#20『今宵、誰がために聖夜の鐘は鳴る』

【2021年12月24日】



 鋼城家宅、屋根裏にある一室に夜のとばりが下りている。

 日付ももうすぐ変わろうとしている時刻だったが、下の階から聞こえてくる喧騒にも似た話し声は、相変わらず止む気配がなかった。


 母が落ち着いていられないのも無理はない。

 昨日の夜から兄とその付き人が、通っている学習塾から帰ってこないのである。連絡がつく気配も一向にないらしく、心配して居ても経ってもいられなくなった母はすぐに警察へと捜索願を出していた。



(もし、いなくなったのが兄さんじゃなくて私だったら……お母さんも、ほんのちょっとくらいは心配してくれてたのかな?)



 そんなことを茫然と考えながら、鋼城不知火は勉強机に向かって鉛筆を走らせていた。

 家にいる時間は基本的に誰からも相手にされることがないので、決まって空想の世界へと想いを馳せる。そうしている間だけは、現実であった辛いことも、すべて忘れられるような気がするから──


 不意に窓をノックするような音が聞こえてきたのは、そのときだった。



「……っ。だ、だれ……?」



 思わず肩をびくつかせながらも、すぐそちらに顔を向けた。

 窓から差し込む月明かりを受けて、カーテンの白い布がかすかに揺れている。

 そして月光の中にあったその人影を見るなり、不知火は驚愕に目を見開いた。



「に、兄さん……!? 今までどこに──」


「しっ。母さんにバレるとまずい……とりあえず中に入れてくれるか」


「? は、はいっ……いいです、けど……」



 突然の来訪者──王太郎はさっそく窓の鍵を開けてもらうと、不知火の自室である屋根裏部屋へと靴のまま上がってくる。

 現在行方不明になっているはずの彼は、しばらく何も言わずに部屋の中を見回していた。見たところ怪我をしているような様子もない。



「に、兄さん……何かあったんですか? お母さんも昨晩からずっと心配してて……」


「知っている」


「えっ……だったらどうして……」


「今はそんなことはいいのだ。……それよりも、何かしている最中に邪魔をしてすまなかったな。作文の宿題か?」



 心配は無用だと言わんばかりに王太郎は柔和にゅうわ微笑ほほえむと、その視線を勉強机の上に置かれている原稿用紙へと向ける。

 ただでさえ兄がいきなり部屋に現れて気が動転しているのに、まだ書き途中の拙い文章を彼に見られてしまい、不知火はどうしてよいのかわからず顔を伏せてしまった。



「しょ、小説……です。パソコンがないので、ぜんぶ手書きですけど……」


「なんと! 我が妹ながら凄いではないか。このような才を秘めていたとは、オレも知らなかったぞ」


「誰にも見せたことないですから……だから、その……あ、あんまり見ないでください……」


「? なにも恥じることではあるまい、むしろもっと誇るべきだ。ひょっとしたら将来、ベストセラー作家として名を馳せているかもしれんぞ?」



 まるで本当に未来を見てきたかのように、兄の言葉には一切の迷いがない。

 決して茶化したり冗談を言っているわけでもなく、その眼差まなざしは真摯しんしに不知火のことだけを見つめている。


 奇妙な感覚だった。

 もう自分に対する興味などとっくに失せていると思っていた兄が、とつぜん昔に戻ったかのように暖かく接してくれている。

 その優しさが、今の不知火にとってはさげすまれることよりも恐ろしかった。



「無理ですよ……兄さんと違って、私にそんな才能なんてあるわけない……」


「誰にも見せていないのだろう? ならまだわからんではないか」


「で、でも……」


「……不知火、オレはこう思うのだ。『挑まなかった者に、“才能”なんて言葉を使う資格はない』」



 王太郎の顔付きが変わった。

 彼は不知火に──それ以上に自分自身へと言い聞かせるように、重々しく言葉を紡ぐ。



「不安があるのは当然だ。“何かに挑戦する”というのは、そういうことだからな」


「……に、兄さんにも、そう思うことがあるんですか……?」


「勿論だとも。……いや、本当に不安を感じるようになったのはつい最近だ。それよりも以前は、そもそも挑戦を挑戦とさえ思っていなかったのだろうな……だからあるとき大きな壁にぶち当たって、本物の恐怖と挫折ざせつというものを知った」



 かねてより王太郎は周囲から“天才”と呼ばれ続け、不知火は──そしておそらく王太郎自身も──その言葉が真実であると疑わなかった。

 しかし、現実に“才能”というのは所詮ただの言葉でしかなく、またそんな不明瞭なものを過信してしまうほど愚かなことはない。


 王太郎もまた、そうした誰もがおちいる危険性のある罠にはまってしまった者の一人なのだろう。

 ともすれば平凡とさえ言えるごくたりな悩みを、よりによって兄の口から聞くとは思っておらず、不知火は内心とても驚きながら彼の話を聞いていた。



「だが、おかげでわかったこともある。“才能”という言葉はきっと、他人を羨んだり妬んだりするためでも、挑戦しないことへの言い訳とするためにあるのでもない……未来の『こうでありたいという自分自身』を信じるためのまじないなんだ」



