遊喜くん4

 遊喜くんが目を開けるとそこには白い天井がありました。どうやら保健室のように柔らかく暖かいベッドにいるようです。小枝のように細くなった腕には針のようなものが刺さっていて、その先には液体の入った袋がぶら下がっています。


 何が起きたのかわからなくて目をぱちくりさせました。ブカブカの半袖半ズボンにオムツという格好をしていた遊喜くん。それが今では、緑色の七分丈の服になっています。自分では止められないはずのボタンもしっかり止まっていました。


 どんなに鼻をスンスンさせても異臭はしません。ファストフードの臭いもオムツの臭いも吐瀉物の臭いもありません。代わりに、保健室で嗅いだような消毒液の匂いがします。消毒用アルコールの特徴的な匂いに、遊喜くんは不思議に思わずにはいられません。


 動けない遊喜くんは目だけで周りの様子を確認しました。天井は白色、ベッドも白色。ベッドの周りは水色のカーテンのようなものにぐるりと囲まれていて、外の様子が見えません。


 声を出そうとしたけれど上手くいきません。魚のように口をパクパクさせるだけで肝心の声が出てこないのです。寝返りを打とうとしても体が思うように動いてくれません。お母さんを待っていた時より体が軽いはずなのに上手く動かせないのです。良くて指先がちょっと動くだけ。


(どうして? 誰か、誰か!)


 人を呼びたいのに声が出ません。物音を立てようにも手足が思うように動きません。加えて、治療していない虫歯がまた痛み始めます。


 学校の保健室にしてはやけに静かでした。生徒の声も定期的に鳴るチャイムの音も校内放送の音も聞こえません。廊下を走る足音もしなければ他の生徒が来る様子もありません。


 保健室で体操着に着替えたことはありますが、今着ているような前開きの服は見たことがありません。保健室にいた時は腕に針を刺すことはありませんでした。針と管で繋がっている、液体の入った袋を見たのも初めてです。


 養護教諭の鳥海先生も見当たりません。学校の保健室で寝ていた時は鳥海先生が定期的に様子を見に来たし、一時間も休めば教室に戻るか早退するかの二択を選ばせてくれました。だけど今いる部屋には鳥海先生がやってくる気配がないのです。


 そもそも遊喜くんはここしばらくの間学校に行っていません。チェーンロックのかかった部屋から出られずにいました。そんな遊喜くんが保健室に来れるはずがありません。だけど今いる部屋は遊喜くんがいた部屋に比べると綺麗過ぎます。何もしなくても部屋が綺麗になるとは、とても思えません。


 遊喜くんが混乱していると、突然ベッドを囲むカーテンに隙間が出来ました。そこから白衣を着た見知らぬ人が入ってきます。看護師さんです。看護師さんは遊喜くんに気付くと大きく目を見開きました。


「遊喜くん?」


 看護師さんの声に遊喜くんが身をすくめます。久々に見る人の姿にびっくりしたのと、初めて見聞きする看護師さんにどう反応していいかわからないからです。遊喜くんはそのまま顔を強ばらせてしまいました。





 あの日、大家さんが訪問したことをきっかけに遊喜くんは救出されました。気を失ったままの遊喜くんはすぐさま病院に搬送され、入院することとなったのでした。治療が終わって容態が落ち着いたら、一時保護所と呼ばれる所に向かいます。


 一時保護所は文字通り子供を一時的に保護する施設です。基本的には二ヶ月以上そこで暮らすことは出来ません。児童相談所と密接な連携の取れる範囲内にあり、子供達は施設内の規則に従って生活します。


 何が起きたのかを説明したのは看護師ではなく児童相談所の職員さんでした。遊喜くんでもわかるように話しましたが、どうやらまだ納得してはいないようです。遊喜くんは光の映さない瞳で職員さんに問いかけます。


 口をパクパクとさせるもなかなか声が出てきません。それでも必死に口を動かします。職員さんも看護師さんも、遊喜くんの言葉を待っています。少しすると、弱々しい掠れた声が口から出てきました。


