる?」

「知らない。運が良ければ、二十五日に、帰ってくる」


 鳥海先生は奏くんの言葉に違和感を覚えました。保護者というのは普通、余程のことがない限りは毎日家に帰ってくるものです。さらに二十五日という日にちも引っかかります。


 二十五日といえば世間一般的な給料日です。その日だけ帰ってきてあとは家にいないということでしょうか。それにしても奏くんが緊急時の連絡先を知らないことに違和感を覚えます。そもそも非常時に繋がらない緊急連絡先など、なんの意味もありません。


「鳥海先生、車持ってきました。保護者と連絡とれましたか?」

「ダメです。何度かけても留守電になります。一応伝言は残しましたが、はたして聞いてくれるかどうか……」

「留守電になるだけマシですよ。伝言サービスの設定すらしてない時がありますから。家に訪問してもいませんし……」


 担任の先生が車を移動させて戻ってきました。お母さんと連絡が取れない状況を知ると苦笑してしまいます。奏くんの保護者となかなか連絡が取れないのは今始まったことではないようです。


 お母さんと連絡がつくまで待っていては何も出来ません。奏くんの怪我は早急に医療機関で処置を受ける必要があります。悩んだ末に、担任の先生は一つの決断をしました。


「今回は俺が立て替えます。で、怪我を知った後のお母様の反応を見てからどう動くか決めましょう。だから病院に行くぞ、奏。お金のことは気にするな。そんなことより、お前の方が大事なんだからな」


 担任にここまで言われては拒否できません。奏くんは渋々病院に向かうことを認めたのでした。





 病院で診察してもらった結果、奏くんの左くるぶしは骨折していました。当然支えなくして歩くことも出来ず、病院で松葉杖を借りることとなります。治療に伴う費用と松葉杖を借りるためのお金は担任の先生が立て替えることとなりました。


 運良く手術をしなくても良いこととなり、患部はギプスによって固定されています。完全に治るまで時間がかかりそうです。それまでは松葉杖での生活となり、日常生活を送るだけでも一苦労です。骨折により、奏くんの生活に二つの悲劇が生まれてしまいました。



 一つ目の悲劇はお母さんに関することです。奏くんの予期してた通り二十五日の給料日に自宅に帰ってきたお母さんは、奏くんのギプス姿を見て、これでもかと目を釣りあげたのです。松葉杖はお母さんに蹴られ、床部屋の隅へと追いやられてしまいました。


「おい、てめぇ、誰の金で生活してると思ってんだ?」

「ごめんなさい」

「人が必死に働いてるってのによくもまあそんな怪我出来たなぁ」

「ごめんなさい」

「言ったよなぁ。これ以上無駄な金使わせんなって」

「ごめんなさい」

「そのケガでいくら飛んでくか知ってんのかよ!」

「ごめんなさい」


 お母さんは松葉杖とギプスで生活している奏くんを見るやいなや、その頬を叩きました。衝撃に耐えきれず奏くんが床に転がれば、そのお腹を力一杯蹴り上げます。奏くんはただ謝ることしかできません。どんなに奏くんが謝ってもお母さんは攻撃の手を緩めてくれませんでした。


 腹部を蹴られ、頭部を踏みつけられ、ギプスを蹴飛ばされ。それでもまだお母さんの怒りは治まりません。次第に奏くんの体には痣が増え始め、鼻から床に血が垂れます。それでも奏くんは泣かずに痛みに耐えます。


「床を汚してんじゃねぇよ!」

「ごめ、なさい」

「この家に住ませてやってるんだ。感謝しな」

「あり、が――」

「そもそもなぁ、生まれてこなくてよかったんだよ、てめぇなんて。私がいるからてめぇは今ここにいるんだ。わかってんのかぁ?」

「わかってる」

「勝手に怪我してんじゃねぇぞ、このクソガキが!」


 奏くんを蹴り続けるお母さんからは強いお酒の臭いがしました。どこかで一杯飲んでから帰ってきたのでしょう。酔っ払っているせいなのか、いつも以上に力加減が下手です。


 何度も蹴り続けられていると、次第に奏くんの視界がボヤけていきました。頭の中がスーッと白くなっていきます。奏くんはそのまま意識を失いました。





 目を開けるともうお母さんはいませんでした。どうにか痛みを我慢して上体を起こし松葉杖を探します。松葉杖がある場所を見つけると、両腕だけで床を這って松葉杖を手に取りました。


