遥ちゃん2

 乱れたシーツと掛け布団。その上に散らばる下着と寝巻き。枕元にはクシャクシャに丸められたティッシュの塊がいくつか無造作に置いてあります。そんな整っていないベッドの上で、遥ちゃんは目を開けました。


 隣には上半身裸の智樹さんがいます。服を脱ぐと、普段は服に隠された肩や腕の筋肉がはっきりと見えます。逞しい腕は遥ちゃんの体を抱き寄せて離そうとしません。


 それでも遥ちゃんはベッドから離れようとしました。顔を真っ赤にして智樹さんの腕を動かそうとします。けれど腕はピクリとも動きません。智樹さんの目がゆっくりと開いて遥ちゃんの大きな目を見つめます。


「なぁに?」

「あ……いや……」

「今、逃げようとしたでしょ。逃げたらどうなるっけ?」


 智樹さんは素早く体勢を変え、遥ちゃんの上に覆い被さる形になりました。そのがっしりとした太い腕が遥ちゃんの首へと伸びます。次の瞬間、その指は躊躇いもなく遥ちゃんの首を締めつけました。


 遥ちゃんの体に新しい傷は見当たりません。首を絞めていた指だってすぐに遥ちゃんから離れ、指の跡すら残りません。遥ちゃんの服の下に刻まれているのは、智樹さんに出会う前に作られた古傷ばかりです。


「冗談だよ。けど、遥ちゃんが僕から逃げるなら、僕はこの家を離れる。そしたらお母さんは……間違いなく、遥ちゃんにこういうことをするだろうね」


 智樹さんが言おうとしていることは、遥ちゃん自身が一番理解していました。智樹さんがいなくなれば、家の中で遥ちゃんを守る大人はいなくなります。


 そうなればお母さんは歯止めが効かなくなるでしょう。智樹さんが来る前の生活に戻るでしょう。以前の生活と今の生活、本当はどっちも嫌いです。けれどどちらか選べと言われれば、今の生活を選ばざるを得ません。


 遥ちゃんは知っています。どっちを選んでも逃げ場なんてないことを知っています。お母さんに相手にされない日々を選ぶか、お腹とかは満たされるけど智樹さんの相手をする日々を選ぶか。それだけの違いです。


「逃げようと、してない。見せたいもの、ゴミ箱にあったから……」

「僕が取る。遥ちゃんは布団の中にいて?」


 遥ちゃんは智樹さんから逃げようとしたわけではありません。ベッドの脇にあるゴミ箱からとある紙ゴミを拾おうとしただけなのです。そしてその紙ゴミは今、智樹さんの手にありました。


 クシャクシャに丸められたお知らせのプリント。そこには授業参観の日時が記されています。授業参観の後には保護者会が予定されているらしく、保護者会の出欠を記すようになっていました。


「お母さん、見てくれないの。出欠、私だけ出してなくて。保護者会? っていうのにね、出るか出ないか書いてほしいの。保護者会のこと言おうとしても話、遮られちゃうの」

「それは良くないね。わかった、僕から言っておく。……なるほど、僕と予定が重なってるからか。僕の方の予定を変更しようか?」

「ダメ! お母さん、急に予定変えたら怪しむよ?」

「僕は見たかったな、遥ちゃんのこと」


 お母さんは遥ちゃんを見てくれません。お知らせのプリントもほとんど目を通さないし、話を遮ることも一度や二度ではありません。智樹さんを経由するのは遥ちゃんなりの最終手段です。智樹さんは今にも泣きそうな遥ちゃんの頭を優しく撫でるのでした。





 お母さんと智樹さんと遥ちゃん、三人の歪な関係が少しばかり続いたある日のこと。朝のホームルームでは生徒全員に「保健だより」が配られました。月に一度、定期的に配られる保健室からのお知らせです。


 今回の保健だよりは保健室の利用についてでした。怪我した時、具合の悪い時だけでなく心配事や悩みの相談、体に関する質問、辛い時に心を落ち着かせるためにも利用出来るそうです。遥ちゃんは「心配事や悩みの相談」という所が気になりました。


(保健室は、怪我した人と具合の悪い人のための場所でしょ? 悩み事、相談してもいいの?)


 保健だよりを読むまでは知りませんでした。悩み事の相談で保健室を利用していいことを知りませんでした。


 遥ちゃんには悩みがあります。お母さんのことと智樹さんのこと、そして今後のこと。お母さんから身を守るために智樹さんを頼る。いつ終わるかもわからない危うい関係に遥ちゃんの心は悲鳴を上げています。



 新しい保健だよりが配られた日の昼休み。壁に身を隠しながら保健室の様子を伺う少女がいました。遥ちゃんです。その手には四つ折りにされた保健だよりが一枚、大切そうに握られています。


 廊下を行き来する生徒達を何度も目で追いかけました。外からは昼休みだからとはしゃぐ生徒達の楽しそうな声がします。遥ちゃんは何度も何度も生徒達の姿を追いかけ、廊下から人がいなくなる一瞬を待ちました。


 廊下を歩く生徒がいなくなった瞬間、駆け足で保健室に向かい、その扉を開けます。扉を開けた先には穏やかな笑みを浮かべる女性の養護教諭、鳥海先生が待っていました。


「こんにちは。今日はどうしたのかな?」


 高すぎず低すぎない心地よい声。その声は遥ちゃんを責めはせず、優しい声音が怒っていないことを示しています。鳥海先生は遥ちゃんが自分から話そうとするのを待っているのです。


