#09『もう、悲劇を繰り返さない為に』

「あ、灯は消して? その、初めてだから……」



 シーツに包まっているセーラー服の少女がそう言うと、スーツ姿の男は言われた通りにベッドサイドの照明を落とした。

 真っ暗になった部屋。窓から溢れる月明かりが、彼女の赤く染まった顔をほんのりと浮かび上がらせる。

 やがてベッドの上でしばらく見つめあった二人は、互いが互いに食らいつくように唇を重ねあった。



「んんっ……んんんっ……」



 男は口の中で舌を絡ませながら、自分よりも一回りほど小さな身体を押し倒す。

 少女もそれを受け容れるように両手を背中に回すと、頭を上下に揺らしながら激しく唇を擦り合わせる。



「んんっ……んっ……はぁ……キス、しちゃったね」



 唇を離すと、少女はとろけたような上目遣いでこちらを見つめてくる。

 その表情を見て最後のブレーキが外れた男は、上体を起こして上着を脱ぎ捨てると、少女がめくり上げたスカートの中の下着へと手を伸ばし──



「………………なぁ、不知火。無理せずにチャンネルを変えてもいいんだぞ?」


「う、うぅ……」



 ついに気まずさと恥ずかしさが頂点に達してしまった不知火は、顔を真っ赤にしながら泣く泣くテレビのチャンネル変更ボタンへと手を伸ばした。

 それまで男性教師と女子生徒の恋愛ドラマを映していた画面が、深夜のドキュメンタリー番組へと切り替わる。午後10時台とは思えぬ濃厚なラブシーンを先ほどまで妹の隣で見せられていた王太郎は、そこでようやく安堵の息をつくことができた。



(い、今どきの女子中学生の間ではこんな過激なドラマが流行っているのか……いや10年前だが)



 不知火をリビングから連れ出した王太郎は自分の部屋に彼女を招くと、中断されられてしまったテレビ番組を一緒に視聴していた。

 ここなら母の妨害を受ける心配もない。そう善かれと思って自室のテレビを貸し与えた王太郎だったのだが──



『さぁ始まりました“天才のわだち”。本日注目していくのは、歌舞伎子役の古川菊之助くん。弱冠12歳にして“天才女形”とまで呼ばれるようになった彼が、どのような人生を歩んできたのか……? 今回はそんな天才少年の謎に包まれた半生を徹底解剖していきたいと思い──』


「………………」


「………………」



 そもそもドラマの内容そのものがとても兄妹で見れるような代物ではなく、ベッドに腰かけている二人の間に気まずい沈黙が訪れる結果となってしまった。

 いやある意味では、妹を部屋に連れてきて正解だったと言えるかもしれない。あのまま彼女がリビングで視聴を続けていれば、お茶の間は間違いなく凍りついていたことだろう。



「……というかわざわざリビングで見ずとも、初めから自分の部屋で見ていればよかったのでは?」


「でも……私の部屋、テレビない……」


「そ、そうか」



 あれだけ妹を渇望していた王太郎も、いざ本人を目の前にすると緊張のあまり会話が続かなくなってしまう。

 そして不知火のほうもそこまで口数の多いタイプではなかっため、いざ話題を切り出しても数回のキャッチボールですぐ終わってしまっていた。



(思えばオレは、妹のことなど殆ど知らなかったのだったな。こうしてみると、何を話せばよいのか全くわからない……)


「……あ、あの。兄さん」


「なにかね妹よッ!?」



 声をかけられた王太郎は、水を得た魚のごとく振り返った。

 そんな兄のオーバーリアクションに面食らいつつも、不知火はもぞもぞと問いかける。



「き、昨日から眼鏡をかけていませんよね? だからその、もしかしたらコンタクトに変えたのかな……って」


「む?」



 王太郎には一瞬、その質問の意図がまるで理解できなかった。

 が、不知火から指摘を受けたことによりようやくその違和感に気付く。

 まだ小学生の頃から28歳になるまで、ほぼ人生の半分以上ずっとかけ続けていた眼鏡がない──にもかかわらず、その視界はまるで裸眼ではないかのようにハッキリと物が見えているのだった。



(いや、違う。視力が回復しているのか……?)



