由貴ちゃん3

 由貴ちゃんが目を開けるとそこには白い天井がありました。頭は柔らかな枕の上にありました。温かなベッドで眠っていたようです。水色のカーテンがベッドを囲み、由貴ちゃんの姿を外から見えなくしていました。


 急いで体を起こそうとすると頭がクラクラとしました。視界がグルグルと動いている気がします。何かに掴まろうと周囲に手を伸ばしますが、掴めそうなものは何もありません。水色のカーテンから手だけが飛び出します。


 由貴ちゃんの異変に気付いたのでしょう。足音が由貴ちゃんのベッドに近付いてきます。やがてカーテンを開けて姿を現したのは、保健室の主である鳥海先生でした。


「由貴ちゃん、目が覚めたかな?」

「景色が、ぐるぐる、する。頭、痛い」

「無理して体起こさなくていいよ。もうちょっとベッドで横になろうね」

「でも……」

「大丈夫。何も心配しなくていいから、体を休めよう?」


 由貴ちゃんは鳥海先生の何もかも見透かすような眼差しが苦手でした。けれど不思議なことに、鳥海先生の声を聞くと安心します。素直に言うことを聞こうと思えます。


「由貴ちゃんね、答案返却中に倒れたんだよ」


 由貴ちゃんが覚えているのはテストが満点じゃなかったことと、お母さんのことを思い出したこと。そして気がついたら目の前に真っ暗になっていたこと。この三つだけでした。


 具合が悪くてもお母さんには関係ありません。満点じゃないテストは間違いなくお母さんを怒らせるでしょう。ご飯と睡眠時間も返上して勉強している今、お母さんはどんな罰を与えるのでしょうか。


「なにかあった?」

「……テスト、満点じゃなかった。一問間違えちゃった」

「でも学年最高得点なんでしょ? さっき先生が教えてくれたよ」

「満点、じゃないと、ダメなの。学校の試験、満点、取れなきゃ……」

「どうしてそう思うのかな?」


 鳥海先生は由貴ちゃんが話すまで待ってくれています。変に追求したりせず、ただ話を聞くだけ。そんな無理強いしない鳥海先生の態度に少し心が軽くなります。


「嫌なら無理に話さなくて大丈夫だよ」

「お母さんが、悪魔に乗っ取られちゃう、から」

「悪魔?」

「急に変わるの。成績が悪いと、急に由貴を蹴ったりしてくるの」


 四年生にしては子供っぽい口調でした。先日保健室に訪れた時はしっかりした敬語だったのに、今は一人称が「由貴」になり、どこか幼さを感じる話し方です。悪魔という例えも現実味がありません。けれど由貴ちゃんは真っ直ぐに鳥海先生を見つめています。


「いい中学なんて行かなくていい。習い事もやりたくない。由貴はみんなといたい。けど……」

「けど?」

「お母さんに逆らうと、痛いから。だから、逆らわないの」

「痛いの?」

「うん。あのね」


 保健室には由貴ちゃんの他に生徒はいません。それを知ると、由貴ちゃんはそっと服をまくり、お腹と背中を鳥海先生に見せました。スカートを少しまくれば、太腿付近の傷も明らかになります。


 お腹や背中に残った痛々しい内出血の跡。太腿には人の歯型がくっきりと、青痣として残っていました。内股につけられた深めの引っ掻き傷は治りかけで、見ているだけで痛そうです。


 傷は新しいものと古いものが混ざっています。鳥海先生にとって、この類の傷を見るのは珍しくありません。もっと酷い傷跡を残した子供も見てきました。けれど、大事なのは傷が酷いかどうかではなく子供が身体的に精神的にどれだけ傷ついているかです。


「これ全部……」

「しつけ、なんだって。由貴が悪い子だから、しつけをするんだって」

「そう、なんだ」

「お母さんが怒ったら、許してくれるまで謝らなきゃなの」


 しつけだからといって痣が残るほど強く攻撃してはいけません。由貴ちゃんはお母さんのしつけに脅え、自分の言いたいことが言えなくなっています。鳥海先生の頭の中で、由貴ちゃんが要注意リストとして記録されました。





 結局、由貴ちゃんは体を起こせるようになると保健室を去っていきました。しつけを打ち明けた時の子供っぽさはどこに行ったのかと思うほど礼儀正しい態度で、教室に戻っていきました。


 具合が悪くても、傷が痛くても、学習塾を休むわけにはいきまさん。ズル休みなんてすればお母さんに何をされるのか……想像しただけで寒気がします。


 お母さんが怖い。たったそれだけの理由でどうにか一日を乗り切った由貴ちゃんは今、リビングで棒立ちしています。目の前ではお母さんが今日返却された単元テストを熱心に眺めています。


「こんなに簡単なのに満点取れなかったの?」

「ごめんなさい」

「この程度も満点取れないのに受験を乗り越えられると思ってるの?」

「ごめんなさい」

「由貴……いい加減にしてくれる?」


 お母さんの声は酷く冷たい響きを持っていました。由貴ちゃんの体がビクリと動きます。緊張からか肩を上げたまま、足が肩幅に開きます。けれどどんなに息を吸っても上手く呼吸が出来ません。


