最終話 白き献花

 ――静けさに包まれた木々と草原。現世を離れた魂が、安らかに眠るためにあるその場所で、黒服に身を包む1人の男が花束を携えていた。

 無数に立ち並ぶ墓標の数々。それらを見遣りながら歩む男は、その中から「Sophia Parnell」の名を見つける。


「――あなたのことは、彼からよく聞かされていましたが。こうしてお会いするのは、初めてになりますね」


 艶やかなブラウンの髪を靡かせ、男は墓標に語り掛ける。穏やかな微笑を浮かべる彼の手には、純白の献花が握られていた。

 男は片膝をつき、その花束を墓標に捧げる。優しげな眼差しで、この下に眠る少女を見下ろし――男は、眼に寂しげな色を滲ませた。


「今日は俺1人ですが……次は、彼らを連れて来ますよ。だからそれまで、もう少しだけ……待っていてください」


 少女の兄と、恋人。いつかその2人が、ここへ足を運ぶ日が来ることを祈り――男は立ち上がる。


(……やはり上層部は、伊犂江グループの関与を握り潰していたようだ)


 そして、踵を返し……哀しげな色を貌に滲ませ、立ち去って行くのだった。


(……パーネル捜査官。俺達の正義は、一体何を守ったのでしょうか)


 少女の死に関わる、一連の事件。その決着を憂う彼が、立ち去った後。この広大な墓地には、完全なる静寂が訪れていた。

 だが、不気味さはない。「DSO」の犠牲となった魂の群れは、悪夢から解き放たれたかのように――今も、静かに眠り続けている。


「……おや。百合の花ですか。……彼女を知る、お優しい方がいらっしゃるのですね」


 ――そして。ブラウンの髪の青年が、立ち去った後。

 彼が花を捧げた墓標の元に、年老いた神父が現れていた。白髭を撫で、慈しむように花束を見下ろす彼は――微笑を浮かべ、静かに十字を切る。


 彼女の御霊が、無事に天上へと旅立っていることを、祈るように。


「……ぁあ、綺麗な花だ。見えるかい、ソフィア。君を愛してくれる人は、こんなにもいるんだよ」


 そう願う神父の眼が、青空を仰ぐ時。頬を撫でるような優しげな風が吹き抜け、白き花々を揺らしていた。


 ◇


「失礼、カプチーノを一つ」

「はい、畏まりました」


 ウッドデッキのある整然とした空間。そこから伺える野外の花々を一瞥し、青年はウェイトレスにコーヒーを注文する。窓の外では、一羽のカラスが珍しいものを見るかのように、青年を凝視していた。


「少々、お待ちください」

「ああ」


 薄茶色の髪をポニーテールに纏めたウェイトレスは、白く瑞々しい肌の持ち主であり、物静かな印象と相まって「深窓の令嬢」という言葉がよく似合う。年齢は、15歳前後のように窺えた。

 外見の幼さとは裏腹な落ち着きを感じさせる、そのウェイトレスの背中を見送り――ブラウンの髪をオールバックにした青年は、その碧い瞳に憂いを帯びる。


 生きていれば・・・・・・、妹もあれくらいの年頃になっていただろうか……と。


(……なら私は、祈るのみだ。あのような幼い子の未来が、途絶えないことを……)


