第20話 終わらない憎しみ

 2037年、7月。

 ――林間学校に向かう途中の、五野寺学園高校の生徒達を襲った集団催眠事件。犯人の名を取り「ギルフォード事件」と呼ばれたその一件から、2ヶ月の月日が過ぎていた。


 保護された五野高生徒達を含む、乗員乗客全員は無事にギルフォードの支配から解放され、天坂総合病院での療養を経て快復。その後、警察関係者からの事情聴取やマスコミからのインタビューを受けたのだが――FBI解析班により仮想空間での記憶を削除されていた彼らは、何一つまともに答えることはなかった。


 仮想空間で殺し合いをさせられていた記憶が残ることで、今後の被害者達の社会復帰に悪影響を及ぼさないための措置である。

 日本側の警察関係者の間では、そうしたFBIの意向に対し「事件の解明に繋がる情報がほとんど得られない」と反発する声もあったが、最終的には人道的見地に則り、被害者達の記憶を消去する方向を推進する流れとなった。

 ……事件の解決がほぼ、FBIの解析班頼みだったことへの負い目も、少なからず絡んでいたようだが。


 この事件はVRMMOの技術を悪用した狂人の犯行として大々的に報道され、連日特番が組まれるほどの大騒動となった。その影響で、事件の事後処理がある程度済んだ後も、五野高の生徒達はしばらくの間は注目を集め続けていた。


 それでも世間の話題の移り変わりは早いもので、2ヶ月が過ぎた今では、徐々に彼らを取り巻く周囲の目が少なくなってきている。


 ――その影には事件発生当時、速やかに病院を手配するなどして対応に奔走していた「伊犂江グループ」の圧力が関わっていたことは、知られていない。


 ◇


「オウ、飛香。お前また伊犂江にちょっかい出してたらしいじゃねぇか。なにちょっと話す機会があったからって、調子くれてんだ。アァ?」

「お前ホント調子こいてんな。なに? 喧嘩売ってんの?」

「……え、えっと……」


 7月に差し掛かり、季節は夏を迎えている。夏休みを目前に控えていることや事件の影響もあり、生徒達は平穏な生活を送っている一方で、何処と無く浮き足立っているようであった。

 教師陣もギルフォード事件を受け、夏休み中の行動について厳しく指導するようになったため、その反動もあってのことだろう。


 そうした中で相変わらず、飛香炫は伊犂江優璃関連のことで周囲の男子達からやっかみに晒されていた。休み時間に廊下へ連れ出された彼は現在、鷹山宗生とその取り巻きから尋問を受けている。

 ――炫が目覚めたあの日。蟻田利佐子からの手痛いビンタを浴びた彼は、学園の聖女にも天使にも近寄れなくなり。前にも増して、炫への風当たりを強めるようになっていた。その貌は、夏の暑さとは無関係な苛立ちにより、忌々しげに歪んでいる。


「い、いや、オレはただいつも通り喋ってただけで何も特別なことは――」

「なぁにがただいつも……だッ! ブチ殺されてぇのかてめぇ!」

「そうだそうだ! 鷹山さんがその『いつも通り』にすら手が届かないと知っていてなんてことほざき……べげっ!」

「てめぇも黙ってろ! ……とにかく夏休みに入ってさらに調子こく前に、ここらでいっぺん灸を据えてやらねぇとなあァ!?」

「えー……と……ぁあはは、どうしよ……」


 痛い所を味方に突かれた宗生は、取り巻きの一人を殴り倒して炫に迫る。その威圧感に溢れた眼光を前に、当人はどう弁解したものかと苦笑いを浮かべていた。


「いい加減にするのはお前だ、鷹山宗生!」

「げ……! ぶりっ子野郎!」

「誰がぶりっ子野郎だ、この不良。夏休みを前にして浮かれているのだろうが、学校の風紀を乱す奴は許さんぞ」

「……チッ! あぁつまんねぇ、行くぞお前ら!」

「は、はい!」


 ――すると、そこへ。生徒会の腕章を身につけた、真殿大雅が現れた。その後ろでは、大雅ファンクラブの女子達が汚物を見るような眼で宗生達を睨みつけている。

 さすがに、多勢に無勢。それにこれだけ人が集まれば、いずれ教師に勘付かれさらに面倒になる。

 不良の勘から、その展開を予見した宗生は、露骨な舌打ちをしながら取り巻きを連れて立ち去っていった。そんな彼に大雅がため息を零す一方で、炫はホッと胸を撫で下ろしている。