 そんな鳥海先生の声を聞いた瞬間、遥ちゃんの瞳から一粒涙がこぼれ落ちました。一粒、また一粒、頬を伝う涙が床を濡らしていきます。けれど遥ちゃんには涙の理由がわかりません。


「辛いことがあったのかな。名前は……?」

「遥」

「遥ちゃんて言うんだね。次の授業は休んでいいから、ちょっと深呼吸しよっか。その前に顔を拭く?」


 差し出された白いハンカチはとても良い香りがしました。ハンカチはすぐに涙を吸収してその色合いを変えていきます。上手く涙が止まらなくて、遥ちゃんの口からはなかなか言葉が出てきません。そんな遥ちゃんを、鳥海先生は静かに静かに見守っていました。





 始業開始を告げるチャイムが校内に鳴り響きます。お昼休み後の、五限目の授業が始まったのです。けれど遥ちゃんはまだ保健室のソファの上で、ハンカチで顔を覆っていました。


「お母さんが……」


 長い長い嗚咽の後にようやく絞り出した言葉は、お母さんのことでした。けれど最後まで言いきれず、また溢れ出す涙をハンカチで拭います。


「お母さん、私を見てくれないの。お母さんはいつも、好きな人のことばっか見てる。保護者会? のお知らせだって見てくれない」

「そうなんだ」

「智樹さんと暮らすようになってから初めて、お腹いっぱいご飯食べられた。けど、お腹いっぱい食べて、お母さんに私を見てもらうために……智樹さんが離れないために、頑張るのも、辛い」


 何をしているかは言いません。智樹さんが誰なのかも言いません。けれど遥ちゃんの少ない言葉から、鳥海先生には感じるものがありました。けれど、思うだけでは何もできません。


 鳥海先生はただの養護教諭です。よく家庭に関する悩み相談を受けて、訴えを受けて可能な限り手を差し伸べるだけの、保健室の先生です。助けられなかった生徒もいます。助けられた生徒もいれば、鳥海先生の知らないところで保護された生徒もいます。


 文字なり口頭なりで何をされているのか生徒から訴えてくれないと動けません。証拠もなしに動けば生徒達を守れません。今の遥ちゃんの少ない訴えでは、まだ行動に移せません。具体的な発言を引き出そうにも聞き方に気をつけなければ、遥ちゃん自身の訴えではなくなります。


 これまでに生徒の悩み相談を受けたのは数えきれないほど。その中には虐待が絡む案件もあります。悲しいことに、鳥海先生は彼らが一時保護されたところまでしか知りませんが。


 育児放棄の結果、危うく死ぬところだった子供がいました。父親に犯され続けた子供がいました。暴行されても転んだと言い張る子供がいました。受験をきっかけに親に殺されかけた子供がいました。育児放棄のため万引きを繰り返して生きる子供がいました。


 そのうち鳥海先生が直接手を差し伸べることが出来たのは二人だけ。その二人だって、児童相談所に通告することしか出来ませんでした。聞いた話と事情を説明し、一時保護の相談とその後の対応をお願いすることしか出来ないのです。直接助けられなかった子供達のことを思って泣いた夜も一度や二度ではありません。


「智樹さんって人が来る前と来た後で、お母さんはどう変わったのかな?」


 出来る限り言葉を選んで、答えを誘導しないように気をつけて問いかけます。震える遥ちゃんの手を両手で優しく包み込みました。目を真っ赤に泣き腫らしたその顔と真正面から向き合います。


「ご飯、私の分も作ってくれるようになった。ゴミ箱を探さないでもお腹いっぱいになったの。服も買ってくれた」


 証言としては非常に弱い遥ちゃんの言葉。以前はずっと同じ服を着ていて、家でご飯を貰えなかったと伝えたいのでしょうか。


「智樹さんと暮らすようになったのはいつからかな?」

「去年? 私が、一年生だった時の冬!」

「それまでに保健室を利用したことあったかな?」

「ないよ? 保健室は怪我した人と病気の人の場所だもん」


 智樹さんがやってきたのは一年と半年程前のようです。残念ながら鳥海先生はそれまでの遥ちゃんを知りません。そもそも一年と半年前は違う小学校に勤務していました。何故でしょう、嫌な予感がします。


「智樹さんはどんな人?」

「優しい。すごく優しい。けど……」

「けど?」

「ううん、なんでもない」

「話したい時に話してちょうだい」


 話したがらないことを無理強いすることは出来ません。鳥海先生は話題を変えることを選択します。


「……先生、ちょっと気持ち悪い」

「大丈夫? お熱を測ろうね。色々あったみたいだし、疲れちゃったかな?」

「わかんない。最近、胃がね、変なの。」

「お家帰る? それとも、保健室の方が休めるかな?」

「……保健室」

「わかった。あとで教室から荷物取ってくるね」

「あのね」

「どうしたの?」

「…………やっぱりなんでもない」

「そう? なんでも話してね。お母さんにはもちろん、周りの子にも秘密にするから」


 遥ちゃんの手が下腹部を抑えています。吐き気だけでなく腹痛もあるようです。最近校内でこのような風邪が流行っています。遥ちゃんも風邪を引いたのでしょう。鳥海先生は遥ちゃんをベッドで寝かせようと支度を始めました。

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