 信じ難いことだが、そうとしか言いようがない現象が自分の身体に起こっていた。

 少なくとも10年前当時の王太郎は眼鏡をかけていたし、当然ながら視力も相応に悪かったはずである。



(この時代にから、急に視力が良くなった……となるとこれは、タイムリープの副作用のようなものと考えるのが妥当か?)



 何がともあれ、その答えを知っているであろう自称義理の妹と会うまでは考えても仕方ないだろう。

 それに視力が悪化しているならまだしも、前より良くなっているのであればむしろこれはメリットだ。

 現になにも不便さを感じていなかったからこそ、今まで違和感にまったく気付けなかったのだから。



「フッ。よく観察しているな、不知火」


「いえ……ひ、人の顔色ばかり伺ってるって、お母様にもよく言われるから……」



 てっきり王太郎は特技として褒めたつもりだったが、どうやら不知火はそのことを自分の悪い癖などと思い込んでしまっているらしい。

 もちろん、彼女がそうなってしまった原因は他ならぬ母にあった。暴力を振るわれることを恐れる潜在的な本能が、妹を対人恐怖症の子どもに変えてしまったのである。



(……いいや、母だけに責任を押し付けてはダメだな。見て見ぬ振りをしてきた、オレにだって非はあるのだから)



 被害を受けている者にとっては、傍観者もまた加害者と変わりないのだということを。

 そして妹を救えなかったという純然たる結果を、この先10年以上にも渡って後悔し続けることを──王太郎は知っている。


 もう二度と、あんな悲劇は繰り返させない。

 そのように強く決心した彼は、妹の目をまっすぐ見つめて切り出した。



「本当は、家を出て行こうと思っていたのではないか?」


「……! そ、そんなことは……」


「いや、いいんだ。実際に今のこの家の環境は、お前にとって優しいものではないのだから……逃げたいと思うのは当然だ。悪いことじゃあない」


「……?」



 それまで目線を逸らされてしまっていた王太郎だったが、ここでようやく不知火と目を合わせて向き合うことができた。

 彼女をこの部屋に呼んだのも、すべてはこの瞬間のためだった。ゆえに王太郎は、10年間ずっと抱え続けてきた後悔の念を込めて、深々と頭を下げる。

 彼が謝罪のために頭を下げたのは、生まれて初めてだった。



「すまない、我が妹よ……」


「兄さん……?」


「オレのせいなのだ。オレ達が血を分けた兄妹でなければ、こんなに妹を苦しませることだってなかったのだ……オレが、お前の兄でなければ……」



 たしかに王太郎をタイムマシン開発の修羅へと変えてしまった動機は、妹に対して向けられる歪んだ愛情であり──もしくは『この世の全てを手に入れた男』と人々に呼ばれながらも、なぜか一向に満たされない現実への空虚感だったかもしれない。

 しかしその根底は、不知火を苦しめてしまったことへの強い罪悪感情にあった。


 ──もしも不知火が鋼城家などではなく、ごく普通の家庭で生まれ育っていたなら。


 愛読書である妹モノのライトノベルを読み耽っていたのも、心のどこかで王太郎がそのような理想を追い求めていたからである。

 もちろん、そんな兄妹像などあくまで創作物フィクション上でのものでしかないということは、王太郎とて当然理解していた。

 それでも彼は理想へと手を伸ばし続け、その執念はやがて人が手を出してはならない神の領域、“時間への干渉”という未知の分野にまで及んでいったのである。


 すべては王太郎が、“兄”として罪を償うために。

 たとえどれだけの財や犠牲をなげうつことになろうが、構いはしなかった。



考えていた。どうすればヌイを救えたのか……このオレに何ができたのか)



