由貴ちゃん4
幼稚園年長の子供達がお部屋で好きなことをして遊んでいます。ほとんどの子供が複数人のグループで遊ぶ中、一人だけどこにも属さない子供がいました。
「由貴ちゃん、おままごとしよーよ」
「……おままごと?」
「由貴ちゃんはねー、ママになって。ママやる人がいないの」
「何するの?」
「あのねー、ママの真似をすればいいんだよ」
「ママの、真似……」
「ほら、一緒に来て」
孤立している子供の名前は由貴ちゃんと言うようです。他の子に誘われて渋々おままごとに参加します。「ママの真似をすればいい」と言われても浮かない表情をしているのはどうしてでしょうか。
由貴ちゃんはお母さん役。他の子供達はお父さん役、子供役、ペット役、とすでに役割が決まっているようです。由貴ちゃんは促されるがままにお母さんとして、台所で料理をするフリをします。
「言う事聞かないなら家から出ていきなさい」
けれど由貴ちゃんの発した言葉に場の雰囲気が一気に凍りつきました。子供役に向けた言葉のようですが、由貴ちゃんは発言の異常さに気付いていません。
「ママ?」
「ほら、早く外に行きなさい。言う事聞かない子なんてママの子供じゃないわ。ほら、早く出てって!」
「ママ……」
「夕飯は無しよ。悪い子はさっさと出てく。言う事聞かないなら……あんたなんか死んじゃえー!」
由貴ちゃんはアドバイスされた通りに、お母さんに実際に言われたことを、仕草や声音まで真似していました。それが求められていると思ったからです。玩具の包丁を突きつけるところまで忠実に再現しました。
由貴ちゃんの演じるお母さんがよほど怖かったのでしょう。子供役の人が泣きながら遊んでいた部屋から出ていきます。その子がもう一度部屋に戻って来た時、その小さな手は先生の手を掴んでいました。先生は由貴ちゃんの元へと真っ直ぐにやってきます。
「なんでそんなひどい事言うの? なんで『早く出てけ』なんて言うの?」
「お母さん役だから――」
「早く謝りなさい。言っていいことと悪いことがあるでしょう?」
由貴ちゃんはただ、おままごとでお母さん役だからと自分のお母さんの真似をしただけでした。それを説明しようとしたのに先生は由貴ちゃんの話を全く聞いてくれません。おままごとに誘ってくれた子は泣いたままです。
由貴ちゃんは話を聞いてもらえないことに泣きながらも、泣いている子に近寄ります。先生が怖い顔をして「『ごめんなさい』は?」と聞いてきました。
「もう、出て行けなんて言わないから。もう外に行けなんて言わないから」
口ではそう言いながらも、なんで先生が怒るのかが理解出来ませんでした。由貴ちゃんの演じるお母さんはみんなの知ってるお母さんと違ったようでした。涙で滲んだ視界がぐにゃりと歪んで変化していきます――。
目を開くとそこは病院のベッドのようでした。右腕に鈍い痛みがあります。視線を右腕へと動かせば、血に染まった袖はまくられていて傷口には包帯が巻かれています。どうやら由貴ちゃんはベッドで夢を見ていたようでした。
お母さんはいません。代わりに、隣の部屋に住む女性が由貴ちゃんのことを心配そうに見ています。由貴ちゃんの真正面には白衣を着た看護師さんがいました。
「起きたかな?」
「ここは……」
「病院だよ。今、治療したからね。けどその右腕、どうしたの?」
看護師さんに怪我の経緯を聞かれ、由貴ちゃんは言葉に詰まってしまいます。近所の人がすぐ近くにいるのに何をどこまで話していいのか、考えてしまいます。
お母さんは由貴ちゃんのことを思ってくれていたはずなのです。ご飯抜きで、睡眠時間を削って勉強するように言ったのも由貴ちゃんのため。今まではそれで納得していました。けど……。
(本当に、由貴のため?)
