第6話 嵐の前

 あの握手会から数日が経ったが、その間に「アイツ」が姿を現すことはなかった。


 もっとも私のような不人気メンバーにそんなに仕事があるわけもなく、実はあれ以来、私は一度もアイドルとして人前に立っていないのだ。和泉の仮説では「アイツ」は私がアイドルとして振る舞わなくてはならない状況でなければ出てこないため、そういう意味ではここまでのところ和泉の説が当たっているようにも思えた。


 そんななか、いつものようにレッスン場に入ろうとした時、私は後ろからの大きな声に呼び止められた。


「奏、聞いたぞ。例の先生の効果、凄いらしいじゃないか!」


 もちろん声の主は柏木さんだ。


 私は一瞬、彼が何のことを言っているのかとも思ったが、少し考えてすぐに合点がいった。たぶん「アイツ」のことだ。


 しかし、いつかはバレると思ってはいたが、まさかこんなに早く柏木さんの耳に入るとは思っていなかったため私はその時の返し方を考えておらず、ただ慌てることしか出来なかった。


「あっ、いや、それはその・・・」


 私がしどろもどろしていると、熱血漢は私の熱烈なファンが握手会に来た時のような、これでもかという熱量で想いの丈を述べてきた。


「おまえはやればできると思ってたよ!諦めないでその調子で頑張れよ。まだ時間はあるんだからな!」


 急いでいるところだったのか私の返事を待たず、それだけを言い残して柏木さんは嵐のように去っていった。


「おはよう、奏。なんか頑張ったらしいじゃん」


 もう一人、そう言って声を掛けてきたのは上野さんだ。


「あっ、おはようございます。上野さん、その話って誰に聞いたんですか?」


 私は柏木さんに訊けなかった質問を上野さんにぶつけてみた。


「あれ、知らないんだ。この間の握手会のこと、インターネット上でけっこう話題になってるらしいよ。『新田奏、覚醒』って」


 私たちのグループを運営している会社にはインターネット上を行き交う様々な情報に目を光らせている担当者がいて、ネットパトロールと称しメンバーの誰かやグループ全体について、何かしらの情報が意図的に拡散されていないかを常時監視しているというのを聞いたことがある。


 そして必要と判断すれば、その真偽を確認したうえで公式にその情報を否定することもあるし、逆にその情報をプロモーションに利用することもあるみたいだ。情報が氾濫している今の時代、そういったリスク管理も、それを逆手に取ったマーケティング活動も、生き残るためには必要ということか。なんとも世知辛い世の中だ。


 おそらく、そのなかで私の握手会に関する書き込みも拾い上げられ、柏木さんたちに報告されたのだろう。


「さっきそれを聞いて、柏木さんがすごく嬉しそうにしてたよ。もう会った?」


 なるほど。いつもにも増してテンションが高かったのはそういうことだったのか。


「今しがたそこで会って、一方的に熱く語って去っていきました」


 上野さんが思わず笑いながら何度も頷いた。


「柏木さんらしいね。でも本当に嬉しそうだったんだから。この間の面談、無駄にならなかったって。自分のことみたいに喜んでたよ」


 面談は関係ないんだけどな、と思いながらもそうは言えず、とりあえず愛想笑いをしていると、レッスンの開始時間が近づいてきたようで中から私を呼ぶ和泉の声が聞こえてきた。


「あっ、始まっちゃうね。じゃあ今日も頑張りなよ」


 そう言う上野さんの後ろ姿を見送り、私はレッスン場に入っていった。


 結局その日もレッスンが終わるまで「アイツ」が出てくることはなく、終わった後も家に帰るまで、そして夜が更けても現れず、寝るまで私は私のままだった。


 その次の日も私は同じようにレッスン場と家の往復だけだったのだが、やはり「アイツ」にお目にかかることはなく一日が過ぎていった。


 その日の夜、寝る準備をしていると私の携帯電話が鳴った。和泉だ。


「かなちゃん、その後どう?」


「うん、特に変わったことは無いんだよね。なんか、あの日だけの出来事で終わるんじゃないのかなって思うくらい」


 私は和泉と話しながら先日の出来事を思い返していたのだが、少しずつその感覚が薄れていっているからか、段々と自分の記憶の方が信じられなくなってきていた。和泉がいなければ本当に私の夢だったのではないか思うくらい、その出来事は私のなかで過去のものとなりつつあった。


「でも、明日はわからないよ。ほら、番組の収録があるじゃない」


 そうだ。明日は私たちのグループがテレビで持っている唯一のレギュラー番組の収録日で、珍しく私たちアンダーメンバーも参加する企画の収録が行われるのだ。


「和泉が言ってた、アイドルとして振る舞おうとすると出てくるってやつね」


 ちなみに私は、この番組においてほとんどカメラに映してもらったことがない。毎回欠かさずに番組を観てくれているファンの方でも、私が出演したことがあるのを覚えていない人の方が多いのではないか。


 一応、過去に何回か出演したことはあるのだが、そのなかでの数少ない発言シーンはカットされ、映っていたのはひな壇の後ろの方で手を叩いて愛想笑いしている姿だけだったので、視聴者の記憶に私の存在が残らないのは当然の話だ。


 そんな状況でも果たして「アイツ」は出てくるのか。


「もし、かなちゃんが明日の収録でいつもと違う感じだったら、たぶんそういうことだよね。私は事情をわかってるし、そのつもりでフォローできるところはするから安心してね」


 電話越しの声から、その瞬間が訪れるのを和泉は少し楽しみにしているようにも感じられた。それはそうだ。私だって和泉の立場だったら同じように思っただろう。


「ありがとね。でも私に構わず、和泉は和泉で頑張って。アンダーも参加できる企画なんてほとんど無いんだから」


 自分たちのグループの冠番組とはいえ、この番組は毎回スタジオに全メンバーが集まるわけではなく、基本的にはその時々に発売されているシングルの表題曲を歌うメンバー、つまり選抜メンバーの番組というのが実際のところだ。


 そのためアンダーメンバーは番組に出演できること自体が稀で、たまに番組に出演させてもらえる時には肩に力が入ってしまうメンバーが多く、みんな少しでも目立とうと必死であることが嫌というほど伝わってくる。それでも結局ほとんどカットされてしまうのが現実なんだけど・・・。


「うん、お互い頑張ろうね。それじゃ、おやすみ」


 和泉との通話が終わり電話を置いたら、私は何も考えずとにかくすぐ寝ることにした。この今の状況に明日、何かしらの結論が出るかもしれないと思うと、考え始めたらいつまでも眠れなくなってしまうように思ったからだ。


 そして次の日の朝を迎えると、あれよあれよという間に懸案の収録の時間がやってくることとなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る