「全く……なんと月並みな奴らだ」

「あはは……でも、おかげで助かったよ。ありがとう、真殿君」

「……勘違いするな。お前が下手に喧嘩でもして怪我をするようなことになれば、伊犂江さんも今日のパーティを素直に楽しめんだろう。お前のような陰湿オタクにも、心を砕くような人なんだからな」

「はは……そうかもね」


 笑顔で礼を言う炫に対し、大雅は目を合わせることなく冷たくあしらう。だが、横目でちらりと炫を一瞥するその表情は、何処と無く安堵するように緩んでいた。


 ――今日、優璃は自身の誕生日を祝う、伊犂江グループ主催のパーティに、主賓として参加することになっている。


 毎年開かれるこのパーティでは、グループ傘下の企業が大勢参加しており、その御曹司達も必ず出席している。優璃は毎度、その御曹司達からアプローチを受け続けているのだ。

 当然そのアプローチの一環として、誕生日プレゼントなども多数送られてくる。優璃は立場上無碍にもできず、それを受け取り続けてはいるのだが……あまりにしつこいと、常に側に控えている利佐子が睨みを利かせて追い払ってしまうらしい。


 執拗な男共に対する露払いとして優璃の側にいる利佐子だが、彼女自身もグループの重役の令嬢。当然、彼女に言い寄る御曹司も少なくはないのだが、下心を見透かされ辛辣な言葉で撃退されるケースが後を絶たないようだ。


 そうした家の事情があるため、五野高の男子達の間では、優璃と利佐子には誕生日プレゼントを渡さないことが暗黙の了解となっていた。一介の高校生に買えるプレゼントなどたかが知れるものであり、御曹司達が彼女に渡すであろう品物には敵わないことが明白だからだ。

 それに彼女は、御曹司達からのプレゼントまで嫌がっている節もある。そんな彼女の心を射止める物など、おいそれと手に入るはずもない。


 ――何より中学時代の彼女に対し、遠慮を知らなかった当時の男子達がプレゼントを大量に送った結果、激怒した利佐子の説教を招く結果となった過去が大きいのだろう。

 その一件は今も伝説として語り継がれており、この暗黙の了解を守らねばならない根拠として周知されていた。


「お前も迷惑を掛けている自覚があるなら、面倒ごとに巻き込まれんよう立ち回れ。痛い目に遭う前にな」

「うん……気をつけるよ。ありがとう」

「ふ、ふん。礼なんかいらん。それよりお前、伊犂江さんに――」


 そんな時期である以上、今年に入って優璃と話すようになった炫が、その暗黙の了解を破る可能性について考えなくてはならない。そう睨む大雅が、じろりと炫に視線を移した……その時だった。


「あ、飛香くーん!」

「飛香さん、真殿君、どうされたのですか?」

「あっ、伊犂江さんに蟻田さん!」

「……!」


 当の本人である伊犂江優璃と蟻田利佐子が、その姿を現したのである。薄い夏服へ衣替えした彼女達は、その均整の取れたプロポーションを遺憾なく発揮し、男女問わず羨望の視線を集めていた。