お母さんは思うように成績の上がらない由貴ちゃんに苛立ち、手を上げました。それ自体はそんな珍しいことではありません。けれど、由貴ちゃんを殺そうとして刃物で首を狙うのは初めてのことでした。
お母さんはどうしてあれほど強く怒ったのでしょう。どうして由貴ちゃんにハサミを向けたのでしょう。あの時右腕で首をかばっていなければ、今頃右腕ではなく首が深く切られていたはずです。
「……に……た」
「うん?」
「右腕、お母さんに、切られた」
「お母さん?」
「お母さんが、ハサミで、首切ろうとして。首をかばったら、右腕、血、止まらなく、なって」
そこから先はうまく言葉になりませんでした。頭に過ぎる、ハサミを構えたお母さんの血走った目。迷いなく首に向かってきたハサミの切っ先。その恐怖が今になって由貴ちゃんの体を震わせます。
お母さんから離れた今頃になって、その大きな瞳から涙が溢れ出しました。隣の部屋に住む女性がお母さんに代わり由貴ちゃん体を抱きしめます。震える背中を撫でる手の優しさは、これまで由貴ちゃんが知らずにいたものです。
由貴ちゃんの話を聞いた看護師さんがすぐさま他の職員に情報を共有しようと動きます。今、由貴ちゃんの知らないところで状況が大きく動き出そうとしていました。
お腹や背中を主とした、外から目立たない位置に出来た痣や傷。新しいものと古いものが混ざった怪我、衣服などで隠れる位置に作られた傷は典型的な虐待の前兆とも考えられます。けれどお医者さんの目を引いたのは由貴ちゃんの左手首でした。
細く弱い、他の傷跡とは明らかに系統の違う傷。その傷は不自然なバツ印を描いていました。誰かが意図的に付けたようなその傷は目立つ位置――手の甲と同じ外側の手首にあります。普段は長袖を着ることで傷を上手く隠しているようでした。
左の手のひらには、シャーペンの芯が皮膚の下に埋もれています。誰かにシャーペンを突き立てられたのか、自分で突き立てたのか。何度もカサブタが剥がされたせいか、シャーペンを突き立てた痕である小さな丸い傷は手のひらにくっきりと跡を残しています。
「……どうしてバツ印なの?」
お医者さんは由貴ちゃんの体に刻まれた傷跡を確認すると一言、それだけを訊ねました。左手首のバツ印には何か意味があると、この傷は由貴ちゃんが付けたのだと、そう言いたげです。
けど鳥海先生と同じで、由貴ちゃんのことを責めているようには思えません。由貴ちゃんが話すまで待ってくれています。答えを急かす素振りも見せません。
「……から」
由貴ちゃんの口が小さく動きました。ゴクリと唾を飲み込むと、小刻みに動く眼球がお医者さんの姿を映し出します。
「由貴が、悪い子、だから」
「悪い子?」
「悪い子だから、バツ印」
「どうして悪い子だと思うの?」
「……お母さんの、求めてる、点数、取れなかったから。模試は成績が落ちて、テストは満点じゃなくて。だから、由貴は悪い子なの」
由貴ちゃんの言葉を聞いてもお医者さんは態度を変えませんでした。少しだけ由貴ちゃんとの距離を詰めて、優しく笑いかけます。
「悪い子だとどうなるのかな?」
「お母さんがね、しつけをするの」
「しつけ?」
「由貴が悪い子だから、お母さんがしつけをするの。由貴はダメな子だから、バツ印なの。だから……」
お医者さんに話している由貴ちゃんの呼吸が少しずつ荒くなっていきます。けれど様子が少しおかしいです。手足が小刻みに震え、苦しそうに顔を歪めています。
「由貴ちゃん、ちょっと深呼吸してみようか。お母さんのことは一旦忘れて深呼吸をしよう。ゆっくり息を吸ってー、ゆっくり息を吐いてー」
一瞬呼吸の仕方がわからなくなった由貴ちゃんでしたが、ゆっくりと数字を数えながら息を吸って吐きます。お医者さんの指示に従って深呼吸を繰り返すうちに少しずつ呼吸が落ち着いていきました。
由貴ちゃんの呼吸は落ち着きましたが、お医者さんの表情は少し暗いです。お医者さんは看護師さんを呼び寄せると、由貴ちゃんに聞こえないように小声で指示を出すのでした。
お母さんが由貴ちゃんに刃物を向けたこと。外から見ただけではわからないように由貴ちゃんを傷つけていたこと。そして、ハサミを使って由貴ちゃんを殺そうとしたこと。お母さんがしてきたしつけは、しつけという名の虐待でした。
由貴ちゃんは幼い頃からお母さんにしつけをされていたようです。最近では中学受験のためにと勉強を強要され、ご飯や睡眠時間を削るようになっていたようです。勉強のストレスから由貴ちゃんは自傷行為をするようになったようでした。
「というわけで、一時保護所にて由貴ちゃんを預からさせていただきます」
「由貴は! 由貴はなんて――」
「娘さんを殺そうとしたくせに、今になって心配されるんですね」
あの日、病院で右腕を治療してもらった由貴ちゃんはそのまま一時保護所にて保護されることとなりました。実際に殺されかけたこともあり、緊急性があると判断されたのです。
今日は児童相談所の人が由貴ちゃんの家を訪れていました。その後ろには警官らしき人も控えています。先日の由貴ちゃんに対してしたことが理由でしょう。
「そんなに受験は大事ですか?」
「子供がいない人にはわからないわよ。今のご時世、いい学校を出ていい所に就職しないと生きられないでしょ? そのためにはたくさん勉強して中学受験を頑張らなくちゃ。ただでさえ由貴は小学校受験に失敗してるんだから」
「それは、命より大事なものですか? 成績一つで殺したくなるほど、受験は大切ですか?」
児童相談所の職員さんの物言いが刺々しいのは気のせいではありません。職員さんは立場を忘れ、少し感情的になってしまっているのです。そんな職員さんを制するように警官が前に出ました。
「詳しい動機については署で聞かせてもらいます。署まで一緒に来ていただけますか?」
「わかりました」
お母さんは警官に反抗しません。由貴ちゃんにハサミの切っ先を向けたあの日から覚悟はしていたのでしょう。もう言葉を返す元気もありません。
「……右腕は、無事なのかしら?」
「まだ上手く動かせないみたいで、これからのリハビリでどこまで回復するか、といった感じですね」
「そう、なんですね」
警官と一緒にマンションから移動しようとしたお母さんは、その間際に職員さんに声をかけました。由貴ちゃんの怪我の具合を気にはしているようです。けれど詳しく説明するような時間はありません。
お母さんと警官が職員さんの前から遠ざかっていきます。マンションの下にはすでに覆面パトカーが待機していました。お母さんがパトカーの後部座席へと乗せられます。パトカーはお母さんを乗せたままゆっくりと動き出しました。
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