「お、かあ、さん、は、ど、こ?」


 アパートの一室に置き去りにされたのに。食べ物が無くて死ぬかもしれなかったのに。お母さんはもう帰ってこないかもしれないのに。それでもまだ、遊喜くんはお母さんのことを信じて待っているのです。


 遊喜くんに必要なのは看護師さんでも職員さんでもなく小学校の保健室の先生でもなく、お母さんなのでした。お母さんに会いたい。その気持ちだけが遊喜くんを動かしていたのかもしれません。


 遊喜くんの言葉に看護師さんと職員さんは顔を見合わせます。二人は遊喜くんのお母さんがどこにいるのか知っています。だけどそれを口にすることは出来ません。遊喜くんの期待を壊すことになるからです。


 遊喜くんのお母さんは今、警察の留置所にいました。保護責任者遺棄罪というものに問われ、取調べを受けているのです。お母さんも罪を認めているため、まもなく起訴されて正式な刑罰が決まるでしょう。


 お母さんを信じて待ち続けた遊喜くんに、お母さんのしたことが犯罪だなんて伝えられませんでした。お母さんにはしばらく会えないだなんて伝えられませんでした。今はまだ、遊喜くんに真実を伝えるには精神的ダメージが大きすぎます。


「お母さんはね、まだ見つかってないんだ。だから……お母さんが見つかるまで、ちょっと今までと違うところで暮らそっか」


 職員さんがきごちない笑顔で呼びかけます。遊喜くんは表情の無い虚ろな目でその様子を見ていました。うんともすんとも言わず、顔を動かすことも無く、ただ職員さんのことを見ていました。遊喜くんの目が「嘘つき」と言っているように見えるのは、職員さんの罪悪感のせいかもしれません。





 お母さんは恋人と一緒にタワーマンションで暮らしていました。体を対価に様々な恩恵を受けて暮らしていました。それが終わりを告げたのは、お母さんの携帯に入った一通の電話です。


『月島第四小学校の鳥海です。先程、遊喜くんが病院に搬送されたと連絡がありました。お母さんに連絡が取れないとのことでしたので、私からも連絡させていただきました。こちらの録音を聞きましたら折り返し連絡お願いします』


 遊喜くんのことを忘れたわけではありません。だけど仕事と嘘をついて、外からチェーンロックをかけて遊喜くんを置き去りにしたことも事実です。本当はもう少し早く帰るつもりでした。それが出来なかったのは……お母さんの弱さが原因です。


 これまでも電話はかかってきてはいました。でも知らない電話番号だからと留守電を再生することすら止め、着歴を消していたのです。そんなお母さんでも、さすがに小学校からの連絡は無視出来ませんでした。


 そこから何をどうしたのか、明確には覚えていません。遊喜くんの入院している病院へと無我夢中で向かい、ベッドに横たわる細い体に涙して。遊喜くんの姿を見てようやく、お母さんは自分が何をしようとしていたかに気づいたのです。


 遊喜くんが一人でどんなふうに暮らしていたのかを知りました。痩せ細って歩けなくなったことも、酷い衛生状態の中で生きていたことも、全てお母さんが置き去りにしたせいです。


「私の服なんかより、成長した遊喜に合う服を買わなきゃいけなかった。お金のために遊喜を犠牲にしたんじゃ、意味なんてないのに……」


 いくら悔やんでも過ぎた時間は戻りません。遊喜くんにしたことは許されることではありませんし、お母さんもまた自分を許すつもりはありません。


 去年の冬、お母さんは仕事をクビになりました。新しい就職先を探すもなかなか見つからず、売春行為でお金を稼ぐしか出来ませんでした。仕事は見つからず、お金もなくなっていき、募ったイライラを遊喜くんにぶつけていたと自覚しています。


 仕事をクビになる前も後も、お母さんには遊喜くんの虫歯を見つける余裕はありませんでした。その日のお金を稼ぐのが精一杯で、稼いだお金は就職活動に消えていきます。成長した遊喜くんの衣類を買い替えるお金はなく、唯一買えたのは丈夫な半袖半ズボンだけ。