 ――そして。その視線は、炫に向かう嫉妬と憎悪の色まで帯びている。その眼光を肌で感じた炫は、夏場とは思えない寒気を覚えていた。


「なんかこっちの方が騒がしかった気がしたんだけど……何かあった?」

「い、いいや別に。何もなかったよ、ねぇ真殿君」

「へ……あ、あぁ、大したことはない。もう済んだことだ」

「ふぅん……?」

「そ、それより誕生日って今日だよね。何もプレゼントとか渡せないけど……おめでとう!」

「……うん! ありがとう、飛香君っ!」


 大雅と共に、騒ぎの原因を必死にごまかし、炫はその過程で優璃の誕生日について言及する。それに気を良くした彼女は、ぱぁっと笑顔を咲かせて周囲を悶絶させた。

 彼女の美貌と愛嬌は、遠巻きに見ているだけの生徒達すら魅了しているようだった。


「今回はあの事件の後……ということになりますから、その話題でパーティは持ちきりになるでしょうね。『事件に巻き込まれて傷心のお嬢様に優しくする』という卑劣なポイント稼ぎに出る輩は絶えないでしょう」

「あははー……仕方ないとはいえ、誕生日パーティって毎回疲れるんだよねぇ。しかも傷心って言われても……私達みんな、ゲーム世界にいた時のことなんて覚えてないんだから、全然ピンと来ないんだし。……どう返したらいいのかなぁ」

「必要なら私がお嬢様に代わり、キツくお灸を据えましょうか」

「……やめたほうがいいと思うな。そういう時の利佐子って、ほんと容赦がないんだから」

「い、いろいろ大変だね……」

「せっかくお嬢様の誕生日なのに、当のお嬢様を困らせる人達ばかりですからね。……それよりっ」


 すると。利佐子は眉を吊り上げ炫を見上げると、ツカツカと歩み寄り彼の耳元に近寄った。そして、子供を叱るような口調で彼に囁く。


(……なんであなたまで何も用意していないんですか! せっかくお嬢様の誕生日なのにっ!)

(えぇ……? でも、プレゼントを渡したら伊犂江さんが困るってみんなが……)

(それとこれとは別ですっ! 今年に入ってようやく飛香さんとお知り合いになれたのに、プレゼントが何もないなんて……!)

(べ、別なの……? というか、今年に入ってようやくってどういう――)

(とにかく何でもいいから早く渡してあげてください! 飛香さんの贈り物なら、例えシャーペン1本でも大喜び必至なんですからっ!)

(シャ、シャーペンて……うーん……)


 その話に、炫は半信半疑といった表情を浮かべる。が、優璃はどことなく何かを期待するような眼で彼を見ていた。

 彼女の後ろでは、男子達が誕生日を祝う声が聞こえてくるが……そんな彼らに対応しつつも、彼女の意識は炫にのみ向いているようだった。


「あー……と、ごめん伊犂江さん。せっかくの誕生日なのに、何も用意してなくてさ。えと、オレが持ってる昔のゲームとかいる?」


 当然ながら、そんな物がプレゼントとして成り立つはずはない。が、炫がすぐに用意できるものなんて、それくらいしかないのである。

 隙間時間を利用するため、常に懐に忍ばせている携帯ゲーム機くらいしか。


「えっ……いいの!? だってそういうの、飛香君の宝物なんじゃ……」

「他に渡せる物なんて何もないしさ。あ、春野先生には内緒ね」


 だが優璃にとってそれは、愛する少年から渡された初めての贈り物。何よりもかけがえのない、宝物であった。利佐子の影に隠れるように、そっと懐から携帯ゲーム機を取り出した炫は、それを彼女に手渡す。

 その際に近寄った瞬間、優璃はかぁっと頬を赤らめていたのだが……周りに隠しながら携帯ゲーム機を渡そうとあくせくしている炫は、それに気づくことはなかった。


 ――そして、炫が願った通り。彼が優璃にゲームをプレゼントする瞬間は、誰にも見られることなく終わった。

 空気を読んで、彼らの間に立ち周囲から炫の私物が見えないようにした、利佐子のファインプレーである。


「……!? おい飛香炫! 貴様今何を渡した!? プレゼントじゃないだろうな!」

「あはは違うよ、私が貸してたもの返してもらっただけ」

「……そ、そうなのか……?」


 だが「何を」渡したかまではわからなくとも、「何か」が優璃の手に渡ったことには、近くにいた大雅が気づいていた。彼は当然ながら炫に詰め寄ろうと厳しい視線を向ける……のだが。