 それは決して現在いまの自分をはかる物差しではないと──路頭ろとうに迷う旅人が、それでも未来に突き進むための“願い”なのだと、王太郎は説いた。



「ヌイ……オレもお前も、“まだ挑んでいない者”だ……才能が有るとも無いとも決まったわけじゃあない。本当に、んだ。そして心の底でこうも思っている──『本当に自分に“才能”があるのか、試したい』と」


「……!」



 自分自身ですら自覚していなかった胸の内を王太郎に言い当てられ、不知火は思わず心拍が上がってしまう。

 自分がどれだけ平凡な人間であるかは、自分自身が一番よく知っている。現に勉強でもスポーツでも努力以上の成果を出せなかったせいで、こうして家族にも見限られてしまっているのだから。


 ──なのに、『このまま終わりたくない』と思っている自分がいるのはなぜ……?


 それは上手くいかない現実からの逃避か、あるいはかつて“才能の壁”に敗れてしまった者の悪足掻わるあがきなのかもしれない。

 それでも不知火は、心の奥底で確かにそう願っていたことを既に自覚してしまった。そして一度でも認識してしまった感情は、止めようにもそう簡単には抑えきれない。



「……こんな私でも、試してみていいんでしょうか……?」


「それは自分で決めるべきだ。他人が口出しできるようなことじゃあない」



 そこまで言いかけて、王太郎はつい失言をしてしまったことを焦ったような顔になると、わざとらしく咳払いを挟んでから言い直した。



「──ないのだが、妹は他人ではないから少しだけ言わせてもらうぞ。オレはヌイに、あるかもしれない才能を試して欲しいと思っている。それは本心だ……だが同時に、お前を才能の旅に送り出すことへの怖さも感じている」


「才能の……旅……?」


「ああ、そしてきっと過酷な旅になる。しかも歩いた先に、どこへ辿り着くかもわからない……もしかしたら望む場所へと繋がっている道が、はじめから存在していないかもしれない」



 努力をしなければ夢を叶えることはできないが、努力したからといって必ずしも苦労が報われるとは限らない。

 それは不知火が14年という人生の中で、嫌というほど目の当たりにしてきた不変不動の真理でもある。だからこそ傷ついた彼女は自分の殻へと閉じこもるようになってしまったし、“何かに挑む”ということをひどく恐れるようにもなった。


 ──自分は持たざる者だ。

 だからこそ、それを持っている者にいさんが怖い。


 その怖さを知っているはずなのに、つい王太郎の言葉に耳を傾けてしまう。



(また、昔みたいに……)



 兄さんなら、自分の背中を押してくれるかもしれない──そう思えたからだ。



「望み通りの場所に辿り着けないことが怖いんじゃあない……その道の果てて、お前が打ち拉がれてしまわないかが怖いんだ」


「兄さん……でも、私は……今までも……」


「わかっているさ……それでもお前が今までずっと頑張ってきたことは、兄であるオレが一番よく知っている、生まれた時からな。たとえ結果に結びつかなかったとしても、オレは絶対にそれを笑ったりはしない」


「……本当、ですか?」


「当たり前だ。妹の成長は最後まで見守る、それが兄というものだろう?」



 今まさに不知火がもっとも欲していた言葉を、王太郎はまるで心を見透かしたようにかけてくれた。

 彼女は今まで、ずっと自分は独りなのだと思い込んでいた──だが、それは間違いなのかもしれない。


 頑張りをみてくれている人がいる。

 自分が感じている恐怖を、同じように背負ってくれる人がいる。

 その事実がわかっただけでも不知火は、どれだけ救われた気持ちになったかわからなかった。



「だから、ヌイ……それでも行くというのなら、“恐怖につ強さ”を持て」


「恐怖に打ち克つ……強さ……?」



 不知火が聞き返すと、王太郎は自信ありげな笑みをたたえて応える。

 


現在いまの弱い自分ではない、未来の強くなった自分を信じるのだ。あとは信じて一歩を踏み出せばいい……その道はきっと、望んだ未来へと続いているのだから。たとえ道半ばで挫けたとしても、その“強さ”があれば何度だって立ち上がれるはずだ」


「未来の、私を……信じる……」


「ああ、そうだ。それでもし上手くいったら、その時は盛大に自分を褒めちぎってやればいい。『私は天才だった』とな!」



 随分と楽しげに語る兄の姿をみて、気づけば不知火の口からも自然と笑みがこぼれていた。

 夢を語るのは、楽しい。

 そう思える感情が自分の中にまだ残っていたことが、不知火にとっては何よりの発見と驚きだった。



「できるか、ヌイ?」


「……うん。今はまだ自信ない……けど、“今じゃない私”だったら、こんな私でも信じられる……かも」



 少なくとも、そのことに気付くきっかけを王太郎は与えてくれた。

 今まで過去うしろばかり向いていた自分でも、そう考えればになれるかもしれない。


 これで恐怖心が完全に拭い去れたかといえば、当然そんなことはない。

 それでも、恐怖に打ち克つ強さを信じたい──今は、そう思うことができた。


 だからこそ不知火は、震えが止まらない唇を必死に動かし、足りない勇気を必死に振り絞る。



「……そっ、それでね、兄さん。今すぐはまだ無理……だけど、この原稿が完成したら……」


「?」


「もし良かったら、ですけど……さ……最初に読んで、くれませんか……?」


「……!」



 妹から兄への頼みごととしては、何てことのない……しかし彼女自身が着実に前へと進むための願いを、不知火は口にした。

 返事を聞くのが怖い。緊張で胸がはちきれそうになる。

 