「ねぇ、私の話、聞いてんの?」

「ごめんなさい」

「このクソガキ! お前なんて死んじまえー!」


 お母さんが勢いよく席から立ち上がり、由貴ちゃんに近付いてきます。その手にはハサミが握られていました。由貴ちゃんの口から小さな悲鳴が飛び出します。


 お母さんの目は血走っていました。ハサミの切っ先は由貴ちゃんの首へと真っ直ぐに伸びてきます。咄嗟に右腕で首を庇えば、服と一緒に右前腕が深く抉られました。赤い血がリビングを舞います。


 傷口はすぐに熱を持ちました。血はすぐには止まらず、衣服を赤く染めていきます。いつもなら由貴ちゃんが出血した時点で我に返るのに、今日のお母さんは元に戻りません。再びハサミが由貴ちゃんを狙います。


「この! このクソガキ!」

「ごめ、なさ――」

「こっちの苦労も知らないで! 誰のためにお金払ってると思ってんだ! 誰のためにやってると思ってんだ! こっちがせっかく可愛がってやってんのに!」

「おかあ――」

「なんで出来ないの? いい中学に入れなかったら何もかも台無しなの! 意味ないの!」

「ごめ――」

「お母さんの子供ならもっと賢いはずでしょ? 満点も取れないお前なんてお母さんの子供じゃないよ。死んじまえ。私の子供じゃないなら殺してやる。殺してやる!」


 血走った目が由貴ちゃんをギロりと睨みつけます。再びハサミが由貴ちゃんの首を狙いました。すんでのところでハサミをかわしましたが、お母さんの怒りは落ち着きそうにありません。


 右腕からはまだ血が流れています。傷が熱くて痛くて、出来ることなら今すぐ泣き叫びたいくらいです。赤い血は一滴、また一滴と床に落ちていきます。由貴ちゃんに出来たのは、お母さんから逃げることだけ。


 リビングから廊下へ飛び出した由貴ちゃんをお母さんがハサミを持って追いかけます。廊下には血の跡が点々と続いています。お母さんに追われた由貴ちゃんは……そのまま家を飛び出して外へと向かいました。





 右腕はまだ痛みます。けれど傷がどの程度のものなのか、由貴ちゃんには検討もつきません。お母さんから逃げるように家を飛び出したはいいものの、行くあてもありません。困った由貴ちゃんはマンションのエントランスに立ち尽くしていました。


 お母さんが刃物を持ち出すのは今日が初めてではありません。ガラスのコップを投げようとしたこともあるし、蹴ったり噛み付いたりしたこともあります。


 それでも、いつもは血が出たらすぐに手を止めてくれました。大怪我と言えるほどの怪我をしたことはありません。せいぜい少し腫れたり見えないところに痣が残ったりする程度です。


(上手く動かないや。どうしてかな)


 指先も手首も、右手は望んだように動いてくれません。まだ出血は止まらず、涙が止まってしまうほど痛いです。それに、由貴ちゃんの心も重傷でした。


 さっき衝動的にお母さんが叫んでいた言葉は、普段隠している本音でしょう。けれどそんなお母さんの言葉を聞いて違和感を覚えました。自分がペットになったような気持ちになりました。


(ねぇ、お母さん。由貴はお母さんの物じゃないよ? もしかして、由貴が思う通りに育たないから怒ってる?)


 お母さんは受験を由貴ちゃんの為だと説明していました。けれど今日の言動を見る限り、とても由貴ちゃんのためにしているとは思えません。


 成績が悪いとお母さんの子供ではなくなるようです。いい中学に入らないと意味がないそうです。けれど由貴ちゃんの友達は誰一人としてそんなこと言いません、考えません、知りません。


 ハサミを持ったお母さんは手加減しませんでした。本当に由貴ちゃんを殺すつもりで襲ってきました。今家に帰ったらまた襲われるかもしれません。せめてお母さんが元に戻るまで時間をつぶさなくてはいけません。


「あら、由貴ちゃんじゃない。こんばんは。こんな時間にどうしたの? 鍵、家に忘れちゃった?」


 エントランスにはマンションに住む人達やそのお客さんが通りかかります。エントランスでぼんやりと突っ立ってる由貴ちゃんに声をかけたのは隣の家に住む女性でした。


 マンションのエントランスはオートロックです。一度外に出たら、インターホンを使って住人に開けてもらうか自分で鍵で開けるかしないと入れません。女性は由貴ちゃんが鍵を忘れたのだと勘違いしたようです。


 由貴ちゃんは挨拶をしようとしましたが、喉の奥がツンとして上手く声が出ません。右腕からはまだ血が出ていて、血で濡れた袖が腕に貼りついています。由貴ちゃんの足元には血の跡が残っていました。


 血の跡が見えたからでしょうか。女性の目が皿のように大きくなります。次の瞬間、女性はスマホを使ってどこかに電話をかけ始めました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る