エピソード5 万引き少年

奏くん1

 ぶかぶかのパーカーを着た男の子がいました。スーパーのお惣菜コーナーの辺りをウロウロしています。その鋭い眼差しは前後左右にいる全ての人へと集中していました。そして店員の目が違うところを向き、お客さんが見ていない一瞬の隙を突くのです。


 素早く手を伸ばして陳列棚に並ぶおにぎりを掴みました。かと思えば目にも止まらぬ早さでおにぎりをパーカーの下へと隠します。そしてまた、お惣菜コーナーをウロウロし始めるのです。


 同じことを何度か繰り返し、おにぎり数個を盗んだところでお惣菜コーナーから離れます。パーカーの下にはおにぎり数個の他に菓子パン数個と小さめのペットボトル数本入っていました。盗った物をパーカーの下に隠したまま、お会計もせずに堂々と入口の自動扉から出ていきます。


 奏くんはこんなふうに万引きを繰り返す子供でした。欲しい飲み物と食べ物のほとんどは万引きで手に入れます。いつしか万引きしやすいお店に絞って活動するようになり、手際も良くなりました。


 奏くんが行きつけにしているスーパーには防犯ゲートがありません。監視カメラも特定の場所にしか向いていないため、場所と向きさえ覚えれば死角を狙うのは簡単です。あとは店員やお客さんの動きに注意するだけのこと。


 罪悪感がないわけではありません。万引きが犯罪であると知った上で行動しているのです。本来であれば堂々と商品を手に取ってきちんとお金を払うでしょう。けれど奏くんにはそれが出来ない理由がありました。



 万引きを終えた奏くんは何事も無かったかのように家に帰っていきます。インターホンを鳴らすことなく鍵を開け、暗い室内へと足を踏み入れます。家の鍵は物心ついた時から手元にありました。


 部屋に人の気配はありません。それもそのはず。奏くんはアパートの一室にほぼ一人で暮らしていました。本当はお母さんと二人暮らしなのですが、お母さんは月に一度帰ってくる程度。だから奏くんの中ではお母さんはいないことになっています。


 お母さんはたまに帰ってきてもすぐに出かけてしまいます。家に帰ってすることといえば五千円札を一枚テーブルの上に乗せるだけ。お母さんから托された五千円のうち八割ほどは毎月の給食費に回します。残ったお金も給食費のために安いお菓子を買って崩すだけで、それ以外お母さんが帰ってこない月に備えてなるべく使わないようにしていました。


 でも家が貧しいというわけではありません。ランドセルも学習机も体操着も上履きも、必要なものは買い与えられていました。電気水道ガスが使える間はお母さんがいなくてもどうにか生活が出来ます。奏くんに足りないのはお母さんの愛情だけ。


 奏くんの日常はお母さん無し、お金無しで回っているのでした。





 毎日夕方になると行きつけのスーパーで万引きをします。そこで夜ご飯と翌日の朝ご飯を確保するのです。ここで失敗すると朝もどこかで万引きしなければいけません。朝はいつものスーパーが閉まっているため、コンビニに行くしかありません。奏くんはコンビニでの万引きが大嫌いでした。


 万引きを終えたあとも奏くんにはやることがたくさんあります。まずするのは衣類の洗濯です。洗濯機の使い方がわからないので、キッチンの流し台で水を使って手洗いします。奏くんに洗濯を教える人も代わりに洗濯してくれる人もいません。


 着ていた衣服はいつだって手洗いです。洗剤を使わずに水でもみ洗い。それ以外のやり方を奏くんは知りません。それを終えたら雑巾のように水を絞って部屋に干すだけ。その際、既に乾いている衣服を回収してタンスにしまいます。


 宿題もしなければなりません。ゴミの分別をして、収集日に合わせてゴミ捨て場に運ばなければいけません。ゴミ袋や筆記用具といった生活用品は全て、お母さんがくれる五千円の中からまかなっています。


「せめてもう少し欲しいよな。テレビ番組ですら一ヶ月一万円だし。五千円じゃ給食費で終わっちまう」


 お母さんがくれるのはいつだって五千円札一枚。お金を貰うとまずコンビニに行って十円位の安いお菓子を買います。そこで千円札四枚とその他小銭をもらい、そこから給食費を払うのです。


