最終話 おとぎ話と罪の終わり
――2037年8月。
アメリカ合衆国ワシントン州、シアトル。
ありとあらゆる人種が調和し、共存しているこの都市は今、夏の盛りを迎え眩い陽射しに照らされていた。
そのビル群と、蒼く広がる海辺を一望できるテラスにて――2人の男女が、パラソルの下で向かい合っている。互いに微笑を浮かべて見つめ合うその姿は、付き合い始めて間もない恋人同士のようだった。
「EAGLE CAFE」という看板を掲げる、鷲のエンブレムが特徴の有名チェーン。その店舗の一つであるこのテラスは、その絶景ゆえに来客が絶えず、デートスポットとして絶大な人気を博していた。
陽射しを凌ぐパラソルの下から眺める、蒼い海原と街並み。さらに日が沈めば、鮮やかな夜景を堪能することも出来るこの席は、誰もが簡単に座れるものではない。
――思わず周囲が席を譲ってしまうほどの、セレブが足を運んで来ない限りは。
「……すっごく綺麗。いいのかな……あたしが、こんなとこに来ちゃって」
「誘ったのは俺なんだ。ケチを付けられた時は、俺のせいにすればいい」
「あはは……キッドさんっていつも、そうやって全部背負い込もうとするよね」
「ん……そうか?」
「そうだよ」
赤髪の少女は首に下げたペンダントを揺らしながら、ブラウンの髪の青年を愛おしげに見つめ――頬を掻く彼にウィンクする。その仕草は、彼との関係に尻込みしていた頃からは想像もつかないものだった。
肌身離さずペンダントを身につけているため、いつしか「アーヴィング家の花嫁候補」として知れ渡っていた彼女は、赤髪を理由に虐められることもなくなり、少しずつではあるが女性として前進するようになったのである。
青年はそんな彼女のアプローチに胸を高鳴らせ――それを誤魔化すように、コーヒーカップに手を伸ばす。口に広がる苦味が、脳裏に過る煩悩を鎮めていた。
――「RAO」は昨年の12月以来、特に問題もなく運営が続いている。一時広まっていた「リアリティ・ペインシステムの再来」という噂も、今年の春には立ち消えになっていた。
事件に巻き込まれたプレイヤーの1人だった赤髪の少女も、今では元通り――男性プレイヤーの人気を集める「RAO」のアイドル「エリザベス」として活躍している。
さらに、3ヶ月前に発生した「ギルフォード事件」の主犯格であるアドルフ・ギルフォードはすでにこの世を去っており――彼を巡る問題の数々は、ほぼ全て終息していた。
戦いは、もう終わった。この事件に携わって来た誰もが、そう確信している頃だろう。
――だが。青年にとって、今は「結末」ではなかった。
「……早く、目が覚めるといいね」
「……あぁ」
少女は詳しい事情は知らないものの、彼の恩人が眠り続けていることを知っている。青年を慮るその言葉に、彼は絞り出すような声で答えていた。
「ね、覚えてる? 去年、約束したこと」
「え? ――あぁ、もちろん。忘れたことなんてない」
そんな彼を、元気付けようと。少女は明るく振る舞い、かつて交わした約束に触れる。彼女の問い掛けに応える青年の眼は、微かな光を灯していた。
「……また、2人で一緒に」
「その時は、例の恩人さんも呼ぼうね」
「え……?」
「えと、ね。その人のこと、あなたからいっぱい聞いて……思ったんだ。……その方が絶対、賑やかになるでしょ。きっと、楽しいよ」
「……」
必ず彼は目を覚ます。そう励ますように、彼女は「恩人」が眠りから覚めることを「前提」とする予定を口にしていた。
「……賑やかだろうな、確かに。だが、それはダメだ」
「え……そ、そうかな」
「あぁ。――君と2人きりになれないのは、困る」
「……〜っ、もうっ!」
そんな少女の、不器用な心遣いを前にして――青年は口元に手を当て、くすっと笑みを零す。そして悪戯っぽく笑い、彼女の頬を赤く染めた。
その様子を、慈しむように暫し見つめた後。青年は少女から視線を外すと、海の向こうを見遣る。遥か遠くを見つめるその眼差しは、大海の彼方にある異国へと向かっていた。
――正しくは、その地で暮らしているであろう、かつての同志へと。
(……パーネル……さん。俺はずっと、ここで待ち続けます。あなたが、還る日を。彼が、目覚める日を……)
◇
少女を、彼女の自宅である車庫まで送った後。青年は愛車を走らせ、ワシントン大学病院へと身を寄せていた。
すでに空は黄昏時を迎え、黄金色の景色がシアトルの街並みを艶やかに染めている。その景色を廊下の窓から見遣りながら、青年は携帯で自分の執事と通話していた。
「――あぁ、わかってる。明日は
会社の命運を預かる自分を案じる、執事の小言にため息をつき。青年は携帯を懐に収め、ある病室を目指す。
「ったく……ん?」
そして、その目的地が目に入った――時だった。
彼が向かおうとしていた病室から1人の女性が姿を現し、その場を後にしていく。彼女が青年に背を向ける寸前、彼はその横顔を目にしていた。
(あの人は……)
青年は、彼女の顔には見覚えがある。昨年の12月、彼の「恩人」にナンパされていた女性だ。
あの時は手厳しく拒絶されていたはずだが……どうやら、見舞いに足を運んでいたらしい。あれからも、「彼」との交流は続いていたというのか。
――そんな新事実に瞠目しつつも、青年は気を取り直し病室のドアを開く。音もなく静かにスライドしていく扉の向こうでは……ベッドの上で静に、金髪の男が眠り続けていた。
(……先任……)