 遊喜くんを置き去りにしたのは恋人に養ってもらい、就職先が決まるまで面倒を見てもらうため。遊喜くんも一緒に連れてくればよかったのにそれをしなかったのは、遊喜くんのことを話して相手から拒絶されることを恐れたから。


 あの日あの時選択を変えていれば、と悔やまずにはいられません。お母さんに出来るのは罪を認めて償うことだけ。そして遊喜くんのために、もう二度と遊喜くんの前に姿を現さないことだけ。


「ごめんね、遊喜。ダメなお母さんで、ごめん」


 今日も留置所ではお母さんのすすり泣く声が響いています。





 救出されてから少し経った頃のこと。遊喜くんは退院することになりました。相変わらずお母さんと会えないままです。退院した後は家に帰ることなく、職員さんに連れられて一時保護所へと向かいます。


 遊喜くんの所有物は唯一着ていた、汚れた半袖半ズボンの衣服だけ。それ以外の私物は何一つありません。ランドセルも目覚まし時計も家に置きっぱなしだから、没収されるような私物がないのです。


「遊喜くん、忘れ物はない?」

「……ある」


 職員さんが忘れ物の有無について念のために尋ねると、遊喜くんは「ある」と答えました。だけど遊喜くんにまともな私物はありません。一時保護所に持っていけない類の私物ですら、遊喜くんは持っていないのです。手ぶらなはずの遊喜くんは何を忘れたのでしょうか。


「何を忘れたの?」


 職員さんが目の高さを合わせるためにしゃがんでから声をかけます。だけど遊喜くんは答えません。代わりに半ズボンのポケットに手を突っ込んでガサゴソと漁ります。ようやくポケットから出てきたのは、一枚の紙切れでした。


 ひらがなだらけの文。書かれたひらがなはお世辞にも綺麗とは言えなくて、所々間違えたり左右反転していたりします。クシャクシャになった紙切れを取り出して、遊喜くんが笑いました。


「『おかあさんへ。おれ、いえじゃないとこにいかなきゃいけない。でも、どこにいってもいいこにしてる。いいこでまってる。だから、おしごとおえたらむかえにきてね。ゆうきより』これ!」


 遊喜くんが読み上げたのはお母さんへのメッセージ。クシャクシャなった紙切れはお母さんに宛てた手紙だったようです。歯のない顔でクシャリと笑うと、遊喜くんは職員さんにそれを渡します。


「お母さんに渡して。家にいられないなら、お母さんにそのこと伝えなきゃ」

「どうして私に?」

「だって……お母さんの場所、知ってるんでしょ? 知ってるけど教えてくれないんでしょ? だから俺の代わりにお母さんに渡してよ」


 職員さんがお母さんの居場所を知っているのに教えてくれないこと。お母さんはしばらく会えないようなところにいるらしいこと。そして遊喜くんはしばらく家に帰れないこと。遊喜くんは全部知っていました。


「それをお母さんに渡してくれないなら、俺、家に帰る」

「ダメだよ」

「じゃあ出してよ。俺、それをポストに入れるのを確認するまで、行かないから」


 手紙は宛名がないと届けられないことを遊喜くんは知りません。だけど、その手紙をお母さんに届けるまで一時保護所に行かないというのは本当のようです。裸足のまま職員さんを睨みつけると、いつでも走れるようにスタンディングスタートの構えをとりました。


 まだまだ痩せているけれどすっかり元気です。歩いたり走ったりもお手の物。お母さんへの手紙を出さなければ職員さんから逃げるべく全力疾走するのでしょう。


「……渡してくれる?」

「逃げなければ、ね」

「ホントに? ホントのホントのホント?」

「またお母さんと暮らせるように、頑張ろっか」

「約束! 指切りげんまん!」


 職員さんと遊喜くんの小指が絡まります。それを確認すると、遊喜くんが声高らかに歌い始めました。


「ゆーびきーりげーんまーん。うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます。ゆーびきった!」


 遊喜くんの小指が天井に向かって伸びます。はしゃぐ遊喜くんを周りの人達が苦笑いで見守っていました。

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