 それより早く、彼を庇うように進み出た優璃がにこやかに対応し、大雅は訝しみながらもすごすごと引き下がった。


(こういうのバレたら、飛香君困っちゃうもんね。ここは私に任せて)

(あぁ……うん、まぁね。ありがとう、伊犂江さん)

(ううん……だって、飛香君からこんな素敵なプレゼント貰えたんだもん。私だって、何かお返ししたい)

(伊犂江さん……)

(……ふふ、でも飛香君ったら、学校にこんなもの持ってきちゃって。いけないんだー)

(あ、あはは……返す言葉もありません)

(もう。春野先生のこと、あんまり困らせちゃダメだよ?)

(……ごめん、これっきりにしとくよ)

(うん、よろしい!)


 そんな彼を一瞥し、優璃はそっと耳打ちする。頬を染め、幸せに溢れた笑顔を向けながら……やがて彼女は利佐子と共に教室に戻っていった。


「……さ、戻ろ! そろそろ授業始まっちゃうよ!」

「飛香さん、さぁ早く。次の授業、冬馬先生ですよ。真面目に受けないと、八つ当たりの標的にされてしまいます」

「う、うん。……春野先生のことでオレ達に当たるの、やめてほしいんだけどなぁ……」

「……全くだ」


 そんな彼女達に手を振りつつ、炫も大雅と顔を見合わせ、教室へと引き返していった。すでに教壇には、苛立った表情で足踏みを繰り返す冬馬海太郎の姿が現れている。

 ――どうやら今日も、食事の誘いを断られたようだ。


「炫! アレはどうした、アレ!」

「ん? アレって……?」

「炫が持ってるあのゲームなんだねっ! あの激レアプレミアムものの前時代携帯ゲーム! 今日こそ貸してくれるってハナシだったはずだねっ!」

「あ、ごめん。さっき伊犂江さんにあげちゃった」

「んぬぁあぁにぃぃい!?」

「契約不履行なんだねぇえぇ!」


 そして――炫秘蔵の携帯ゲーム機を借りようとやってきた、鶴岡信太と真木俊史。彼らが周囲から集まる軽蔑の視線を無視して、怒号を上げる一方で。


(……誕生日、か)


 亡き恋人の命日に想いを馳せ、炫は窓の向こう――青空の遥か彼方を見つめていた。かつて捨てたはずの思い出に彩られた、彼女の故郷の方角を。


 ◇


(……アレクサンダーさん、ここしばらく連絡して来ないな。さすがに、もう聞くことはないってことなのかな)


 その日の夜。

 上流階級が集まるパーティで賑わっているであろう、伊犂江グループ本社ビルを遠くから見つめ。

 自宅の一軒家から東京の夜景を眺める炫は、手にした携帯に視線を落としていた。今は黒のTシャツに赤いダメージジーンズという、ラフな格好になっている。


 ――ギルフォード事件で、巻き込まれた乗員乗客85名は全員、その記憶を抹消されていた。それゆえ、誰も事情聴取やインタビューに、事件の内容を語ることができなかった。

 それがこの事件についての、表向きの結末である。


 しかし、その裏ではFBI主導による「記憶を持った当事者」への事情聴取が進められていた。

 警察関係者達が、すでに被害者達が記憶を失っていると知りながら事情聴取を行なったのは、その存在を公にさせないため。たった一人の、記憶を持った少年を世間から隠すために、彼らは形式だけの聴取を行なっていたのである。


 ……本来。「ただ一人記憶を持った帰還者」は、対電脳チップにより解析班の記憶消去プログラムを回避できる、アレクサンダー・パーネル捜査官であるはずだった。

 しかし彼は最後の最後で、ギルフォードに自身のアバター「オーヴェル」を殺害され意識を失った。このため、「アレクサンダーだけが事件の情報を持ち帰る」というFBIの当初の計画が破綻。