 五千円札一枚で駄菓子一つを買う子供なんて奏くんくらいのもので、すっかりコンビニの店員さんに顔を覚えられていました。だからこそ顔見知りの店員がいるコンビニでの万引きが大嫌いなのです。


 出来ることならお金を使って真っ当な方法でご飯を買いたいです。ですが給食費を払わないわけにはいきません。学校の給食は奏くんにとって唯一安心してまともに食べられる食事なのです。万引きをして生活すれば払える給食費を払わないというのは奏くんには考えられないことでした。


 給食費のために万引きを続けること。それに伴うリスクを奏くんはまだ正しく理解してはいませんでした。今の生活を続けることでどんなことが起こるのか。それを知っていたらきっと、奏くんは給食費を犠牲にしたでしょう。


 もうすぐ二十五日、給料日です。運が良ければお母さんが五千円札を持ってやってきます。どうか今月もお母さんが来ますように。そう願わずにはいられませんでした。





 給料日を目前に控えたある日のこと。小学校でちょっとした事件が起きました。


 その日、奏くんはいつも通りに過ごしていました。真面目に授業を受けて給食を食べて友達とふざけあって。そんな日常の最後、放課後にそれは起きたのです。


 奏くんのクラスは校舎の二階にあります。下校の際には一階まで降りる必要があります。事件は一階へと繋がる階段で起きました。


 奏くんは友達と話しながら階段を降りていました。上階からは同じく下校中の上級生の声が聞こえます。奏くん達が楽しそうに話していると、突然上の階から上級生が駆け下りてきました。その一人の体が運悪く奏くんにぶつかります。


 何も知らない上級生はそのまま一階まで一気に下っていきます。奏くんは咄嗟に手すりを掴もうと手を伸ばしましたが、間に合いませんでした。奏くんの足が段差から離れ、前のめりに階段を落ちていきます。ボキッと嫌な音が聞こえた気がしました。


 奏くんの落下は踊り場で止まりました。派手な物音に上級生が戻ってきます。友達が奏くんの元へと駆けつけます。奏くんは踊り場にうつ伏せになって伸びていました。


「奏? 奏!」

「やばい、保健室!」

「鳥海先生を呼んで!」

「起きれる? ……無理そう。でも背負えないし」

「職員室でこの子背負えそうな先生呼んでこよう」


 奏くんはあちこちに擦り傷と痣が出来ていました。左足はくるぶしがパンパンに腫れ上がって紫色になっています。ただ事でないことは生徒達の目にも明らかです。


 奏くんにぶつかった上級生とその友達は急いで先生を呼びに行きました。奏くんの友達はただただそばで声をかけることしか出来ません。遠くから人が走ってくる足音がします。


 やってきたのは担任の先生と養護教諭の鳥海先生でした。担任の先生が奏くんの体を背負って一階へと降りていきます。鳥海先生が奏くんのランドセルを手にして、担任の先生に続きました。





 奏くんが運ばれたのは保健室でした。担任の先生が奏くんをベッドに寝かせ、鳥海先生が怪我の状態を確認します。鳥海先生が全身を確認するまで、誰も声を発しませんでした。


「……病院に行きましょう。骨折してる可能性があります。あと、お母様に連絡をしないと」

「したら俺が病院まで車で連れていきます。車、持ってきますね」

「お願いします」


 担任の先生が車を移動させている間、鳥海先生が奏くんに出来る限りの手当を施します。といっても保険室で出来ることは限られていて、腫れ上がってる部分に添え木をして包帯でグルグル巻きにすることだけ。奏くんの額には冷や汗が浮いています。


 鳥海先生は奏くんへの処置を終えるとすぐさま奏くんの緊急連絡先へと電話をかけます。ですが何度かけても留守番電話になってしまいます。次第に鳥海先生の表情が険しくなっていきました。


「奏くん。お母さん、今日おでかけ?」

「……給料日にしか、帰って、こない」

「そっか。これから病院に行くんだけど、お母さんに連絡取る方法ってあるかな?」

「病院、やだ。金、ない。行かない。帰る」

「何言ってるの! 骨が折れてるかもしれないんだよ?」

「お金ない、お母さん来ない、怒られる。やばい、やばいやばい」


 お母さんの連絡先を聞こうとするも奏くんは連絡先を知らないようです。それどころかお金が無いからと病院をも拒絶する始末。混乱して過呼吸気味になった奏くんを、鳥海先生は優しく抱きしめることしか出来ませんでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る