 ……しかも考え始めた時には、すでに何もかもが遅過ぎた。

 どうか妹には才能の優劣や後継者問題とは無縁の、幸せな世界で生きて欲しかった。そう思ったら、もはや時間を巻き戻すくらいしか方法がなかったのだ。



「許してくれなんて言うつもりはない、虫のいい話だってこともわかっている。それでもオレはもう傷付き続けるお前から……そして勇気を出せなかった過去のオレ自身から、決して逃げないと決めた。だから……」



 自分勝手と言われれば、そうだろう。

 今さらだと言われれば、頷かざるを得ない。

 それでも王太郎は嗚咽をどうにか堪えながら、妹を救うためのたった1つの救済手段を口にした。



「オレと一緒に逃げよう、この家から」


「……いま、なんて?」


「家出するんだ。それもなるべく遠く……父さんも母さんも追いかけてこられないような場所へ。そこでアパートでも借りて、二人だけで暮らすんだ」



 

 それこそが不知火を家の呪縛から解放するために、王太郎が導き出した結論だった。

 当然ながらその選択は『いずれ世界の全てを手に入れる』とまで言われた彼が、約束された将来を自ら棒に振るようなものである。それほどまでに重大な決断を持ちかけられ、ただでさえ気弱な不知火が二つ返事で快諾できるはずもなかった。



「わ、私はともかく……兄さんが家出なんて、ダメ……。お父様の後を継ぐ人が、いなくなっちゃう……」


「フッ……どうせコネで社長になったところで、七光りなどと叩かれるのがオチだろう。そんな仮初めの権力など、オレはいらない」



 実際、権力や地位によって手に入ったものの価値など、王太郎にとってはいずれも微々たるものでしかなかったのだから。

 たったいま目の前にいる、もっと大切な存在に比べれば──



「オレはお前が欲しい」


「……ふえっ!?」


「だからヌイはなにも心配しなくていい、全部兄さんに任せろ。お前が望むなら、必ずこの暗闇から救ってみせる……誰にも邪魔などさせるものか」



 妹の両肩に手を置きながら、王太郎は鼻先が触れてしまいそうなくらいに顔を詰め寄らせた。

 あまりの大胆さに面食らってしまった不知火は慌てて身を離すと、申し訳なさそうに再び視線を泳がせながら小声で訊ねてくる。



「ち、ちょっとだけ……考えさせてくれませんか……?」


「ああ……だが、できれば抜け出すのは今夜がいい。日付が変わるまでには答えを決めて欲しい」


「きょ、今日……?」


「少し下の様子を見てくる。部屋からは出ないで待っていてくれ」



 念を押すように不知火へと言い聞かせてから、思いの丈をぶつけて幾らか冷静になった王太郎はベッドから立ち上がる。



(……少し強引過ぎたか?)



 などと反省しつつも、結局こうする他に手段はないので割り切ることにした。

 今はとにかく不知火の身を守り、尚且つなるべく彼女のそばにいることが最優先事項である。


 と、考え事をしながら部屋を出ようとしたとき、ドアの前にお盆が二つほど置かれていることに気付く。

 おそらく霧咲が運んできてくれたであろうそのお盆の上には、温かい夕飯の盛られた皿だけでなく、なぜか銀行口座の通帳が添えられていた。拾い上げて確認すると、やはり名義は霧咲のものとなっている。



彼奴あいつめ……粋なことをしてくれる)



 どうやら先ほどの不知火との会話は、食事を運んできた霧咲にも聞こえてしまっていたらしい。

 きっと彼女はその上で、主人である王太郎の意思を尊重してくれたのだろう。いつも気が利く奴だと思っていたが、今回ばかりは王太郎もほんの少しだけ目頭が熱くなった。



「感謝するぞ、霧咲」



 家出のための軍資金をありがたく頂戴することにした王太郎は、通帳を胸ポケットにしまってから行動を開始した。

 母がリビングで独り晩酌をしているのを確認すると、部屋へ戻った彼は不知火とともに荷造りを始める。そして誰にも気付かれないように細心の注意を払いつつ、ベランダから束ねたシーツを垂らして外へと出た。


 かくして日付が変わり、まだ日の出前のクリスマスイヴ12月24日

 たった二人きりでの逃避行は、人知れず静かに幕を開けたのだった。

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