胸中で彼を呼ぶ青年は、ベッドの傍らにある椅子に腰掛けると――周囲に視線を移す。「恩人」の側には、色鮮やかな花が飾られていた。
――青年はこうして頻繁に見舞いには来ているが、こんな華やかな品を持ち込んだことはない。こういうものに関するセンスは持ち合わせていない、という自覚があるためだ。
つまりこの病室に飾られている花は、あの女性が用意した物ということになる。
――どうやら人の気も知らずに眠り続けているこの男は、意外に女性から好意を持たれているらしい。死んだように意識を手放している「恩人」の寝顔を見下ろし、青年はため息をつく。
(……全く、この人は)
だが、それから間も無く。顰めっ面になっていた彼の貌は、苦笑いへと変化していった。仕方ないな、と表情が語っているようだった。
(……先任。俺は、自分に出来ることは尽くしました。ですが……まだ。終わりじゃない。あなたが目覚める日まで、俺の戦いは……)
やがて神妙な面持ちで「恩人」を見つめた後、青年は額に手を当て目を伏せる。終わらせたくとも終わらない、自分にとっての「戦い」が、途方もないものになるのだと――覚悟するように。
だが。
「……なぁん……て、カオ……してんだ、よ」
「――!」
永遠のように続いて来たその日々は。唐突に、終わりを告げる。
自分達以外は誰もいない病室で、自分ではない声が聞こえた。それが意味するものを頭で理解するより早く、青年は顔を上げる。
一体、何が起きた。俺は夢を見ているのか。
彼の顔が、そう叫んでいるかのようだった。
そんな青年の顔が、よほど可笑しかったのだろう。先ほどまで、長い眠りに囚われていた「恩人」は――今まで死に体だったことが、嘘のように。
「……俺は死なねぇ。そうだろ、キッド」
大らかに、笑っていた。
「……っ、ふ、ぐっ……!」
その笑顔で、ようやく青年は目の前の光景を受け入れるに至り――泣けばいいのか笑えばいいのか、脳が理解出来ないまま、言葉にならない声を漏らす。
それはまるで、嗚咽のようだった。
そして、この日。
青年――キッド・アーヴィングの長い「戦い」は、ようやくその幕を下ろす。
◇
――2037年8月。
東京郊外某所、「COFFEE&CAFEアトリ」。
日本最大の都市からやや離れた森の中で、静かに営まれているこのカフェは――自然に囲まれたウッドデッキと、そこから窺える景観を売りとする憩いの場だ。
約20年に渡り、知る人ぞ知る「穴場」として密かな人気を集め続けているその空間は、今――若い主婦の間で、大いに話題となっていた。
――最近、アメリカ人の超美男子が従業員になった。
その噂を耳にした主婦達が癒しを求め、昼下がりに森の中まで足を運ぶようになったのである。駐車場が少ないと知りながら、諦めることなく徒歩で来る客もいるほどだ。
「いらっしゃいませ、COFFEE&CAFEアトリへようこそ――」
「んまぁアレクサンダーさんお久しぶりねぇ! また来ちゃったわぁ!」
「アメリカの兄ちゃん、こんにちはー!」
「――えぇ、お久しぶりです。2名様ですね、どうぞこちらのテラスへ……」
更にここ最近では子連れの主婦も来るようになり、ママ友の溜まり場としても利用されるようになっていた。それに応じて、小さな子供も足を運ぶようになり――現在経営側は、その客層に応じた新メニューを検討しているという。
紳士服に身を包み、流暢な日本語で柔らかく接する、オールバックのアメリカ人美男子。その青年はたちどころに、女性層を中心に「COFFEE&CAFEアトリ」の存在を広く知らしめたのである。
「……売り上げも徐々に伸びているようだな、チーフ。これなら、子供向けのメニューを組む予算も問題ないだろう」
「はい。雑誌で特集したいって話も来てたし、アレクサンダーさんが入ってくれてから、もうずっと大盛況です」
カウンターでコーヒーを淹れつつ、満席になっているテラスを眺めて。看板カラスに次ぐ「目玉」となった青年は、微笑を浮かべる。
そんな彼の隣では、「チーフ」と呼ばれるポニーテールの美少女が、満面の笑みで注文された品を運んでいた。
――窓の向こうに止まっている一羽のカラスが、そんな彼女をじっと見守っている。子供達は、アレクサンダーが入る以前から「名物」となっているそのカラスに夢中のようだ。
「雑誌で取材、か。あの子が読んだら、さぞ驚くだろうな」
「……あの子?」
「ふふ、すまない。こちらの話だ」
すると。青年の言葉に、少女は薄茶色の長髪を靡かせ――きょとんとした表情で振り返る。青年はそんな彼女に苦笑いを浮かべると、小さく首を振った。
「ねーねー、外国のおにーちゃん! また絵本読んでよー!」
「ぼくもー! ねぇ、アメリカの兄ちゃん!」
「……あぁ、いいとも。少し待っていなさい」
するとそこへ、母親達の談笑に飽き飽きしていた子供達が、青年の元へ集まって来る。彼は子供達を相手にするために、幾つか自費で絵本を買い集めていた。
幼い彼らを慈しむように微笑を向け、青年はカウンターの後ろにある、小さな本棚に手を伸ばす。
「今日は……これにしようか」
「あれ? その本、なんか古いね」
「私が小さい頃からあった本だからね。このお話は――」
――やがて、
優雅な口調で物語を読む彼の声に、子供達だけでなく若い女性客まで聞き入っている。
それは。
夢の世界に囚われたお姫様を助けに行く、勇敢な少年のおとぎ話だった。
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