遊喜くん3

 テレビも固定電話もカレンダーもない部屋。狭い室内にはゴミが溢れかえり異臭を放っています。玄関ポストには山のように郵便物が溜まっています。そんな異様な雰囲気に包まれた室内で、遊喜くんは必死に生きていました。


 和室に散らばるビニール袋の山。それらは全て同じファストフード店のものです。中には空になったポテトのケース、ハンバーガーの包み紙が透けて見えます。中途半端に口が閉じられているから臭いが漏れているようです。


 ベランダからも異臭がします。こちらの異臭の正体はオムツ。お母さんが仕事中に付けていたものです。捨て方がわからず、ビニール袋の中に入れたまま口を閉じられずに放置されています。


 遊喜くんはゴミの山をすり抜けて、押し入れとキッチン行き来します。どれくらいの時間が経ったのかはわかりません。わかるのはお母さんがたまにファストフードのテイクアウトを持ってきてくれることと、お母さんがまだ戻ってこないことだけ。


「おなか……すいた、なぁ」


 元々細かった手足はさらに細くなりました。立ち上がると疲れてしまうので、お母さんが来た時以外はハイハイで過ごします。冷蔵庫の中はガラガラでもう何も残っていません。食品棚の中も同じです。


 たまに貰えるハンバーガーとポテトでどうにか持ちこたえています。食べるものがない時は水道水をひたすら飲みます。それでも耐えられない時は、ハンバーガーの包み紙やフライドポテトの容れ物を食べました。あまり美味しくないけど空腹を紛らわすことが出来るからです。


 もうしばらく学校にも行っていません。友達にも先生にも会っていません。遊びたいし話したいけれど、遊喜くんにはもうそうするだけの気力はありませんでした。歯の痛みも息苦しさも体のだるさも何もかもがどうでもよくなってきます。


 それでもまだ遊喜くんはお母さんを待っていました。外に出ることなく、言いつけ通りに家でいい子にしていました。そうすればいつか仕事を終えたお母さんが帰ってくると思ったからです。本当は真実を知るのが怖かったのかもしれません。


 帰ってこないなんて思いたくなくて。手紙が嘘だったなんて思いたくなくて。一人置き去りにされても、ご飯が食べられなくても、歯医者に行かせてもらえなくても。それでもお母さんが大好きで、お母さんのことを信じているのです。


 お母さんのいない日々が。食べるもののない日々が。家から出られない日々が。一人で過ごす日々が。ずっと続くものだと思っていました。そして遊喜くんは今日もお母さんとお母さんが持ってくるご飯を待つのです。





 どこからかカツカツとハイヒールの音がしました。その音に遊喜くんの耳が反応します。今にも折れそうな手足を必死に動かし、ハイハイでゆっくりと玄関の方まで向かいました。


 足音が遊喜くんの部屋の前で止まります。ガチャりと鍵を開ける音は足音の正体がお母さんであることを示していました。扉が少しだけ開きます。お母さんのかけたチェーンロックのせいで、扉は三十度くらいしか動きません。


「遊喜、おいで」


 お母さんの声が聞こえます。扉の隙間からはハンバーガーの美味しそうな匂いがしました。ケチャップの匂い、お肉の匂い、パンの匂い。そういった匂いが遊喜くんを誘います。


 ハイハイするのがやっとの遊喜くん。お母さんの声に反応し、ゆっくりと立ち上がりました。細い足が頼りない足取りで前に進んでいきます。遊喜くんが来るまでの間、お母さんは大人しく待っていました。


「おか、あ、さん」

「遊喜。お母さん、まだしばらく帰れないの。もしかしたら今日を最後に来れなくなるかもしれない」

「俺、待つ」

「……遊喜、ごめんね。これ、最後のご飯」


 お母さんは遊喜くんのことを見てくれませんでした。扉の隙間からファストフードの入った袋を差し出すだけ。遊喜くんはお母さんの言葉の意味を知りつつもその袋に手を伸ばします。


「おい、早くしろ。ホテルに行くんだろ?」

「はい、ただいま。……遊喜、お母さん、行かなきゃいけないの。ごめんね、もう行くね」


 ビニール袋が手渡されることはありませんでした。野太い男性の声が聞こえると同時に、お母さんの手から袋が滑り落ちます。ドサリと音を立てて落ちたビニール袋。その中身が砂利の落ちている床にばらまかれました。


 紙に包まれたハンバーガーが数個と紙製の容れ物に入ったナゲットが散ります。何本ものポテトが床に落ちて砂やホコリまみれになりました。遊喜くんが手を伸ばすより早く、玄関扉が閉ざされます。


 ガチャりと鍵の回る虚しい音がしました。目の前に広がるファストフードをどんなに見つめてもお母さんは戻ってきません。扉越しに聞こえるハイヒールの音はどんどん遠ざかっていきます。


 お母さんを引き止めたい気持ちと、目の前でいい匂いを漂わせているファストフードを食べたい気持ち。2つの気持ちが遊喜くんの中でぶつかります。迷った末に遊喜くんが選んだのは、お母さんではなくファストフードでした。


 砂の付いたポテトを拾って口の中に放り込みます。どんなに汚れていてもハンバーガーの味が付いた包み紙よりは美味しく食べ応えがあります。だけど、お母さんが届けてくれた数日ぶりのファストフードはいつもよりしょっぱい味がしました。





 お母さんが最後のご飯を届けてからどれくらいが経ったでしょうか。カレンダーもテレビも携帯もない部屋では、今日が何日かもどれくらいの日にちが過ぎたのかもわかりません。わかるのは、目覚まし時計が示す時間だけです。


