エピソード2 眠れぬ少女
葉子ちゃん1
よく授業中に居眠りをする生徒がいました。目の下にはひどいクマを作っていて、授業中はうつらうつらしています。だけど担任がどんなに問いかけても寝不足の理由を教えてくれません。それどころか担任に怯えてしまいます。
男性が苦手なようでした。生徒だけでなく担任の先生にすら心を開けません。体育の授業で着替える時は皆とは違う場所で一人で着替えます。葉子ちゃんはそんな、男性が苦手でちょっと居眠りの多い子供でした。
「葉子ちゃん。家で寝てる?」
「あまり寝てないです」
「寝られないのかな? それとも寝たくないのかな?」
「……多分、両方、ですね」
その日、葉子ちゃんは具合が悪いからと保健室に来ていました。だけど保健室カードに必要事項を書いている間にもコクリコクリ、船を漕いでしまいます。そのせいか保健室カードに書かれた文字はとても読みにくいです。
そんな葉子ちゃんに声をかけたのは養護教諭の鳥海先生でした。あまりに眠そうなので声をかければ曖昧な返事が一つ。目の下のクマは日に日にひどくなっています。葉子ちゃんの様子からいくつかわかることがありました。
どうやら家ではほとんど寝ていないらしいこと。寝不足の理由は寝られないためであり寝たくないからでもある。鳥海先生の頭の中でいくつかの可能性が浮かんでは消えていきます。
「家は好き?」
「好きだけど嫌いです」
「両親はどう?」
「お母さんは好き、お父さんは……わかりません」
葉子ちゃんの家は三人家族。専業主婦のお母さんと会社員のお父さん、そして葉子ちゃんの三人です。寝られない原因にはお父さんが関係しているらしい。そう鳥海先生は判断しました。
「ちょっとベッドで寝てみようか。寝たら体調が少し良くなるかもしれないから」
「はい。……あの、鳥海先生」
「うん?」
「私のそばにいてください。私を置いて外に行かないでください」
「わかってるよ。葉子ちゃんは寂しがり屋だもんね」
葉子ちゃんは時々寝不足による体調不良で保健室にやってきて、一時間ほど眠ったら教室に戻っていきます。その時は決まって今みたいに一人にしないでくれと頼むのです。一人でいることが苦手なのか、寝ることが怖いのか。その答えは葉子ちゃんだけが知っています。
葉子ちゃんは目が覚めるとすぐに教室へと戻っていきました。保健室に来たばかりの時よりスッキリした顔をしています。今回の体調不良も寝不足が原因のようです。葉子ちゃんの寝不足はかなり重症なようで、鳥海先生は密かに頭を抱えるのでした。
鳥海先生の悩み事なんて知らない葉子ちゃんは、教室に戻ると明るい態度で友達と接します。あちこちに笑顔を振りまき、高らかな声でハキハキと話す。その姿に保健室で見せていたような怯えはありません。
「葉子ちゃん、具合大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫! 念のためにってちょっと寝てきただけなんだ」
「それならよかった。これ、葉子ちゃんがいなかった時のノートだよ。早く写しちゃって」
「ありがとう! 放課後までに返すね」
葉子ちゃんは女の子の近くにしかいきません。少しでも男の子が近付けば、あからさまに距離を取ってしまいます。だけどそれと酷い寝不足であることを除けば、普通の女の子です。
夜寝られないような家がどれくらいあるでしょう。少しの間なのに一人で寝ることを嫌がる子はどれくらいいるでしょう。保健室で見せた本当の葉子ちゃんと、教室で見せたわざとらしいくらい明るい葉子ちゃん。真逆の性格を演じる葉子ちゃんの心は今にも砕けてしまいそうでした。
葉子ちゃん言動は放課後が近付くにつれてさらに明るくなっていきます。貼り付けたような作り笑いは少しぎこちなくて。目の下に出来た濃いクマが、笑顔を痛々しいものにしています。
だけど帰りのホームルームが終わるとすぐに笑顔が消えます。かと思えば友達に声をかけられるより先に教室を飛び出して一人で家に帰るのです。これには理由がありました。
葉子ちゃんの通う
叫んでいる間は、走っている間は、嫌なことも思い出したくないことも全部忘れられます。足を早く動かせば動かすほど、吹き付ける風が気持ちよくなります。大きく息を吸い込めば新鮮な緑の香りがします。