 さらに「DSO」における主役プレイヤーだった「ヒカル」こと飛香炫が、ゲームマスターでありホストでもあるギルフォードを倒したことで、解析班のハッキングとは異なるルートでログアウトする事態に発展。

 予期せぬ「第二の記憶保持者」となった彼は、記憶を持たない他者に紛れてFBIの聴取を受けることになったのである。


 飛香炫はいわば、ギルフォード事件における重要参考人。天坂総合病院で彼と接触したアレクサンダー・パーネルとキッド・アーヴィングは、無意味な事情聴取に紛れて、彼から「オーヴェル」死亡後の詳細を聞き出した。

 そして、あの状況下でも戦い抜くための情報を引き出したのである。


 その後も炫は情報提供者としてアレクサンダーと連絡を取り合い、たびたび彼と顔を合わせる関係となっていた。

 アレクサンダーと炫から入手した事件の情報を本部に持ち帰るべく、キッドはすでにアメリカ本国へ移動している。


(……でも、よかった。みんなが、あの世界の出来事を覚えてなくて……)


 これまで続いていた連絡が数日途絶え、炫は思案を巡らせつつ――ベッドの上に身を投げ、ふぅと息を吐き出す。

 そしてアレクサンダーのことを気にかける一方で、自身が懸念していた「帰還後のクラスメート達の変化」がさほど・・・なかったことに、胸を撫で下ろしていた。


 ダイナグとノアラグン――つまりは信太と俊史。彼らとパーティを組んでクエストをこなしていた頃。盗賊に苦戦している騎士達を助けに行く、という旨の撃退クエストがあったのだが。

 敵も味方も、両方がクラスメートだったのである。


 もし、その時の記憶が彼らに残っていようものなら、現実に帰還した今でも禍根が残っていたかも知れない。その可能性に配慮して彼らの記憶を消去したFBIの判断に、炫は密かに感謝していた。


(でも……本当に、そうだったのかな)


 ――だが、一方で。本当に何一つ以前と変わらないまま、とは言いにくいところがあった。


 利佐子は炫と話す際、胸元や下腹部をさりげなく隠すようになり。宗生は優璃に欲を滾らせた視線を注ぎつつも、以前よりさらに近寄れなくなり。大雅は炫に冷たく当たりつつも、なんだかんだと理由を付けて助けるようになった。

 ――そして、優璃は。以前より少しだけ、炫に対して積極的になっていた。


 もしや彼らは、あの時のことを覚えているのではないか。そう勘繰った炫は、彼らに対して探りを入れたこともあったのだが……どうやら、明確にあの世界のことを覚えているわけではないらしい。

 だが、アバターに作用するプログラムでも消しきれない人間の感情は、少なからず今の彼らに影響を及ぼしているようだった。


「炫ー! そろそろご飯よー!」

「あ、はーい! 今行くー!」


 ――すると思考を断ち切るように、母の声が下のリビングから響いてくる。炫は返事と共にベッドから身を起こすと、考えることを一時中断した。今は、空腹を満たすことが先決である。


「……ん?」


 だが、そのタイミングで今度は携帯がメールの着信を知らせてきた。

 一瞬、後で見ようとも考えた炫だったが、先に内容だけ確認して食事中に返信内容を考えることに決め、携帯の画面に視線を移す。

 メールの差出人は――アレクサンダーだった。


(アレクサンダーさん……!?)


 数日連絡がなく、もう聞くことなどなくなったのかと思いきや。予期せぬタイミングでやってきたメールに、炫は思わず見入ってしまう。


(ひょっとして別れの挨拶とかかな。アレクサンダーさんも、もう随分日本こっちにいるし……)