 しかし次に不知火が顔を上げたとき、幸いなことに王太郎はそれを喜んで受け容れてくれた様子だった。

 彼は妹の決断がよほど嬉しかったのか、いきなり両手を不知火の肩へ置くと、あまりにも大げさな笑顔を浮かべてみせる。



「あ……ああっ、もちろんだとも! 約束しよう。妹の未来への偉大なる第一歩は、兄であるオレが必ず見届けさせてもらうと……!」


「そ、そこまで重く受け止められると……こっ、困ります……」


「…………」


「……兄さん? きゃっ……」



 急に兄からの返事がなくなったかと思えば、彼は唐突にこちらの体を抱き寄せてきた。

 気がつけば髪の匂いをかげるほどの至近距離に王太郎の顔があり、思わず心臓が止まりかけてしまう。


 だが不知火を見つめている彼の顔が、どこか思いつめたような表情をしていることに気付くと──理由のわからない胸の高鳴りも、次第に治っていった。



「兄……さん……?」


「わかっているのだ……本当は、妹に触れる資格などにはない。こんなにも血で汚れた手でお前を抱くことは、世界も神もきっと許さないだろう……」



 『だが……』と王太郎が言葉を続けようとしたとき、ほんの一瞬だけ彼の心臓が高鳴ったのを、不知火は肌越しに感じた。

 王太郎は将来の夢を打ち明ける少年のように、先ほどより少しだけ和らいだ声音で告げる。



「なんの根拠もなしに『自分は天才だ』などと豪語する奴がいてな……そいつを見ていたら、不思議とオレものだ。たとえ理不尽な運命が立ちはだかったとしても、何度でも抗い続ければ、きっと──」



 だがその言葉の続きを、不知火は最後まで聞くことができなかった。

 不意に鋭い電流が全身をほとばしり、まるで電源スイッチを切られた玩具のように一瞬で意識を奪われてしまったからだ。

 そうして不知火がその場に倒れかかった瞬間、王太郎が自らの身を呈してそっと身体を受け止めてくれる。


 ──そのことを知らないまま、不知火の意識はすぐに暗闇へと堕ちていった。













「本当によかったんですか? わざわざこんな手荒な真似をしなくても、理由を聞けば彼女はついて来てくれたかもしれませんよ」


「ふん、ヴァカめ」



 いつの間にか部屋の中へと入ってきていた自称天才娘に対し、王太郎はやや口を尖らせながら応えた。



「仮にもオレは世界を敵に回そうとしている悪党なのだぞ。義妹ぎもうとの貴様ならばともかく、ヌイまで加担させるわけにはいかんだろう」


「それってつまり私になら汚れ役を押し付けても構わないってコトですよね? うえーん、扱いの差がショックでくじらちゃん夜しか眠れませんよう」


「……わざとやっているだろ」


「えへへ、バレました?」



 舌出しウインクをしているくじらのことは無視しつつ、王太郎は気絶している不知火の体をそっと抱き上げる。

 そして風がそよめく窓のほうを振り返ると、その先で夜闇に紛れている機械仕掛けの忠犬──現在は不可視モードにしたうえで屋敷の庭に停めているガトラベル・アインスを見やった。



「うかうかしていると陽が昇ってしまうのでな。さっさとを整えるぞ」


オーキードーキーわかってますとも



 ガトラベル・アインスのコアユニット──その端末であるくじらからの命令コマンドを受諾すると、全長7メートルの巨人はまるで透明のベールをぬぎ払うかのように、月光の下にその姿を晒す。

 この3階建住宅の屋根裏部屋からは、ちょうど顔面を王太郎たちと目線と同じ高さに捉えることができた。物言わぬ単眼モノアイは、赤い光を灯しながらじっと主人の帰りを待っている。



「ヌイ。オレもまだ“挑んでいない者”だ……だからこそ試したい、『本当に世界はオレを中心に回っているのかどうか』を──いいや、お前を救うためにも、オレはそれを証明しなければならない」



 これは、そのための手段。

 理不尽な運命から妹を守るための、たった一つの冴えたやり方なのだ。



「今夜、お前を誘拐する」



 それが悪行だと言うのなら、それでも構わない。

 もとより人間性などあってないような性分だ。悪魔に魂を売り渡す覚悟など、それこそ随分と前からできている。



 12月25日、深夜未明。


 かくして魔王とその共犯者は、人質を連れて方舟へと乗り込んだ。

 刻の秩序を侵す害獣ダイバージェンスキャスト──ガトラベル・アインスが修復の完了した飛行モジュールを作動させ、人知れず星の海を飛翔していく……。

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