 遊喜くんが数えられる数字は五まで。遊喜くんの知る限りで五が三つ分――十五回の夜が過ぎています。最後にお母さんから貰ったファストフードは、包み紙まで綺麗に食べてしまいました。もう遊喜くんに食べられるものはビニール袋とオムツしか残っていません。


 目を閉じれば美味しそうな食べ物が浮かびます。茶碗一杯に盛られたご飯、湯気の立つお味噌汁、お皿には唐揚げが数個と山盛りのキャベツ、デザートには市販のプッチンプリン。遊喜くんの思い描くご馳走は学校の給食でした。


 学校に行かなくなってどれくらい経ったでしょう。給食を食べなくなって、家から出られなくなって、どれくらい経ったでしょう。お母さんが次に来るのはいつでしょう。遊喜くんは友達と給食が無性に恋しくなりました。


「おなか……すいた……なぁ」


 もうどんなに頑張っても歩くことはおろか、立ち上がることは出来ませんでした。立とうとしても細すぎる足では体重を支えきれません。床から起き上がることもできません。寝返りを打つことすら一苦労です。


 枝のように細くなった手足。げっそりとコケた頬。着ていた服は痩せすぎてぶかぶかになり、服の隙間からは浮き出た肋骨が見えます。目は虚ろになり光を失っていました。もう自分で動くことも出来ません。


 お風呂にしばらく入っていません。全身が痒いのに、痒いところに腕を伸ばすことも出来ません。何日も同じオムツをつけたまま排泄物の片付けもしないままのため、異臭がします。だけど遊喜くんはもう異常に気付いても自分ではどうすることも出来ないのでした。


 お母さんは帰ってくると今でも信じています。またご飯を持ってきてくれるのだと信じています。仕事が終わればお母さんと一緒にご飯を食べれるのだと信じています。お母さんが残したひらがなだらけの手紙は、動けなくなった今でも大切に握っていました。


(俺、いい子で……待ってるよ。お仕事終わるの、待ってるよ。だから……帰ってきたら、また、遊んでよ、お母さん)


 次第に遊喜くんのまぶたが重くなっていきます。頑張って起きようとするけれどまぶたは開きません。考えようとしても頭がぼーっとします。もうお母さんの顔や声を思い出すことが出来ません。


 どんな声をしていたでしょう。どんな顔をして、どんな表情を向けていてくれたでしょう。それを思い出すにはお母さんとの接点があまりにも少なすぎました。遊喜くんの記憶の中にあるお母さんは、布団の上で男の人と一緒に奇声をあげる姿だけなのです。


 体から力が抜けていきます。床に寝ていてこれ以上下へ落ちることは無いはずなのに、下へ下へと体が引っ張られるような感覚に襲われました。周りの音が聞こえなくなって、何も考えられなくなっていきます。そのまま、遊喜くんは深い眠りに落ちてしまいました。





 玄関ポストに溜まった郵便物。呼び鈴を鳴らしても返事はありません。ノックして呼びかけても返事はありません。まるで部屋に誰も住んでいないかのようです。


 ここ数日、アパートの住人複数名から苦情が寄せられました。なんでも異臭がするそうです。特にベランダから酷い匂いがするらしく、多くの住人が不安がっています。この事態を解決するために問題の部屋を訪れたのが大家さんでした。


 大家さんは覚悟を決めて扉の鍵を開けます。そのまま扉を開けて部屋の中に入るつもりでした。ですがここで予期せぬことが起きてしまいます。


 鍵を開けてから扉を引いたのに、扉は少ししか開きません。チェーンロックがかかっているからです。扉の僅かな隙間から悪臭が漂ってきます。隙間から目視で中を確認すれば、散乱したゴミや処理されないままの吐瀉物が目につきます。


 外へ出かけるのにチェーンロックをかける必要はあるでしょうか。チェーンロックは家の中にいる人が防犯のために使うものです。加えて部屋の中の汚さが大家さんに何かを訴えます。混乱した大家さんはまず警察に電話をすることにしました。



 室内は酷い有様でした。あちこちに転がっているファストフード店のビニール袋。床には吐瀉物が未処理のまま放置されています。奥に進むと事態の深刻さが明らかになりました。


 ゴミ袋に埋もれた和室。その僅かな空きスペースに小さな子供が横たわっているのです。四肢は小枝のように細くなっていました。身につけているオムツはパンパンに膨れ上がって異臭を放ちます。


 この子供が遊喜くんでした。チェーンロックを一人で開けることが出来ず、狭い室内で衰弱して動けなくなっていたのです。部屋の中に人が入ってきたことにも気付かず床に横たわっています。その手にはひらがなだらけの手紙が握られていました。


 酷く衰弱していて生きているのかすらわかりません。どんなに外から呼びかけても反応がないはずです。この部屋には、弱りきった遊喜くんしか住んでいませんでした。一緒に暮らしているはずのお母さんはいません。お母さんの私物も見つかりません。


「この子、ハンバーガーの包み紙を食べてる」

「ナゲットソースの容器とフライドポテトの容器もです」

「マヨネーズの容器をかじった後がある」


 部屋に散らばったゴミや吐瀉物からは、ここしばらくの遊喜くんの生活がわかります。まともに食事を貰えなかったことも、空腹を我慢でしなくて普通なら食べないようなゴミまで食べていたことも、最後の方はまともに動けなかったことも。全部わかってしまいます。


 ぐったりとしたまま動けない遊喜くんは担架で外へと運ばれました。これから病院に搬送され、診察を受けます。救急車のサイレンを聞きつけてかアパートの住人が集まってきました。

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