 帰国する日が近いなら、次に会うまでに何か東京の土産でも買っていこうか。

 そう思案する炫は、携帯に触れた指を滑らせ――


「……え」


 ――その内容を目の当たりにして、暫し硬直した。


 何が書かれているのか、それが何を意味しているのか、そこにどのような意図があるのか。僅か数秒の間、彼はそれを理解することが出来ず絶句していた。


「炫ー? ご飯冷めちゃうわよー?」


 それから、さらに数秒。再び母が呼びかけてくるが、炫は反応できずにいた。


 ――無事に事件から生還してきた息子へ、毎日のようにご馳走を振る舞う母。そんな彼女を表面上では煙たがりつつも、内心では確かな愛情を感じて嬉しさを覚えていた炫。

 また今日も、口先だけの文句を言いつつ、母の手料理を楽しむのだろう。何一つ疑うことなく、そう、思っていた。


 震えるその手に握られた、携帯に映されたメールを見るまでは。


「……なん、でっ、こんな……!」


 わなわなと肩まで震わせて、炫はベッドから飛び上がるように立ち上がった。そのままクローゼットを乱暴に開き、Tシャツの上に漆黒のライダースジャケットを羽織る。

 血相を変えて階段から駆け下りる息子を、母が目撃したのはその直後だった。


「ひ、炫!? ちょっと、どこに行くのよ!」

「……ちょっと出てくる! すぐ戻るから!」


 その険しい表情を見れば、ただならぬ事態であることは容易に察しがつく。それがわからない母ではない。

 だが真相を問う暇もなく、炫は突き破るように玄関を開けて外へと走り出していった。隣にある車庫に駆け込んだ彼は、愛車「VFR800X」に颯爽と跨る。


 キャンディープロミネンスレッドで塗装された、鋭利なフォルムを持つバイクが――主人を乗せて、摩天楼が並び立つ暗夜の街道を目指して走り始めた。


「なんでだ……! アレクサンダーさん、どうしてッ!」


 フルフェイスのヘルメットに険しい貌を隠して、彼はアスファルトの上を駆け抜けていく。悲痛な声を漏らすその口元は、酷く歪んでいた。


 ◇


 ――それから、約20分。

 夜景に彩られた街道を進む、車の群れの中から……炫は、追い求めた人物を見つけた。青いジャケットを端正に着こなしている、長身の青年である。


「……!」


 摩天楼に囲まれた交差点を、鮮やかなカーブを描いて曲がる一台のバイク。ミラーコートスパークブラックで塗装された車体が、街灯の光を浴びて妖しい輝きを放っていた。

 「カワサキ・NinjaH2」。そのバイクに乗っている青年を追うように、炫もVFR800Xを滑らせた。


 ――すると。炫に気づいたのか、カワサキ・NinjaH2に跨る青年は、一瞬だけ首を横に傾け……進路を変え始めた。


「……」


 その意図を悟るように、炫はスゥッと目を細め追跡していく。やがて青年を乗せたカワサキ・NinjaH2は、伊犂江グループ本社ビル――から、数十メートルほど離れた駐車場へと進入していった。

 そこは車もほとんど停まっていない閑散とした空間であり、都心の一部でありながら静寂に包まれている。二人が駆るバイクのエンジン音だけが、夜空まで響いていた。


 この場にたどり着いた青年は、後方を見遣ると同時に停止し、車体を90度まで旋回させる。それを受け、炫もバイクを停めて青年と顔を向かい合わせた。


 互いにヘルメットで顔を隠していた二人だったが――すぐに彼らは、示し合わせたかの如く、同時に素顔を露わにする。


「……」


 哀しみとも、怒りともつかない炫の表情とは対照的に、青年……こと、アレクサンダーは澄ました面持ちだった。

 諦観にも似た、悟りに近しい貌を目の当たりにして、炫はさらに口元を歪めて歯をくいしばる。


「アレクサンダーさんッ……!」

「……その様子だと、警察に連絡はしていないようだな。君なら、直接私を追ってくる……そう思っていたよ」


 悠然と足を振り上げ、バイクから降り立つアレクサンダー。そんな彼に続くように、炫も愛車から飛び降りた。

 そして、彼は詰め寄るように歩み出す。全ては、あのメールの真意を問いただすために。


「……なんで会長を殺す必要があるんだ。あなたの復讐は、終わったんじゃないのか!?」


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