葉子ちゃんが心から自由になれるのは、保健室とこの伊勢木公園で走っている時間だけでした。でもそれも長くは続きません。公園の正門前にある時計台。その時計が十六時を示すとお楽しみは終了です。
実は葉子ちゃんの家にはいくつか決まり事がありました。その中の一つが葉子ちゃんに設けられた門限です。門限を破ろうものならお父さんからキツイお仕置きをされてしまいます。葉子ちゃんの寝不足の原因は、そんなちょっと怖いお父さんにありました。
帰宅した葉子ちゃんは急いで宿題を終わらせます。お父さんはまだ帰ってきてません。お父さんが帰る前に宿題を終わらせないと、宿題をやる時間が無くなってしまいます。それを知ってか、お母さんも葉子ちゃんの邪魔をしません。
机に向かって宿題をするけれどその合間にもコクリコクリ、船を漕いでしまいます。眠い目をこすって、あくびをこらえて、時折頬をパチンと叩いて。葉子ちゃんは必死に宿題を進めます。
だけど時間は残酷です。あっという間に空が暗くなり夜八時になりました。がチャリと鍵を回す音と共に野太い声が「ただいま」と告げます。お父さんが帰ってきたのです。
「葉子、お父さんが帰ってきたわよ」
「今行きます」
お父さんが帰ってきたと知るや否や葉子ちゃんの顔が一気に強ばりました。幸か不幸か宿題は終わっています。明日の授業で困らない代わりに、夕飯に遅れて参加する口実も無くなってしまいました。
迷った末に葉子ちゃんは部屋からリビングに移動することにしました。宿題をやらなくても夕飯に遅れてもお父さんに怒られてしまいます。キツイお仕置きをされてしまいます。それだけは避けなければいけません。
夕飯はご飯とみそ汁におかずが二皿という平凡なもの。お母さんの手作りであるおかずは美味しいはずなのに、葉子ちゃんにはその味がわかりません。いつからか何を食べても味を感じなくなりました。
家族三人で仲良く食事。三人で囲むテーブルのすぐ近くでは、テレビが本日のニュースを映し出しています。どんな時でも観るのはニュースだけ、食事の間私語をかわすこともほとんどありません。静かなリビングでは、ニュースを読み上げる声がよく聞こえます。
「……容疑者が児童ポルノ法違反の疑いで逮捕されました。警察は現在、入手経路の調査を行っています」
ニュースに出てくる難しい言葉は葉子ちゃんにはよくわかりません。だけど、言葉の意味がわからずとも察することがありました。
児童ポルノ法違反のニュースになるとお父さんの表情が険しくなります。そして険しい顔で捜査がどこまで進んでいるのかを聞くのです。お母さんはそんなお父さんの変化に気付かないフリをしています。葉子ちゃんはお父さんとお母さんの様子をうかがいながらせっせと夕飯を口に運びます。
児童ポルノ法違反がどんな悪いことなのかはわかりません。だけど、お父さんが何らかの形でその悪いことに関係しているんだなと感じます。それと同時にお父さんの機嫌が悪くなったことを知り、覚悟を決めます。
「葉子。寝支度を整えたらパパの部屋に来なさい」
「はい」
お父さんは不機嫌になると必ず私室に葉子ちゃんを呼び寄せます。呼ばれるのは寝支度を終えた後の夜十時過ぎ。どんなに眠くても寝たくても、お父さんには関係ありません。言いつけを断れば、お父さんは夜中に葉子ちゃんを襲いに来ます。
拒否権はありません。葉子ちゃんはいつでもお父さんに言われるがまま、されるがまま。そしてこのお父さんの用事こそが葉子ちゃんの寝不足の原因でもあります。
お父さんが不機嫌な時は夜遅くまで起きてお父さんといなければいけないから。部屋で寝ていてもいつお父さんに襲われるかわからないから。そうやって怯えながら毎日を過ごすうちに、葉子ちゃんは家の中では寝られなくなってしまったのでした。
「夜の十時までに来るんだよ?」
お父さんの言葉は刑罰を告げる裁判官のようです。なんてことない言葉一つですが、葉子ちゃんの動きを止めるには十分でした。
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