 青年の眼はやがて、窓の外――青空の彼方へと向かう。天上へ導かれた最愛の妹の、幸福な転生を祈るように。


 ――東京都内に位置する、とある森の片隅。その穏やかな自然に囲まれた小さなカフェは、「COFFEE&CAFEアトリ」という看板を掲げていた。

 ウッドデッキや自然風景を重視した景観などが人気を呼び、20年以上続いている「穴場」のカフェとして知られている。

 ……場所がわかりにくいせいもあり、アルバイトが中々集まらないことが経営側の悩みなのだが、その辺りはあまり知られていない。


「お待たせしました、カプチーノです」

「あぁ、ありがとう。君が淹れてくれるコーヒーはいつも、安らいだ気持ちにさせてくれるね」

「いえ……私なんて、まだまだ未熟ですから」


 やがて、ふわりとした笑みを浮かべて、ウェイトレスの少女がカプチーノを運んで来る。それを受け取り、青年も優しげに微笑んだ。

 そんな彼を、ウェイトレスはまじまじと見つめる。


「……」


 平日の昼前であるこの時間帯には、客はあまり来ない。いるとすればここ最近、毎日のように通うこの青年くらいのもの。

 ――彼女としては、それが気掛かりだったのだろう。つい、聞いてしまったのだ。


「……よく、この時間帯に来られますけど……夜の時間帯にお勤めされていらっしゃるのでしょうか」

「……」

「……あ」


 ほぼ顔馴染みに近い関係になったからこそ、不意に口をついて出てしまった。ウェイトレスは言った後に、地雷を踏んでしまったと悟り――彼女にしては珍しく、顔を赤らめる。


「……ご、ごめんなさい」

「いや、いい。実際、仕事が見つからなくてね。焦っても仕方ないから、ここで気を休ませて貰っているんだ」


 自分の不甲斐なさを笑うように、青年は苦笑を浮かべる。彼はカプチーノを手に取ると、再び窓の外に視線を移した。穏やかな風に靡く野花が、その碧い瞳に留まる。


「……ここは、本当に居心地がいい。昔住んでいた、故郷の家を思い出すよ」

「……帰られないのですか?」

「私自身が、捨ててしまったからね。帰る家も居場所も、私は全て捨ててしまった」


 聞いてはいけなかったか――と、ウェイトレスはバツの悪そうな表情を浮かべる。そんな彼女を一瞥する青年は、いつしか妹の面影を重ねるようになっていた。


「……だからこそ、この先の未来に得るものもある。失う痛みを知ったからこそ……守りたいという願いが生まれる。私は、そう信じているよ」

「そう、ですか……」


 カプチーノのカップを見下ろす青年。その横顔を、ウェイトレスは暫し神妙に見つめていた。

 痛みや苦しみに苛まれ、それでもなお前に進もうと足掻く男の横顔。それは優しげでありつつも、言い知れぬ力強さを放っていたのである。


「……ところで。一つ君に伺いたい話があるのだが」

「は、はい」


 そんな彼に、不意に声を掛けられ。ウェイトレスは思わず、上擦った声を漏らしてしまった。そして青年は、たじろぐ彼女を見上げ――新たな道を見出す一言を、告げる。


「このお店、従業員は募集しているかな」


 ◇


 ――2037年7月。

 終業式を明日に控えた五野高は、すでに夏休みムードが濃厚になりつつあった。それに合わせ、生活指導の教師や生徒会も目を光らせるようになり……彼らの注意が、ある1人の少年に向けられるようになっていた。


「全く……浮かれすぎて階段から転げ落ちるとは、なんたる体たらくだ」

「炫って頭は良くても基本ドジだよな」

「契約不履行のバチが当たったんだね。夏休みにはまだ早いんだねっ」

「あぁあもうっ! わかってる! わかってるよっ!」


 飛香炫。彼は、伊犂江優璃の誕生日パーティが開かれていたあの日、自宅の階段から転げ落ちた……ということになっている。彼が体のあちこちに包帯を巻いた姿で登校してきたことで、生活指導は夏休みまでの「締め上げ」を強化するようになっていた。

 そういうこともあり、昼食中に炫は信太達からお小言を頂いているのである。……この頃には当然のように、炫達の集まりに大雅が居座るようになっていた。


「ねぇ……ほんとに痛まない? 大丈夫?」

「飛香さん、もしよろしければ父の会社に掛け合って最新鋭医療器具を……」

「い、いやいやいや、ほんとに大したことないから!」


 一方で、優璃と利佐子は純粋に炫の身を案じて気遣うようになっていた。炫はそんな彼女達の優しさに感謝しつつも、値段が想像もつかない解決策を避け続けている。

 もしそんな高価過ぎるモノを使われたら、恐ろしくて怪我どころではないからだ。


「もう……飛香君も夏休みだから気持ちはわかるけど、もっと気をつけないとダメだよ? ほんとに、打ち所が悪かったら死んじゃうんだからね?」

「そうですよ、飛香さん。あなたの怪我を知った時のお嬢様ときたら、それはもう大変だったのですから。あなたには特に、夏休み中の過ごし方について気をつけて頂かなくては」

「ちょ、ちょっと利佐子っ!」


 あまり掘り返されたくない情報であるらしく、優璃は顔を赤らめ利佐子の口を塞ごうとする。そんな彼女達を一瞥しつつ、炫は窓の外に目を向けた。


「……」


 いつもと変わらない、快晴の青空。真夏の日差しが教室に差し込み、窓際の席を照らしている。

 ――あの日からずっと変わらない、日常の空だ。


 数日前の、アレクサンダーとの戦い。あの肉弾戦の後、彼は炫の前から姿を消した。

 ギルフォード事件に纏わる事情聴取も終わり、バッジも返上した今、彼はもはや何者でもない。ゆえにもはやその身は自由であり、何処に旅立つも思うがままなのだ。


 彼が今、どこで何をしているのかはわからない。連絡先は今も残ってはいるが、あれ以来彼と話せたことはなかった。

 ――否、話す必要がなかったのだ。互いの想いをぶつけ合い、悲しみを吐き出し合った今なら……彼はもう、復讐に堕ちることはないのだから。


「……なぁ、伊犂江さん。一つ、頼みたいことがあるんだけど」

「え? な、なにかな」


 そして、それゆえに。炫も、過去を踏み越えて行かねばと――あることを決めていた。

 赤い顔のまま、利佐子の口を塞ぐ優璃に、炫は穏やかな微笑を向ける。そんな彼の笑顔を目の当たりにして、さらに彼女が紅潮した時。


「……オレさ、『ハピホプ』始めようと思うんだ。また色々、教えてくれる?」


 炫は優しげな笑みと共に、過去を乗り越えていくための一歩を踏み出した。2年前の事件以来、アカウントまで消し去り避け続けていた、あの花園の世界へと。


 ――そして。花を愛する2人の近くでは。水を入れ替えたばかりの百合の花が、陽射しを浴びて純白の煌めきを放っていた。


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