 器用に両腕と壁を使って片足立ちをします。そこから上手く松葉杖を使って起き上がりました。床には乾いた血が残っています。全身に残る痛みに思わずため息をつきました。


「やっぱり、こうなる、よな」


 お母さんが奏くんに暴力を振るうのは今始まったことではありません。お母さんは給料日に気が向けば、五千円を家に置きに来てくれます。ですがその時に機嫌が悪ければ、お母さんが満足するまで蹴られたり殴られたりするのです。


 奏くんは知っていました。下手に抵抗するとお母さんの暴力は悪化します。何をされても泣かずに謝り痛みにじっと耐えていれば、暴力は比較的簡単に終わります。お母さんはただ、奏くんでストレス発散をしたいだけなのです。


 いつもの癖でテーブルの上に目をやります。給料日になると、お母さんが帰ってきた時だけ、テーブルの上に五千円札が置かれているのです。だけど今日は違いました。お母さんは帰ってきたのに五千円札はありません。代わりに、見たことの無い紙幣が置かれています。


「一、十、百、千、万……一万円札?」


 いつもの倍にあたる金額の一万円札が一枚、テーブルの上に置かれています。理由はすぐにわかりました。骨折した時の高い治療費を担任の先生に返さなければいけないからです。担任の先生から貰った領収書の金額はかなり高く、五千円より上でした。だけど……。


「これ、治療費払ったら、何も残んないじゃん」


 保険証がなかったため、奏くんの治療費は約一万円でした。それも痛み止めを出してもらわないで、です。お母さんから一万円札一枚貰ったところで担任の先生にお金を返したら給食費すら払えません。


 いざと言う時に備えて、お母さんから貰ったお金は給食費以外に使わないようにしてきました。食事だって給食と万引きした物でどうにかしてきました。そうしてどうにか貯めていたお金だって今度の給食費を払えばもう何も残りません。五円十円といった小銭で何を買えばいいのでしょうか。


 万引きと給食で生活するにしても松葉杖をついた状態では無理があります。今までは周りの視線が逸れた一瞬に素早く物を盗んでいましたが、それが今は出来ないのです。


 松葉杖をついた姿では嫌でも視線を集めてしまいます。ぶかぶかのパーカーの下に盗んだ物を隠しても、松葉杖をついて歩くのでは移動中に隠したものを落としてしまいまいそうです。こうなるともう、給食に出てくるパンを持って帰ったり他の子が残した給食を貰うしかありません。ですがそれをすれば友達に今の奏くんの生活がバレてしまいます。


 お母さんに暴行された上にお金が何も無くなった奏くん。奏くんの身に起こった一つ目の悲劇は、これからの生活の目処が立たなくなったことでした。痣だらけの体でこの一ヶ月を耐えるのには無理があります。さらに、来月の給料日に必ずお母さんが帰ってくるとは限りません。


「さすがに、やばいだろ、これは」


 奏くんは頭が回る子です。これまで五千円札一枚で生活してきただけあって、食費にどれくらいかかるかがなんとなくわかります。だからこそ、すぐに察しました。お母さんのくれたお金だけで、松葉杖をついた状態で生活するのは不可能だと。


 お母さんを呼ぼうにも連絡先を知りません。帰ってきた時にお金を催促したところでまた殴られたり蹴られたりするのがオチです。ギプスを取ったり怪我の経過を見るためにまた病院に行かなければなりませんが、行ったところで治療費を払うことが出来ません。


 お母さんは保険証を見せてくれませんでした。となれば次の診察もかなり高くなるはずです。担任の先生は次も立て替えてくれるでしょうか。そもそもどうして保険証を渡してもらえないのでしょうか。


「病院行かないようにして頑張れば……そうするしか、ない、よな」


 奏くんはこの理不尽な現実を受け入れ、生きるしかありません。そんな奏くんに第二の悲劇が襲いかかるまでそう時間はかかりませんでした。

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