#08『ここに、妹の居場所はなかった』

【2021年12月23日(タイムリープから2日目)】


 朝7時に起床し、霧咲の運転する車で単語帳とにらめっこをしながら登校。

 放課後は一旦家に帰って準備をしてから、駅前にある学習塾へと移動。そこで5〜6時間ほど授業を受けるか自習をして過ごし、だいたい午後10時ごろに家へ帰宅。

 遅めの夕食をり、風呂に入り、少し休憩をしたら11時半ごろから自室で勉強を再開。予習と復習をしっかり行ってから、深夜の1時ごろに就寝する……。



 これが当時18歳──すなわち受験生だった王太郎が過ごしていた、平日の大まかなサイクルである。

 流石の彼も10年前の生活を分刻みで覚えていたわけではないが、従者である霧咲がわざわざ表まで作って管理してくれていたため、タイムリープ直後でも把握することは容易だった。

 そこでまず最初の1日はこのスケジュール通りに行動しつつ、当時を思い出しながら過ごすことにしたのだが──



(まったく、なぜ28にもなって今さら赤本なんぞをやらねばならんのだ……!?)



 正直なところ、受験生だった頃の自分の勉強漬け生活をもう一度繰り返すのは実に苦行でしかなかった。

 まだタイムリープをしてから1日しか経っていないにも関わらず、中身がアラサーの王太郎はすでに根を上げそうになってしまう。

 いくら海神グループ社長の座を将来的に継ぐためとはいえ、よくもまあ当時の自分はこんなストイックな生活を毎日続けて耐えられたものだ……と、過去の自分自身に最大級の賛辞を贈りたくなった。


 そうして塾という名の苦難をどうにか乗り越えた王太郎は、迎えにきた霧咲の車で帰路につく。

 車窓越しにひどく懐かしい景色が流れていく。12月下旬ということもあり、駅前のアーケード街はすっかりクリスマスムード一色となっていた。

 ──などと王太郎が物思いにふけっていることがよほど珍しかったのか、運転中の霧咲はやや意外そうに訊ねてくる。



「……いつもは後部座席の真ん中で偉そうに脚を組んでいるのに、今日はやけにしおらしいのですね」


「む、そうか?」


「いえ……ただほんの少しだけ、いつもの坊っちゃんらしくないと思っただけです」


(フッ、さすがは霧咲。鋭い洞察力だ……)



 実際に“今の”王太郎は、霧咲の言うところの“いつもの”とは似て非なる存在であると言えるだろう。


 いくら10年前の体に戻っているとはいえ、その記憶やパーソナリティはあくまで2031年──この時代から見て未来を生きていた王太郎のものだ。

 過去と未来の自分では経験した記憶の累積るいせきが違えば、それによって築かれた価値観もまた異なる。つまり10年という歳月をタイムマシン開発に費やした男の妹に対する執念おもいは、この時点ではまだ存在し得なかったものなのだ。



(そうだ、自分のことで手一杯だった昔のオレとは違う。今のオレは、不知火を10年もの間想い続けた……この世界で唯一ヌイを救える男なんだ)


「それにしたって入浴中の不知火様をのぞきにいくとは、普段の坊っちゃんからは考えられない行動でしたね」


「…………っ!」



 つい先日この眼に焼き付けた光景を思い出してしまい、王太郎はドクドクと血が登ってきた鼻を慌てて押さえる。

 たしかに十数年ぶりに目にした妹の裸体は、まさしくルーヴル美術館で見たミロのヴィーナスの彫像にも匹敵するほどの美しい成長を遂げ──そこまで考えて王太郎は首を横にふり、その先の想像を理性の力でどうにかねじ伏せた。



出歯亀でばかめとはあまり感心いたしませんね」


「う、うるさい」


「しかし、いったいどのような心境の変化ですか? 妹萌えなどリアル妹のいない奴が見がちなありもしない幻想ファンタジーだ〜……などと語っていた坊ちゃんは何処へ行ってしまわれたのでしょう」


「い、いろいろあったのだ……いろいろとな」



 自分が2031年の未来からタイムリープしてきたことについては、未だに霧咲や他の人物にも打ち明けられずにいる。

 この時代にやってきた直後は動揺のあまりカミングアウトしそうになったが、一度冷静になってみると、不必要に時間遡行者タイムトラベラーであることを明かしてしまうのはリスクが大きいことに気付いたのだ。くじらやガトラベル・アインスとも合流できていない以上、とにかく今行動を起こすには情報があまりにも不足している。


 ……そして何より、おそらくは今夜から動き出す。


 確定した時間の流れを変えるためにも、ひとまず今は慎重に動くべきだろう。

 不知火がこれから辿ることになる結末を、回避するためにも──



「あら、王太郎ちゃん! それに霧咲さんも、おかえりなさい」



 午後10時。

 家へと帰宅した王太郎を迎えてくれたのは、数年ぶりに聞いた母親からの挨拶だった。


 鋼城かねしろ冴子さえこ。老いにより増えたしわを厚化粧で覆い隠しているような40代後半くらいのその女性は、当時の海神グループ社長であった鋼城海神の配偶者──王太郎と不知火を産んだ実の母親である。

 海神グループの母体となった“鋼城財団”の出身であり、婿養子むこようしである海神の社長夫人にして当主代行を務める女傑じょけつ。また競走馬のオーナーとしても活躍しており、その手の界隈では名の知れた有名人でもあるらしい。



「ただいま、母さん。帰ってたのか」


「私もちょうどいま帰ってきたところよ。それよりも……」


「?」



 母は妙にニコニコしながらこちらの顔を覗いてきた。

 その意図をすぐに察した王太郎は、鞄から取り出したプリントを母へと手渡す。今日返却されたばかりの全国模試の結果だった。



「まあ、また全国で1位! これなら東大現役合格もきっと確実だわ!」


「そりゃ実際に首席で合格する……あっいや、してみせるつもりだからな」


「ふふっ、ものすごい自信。やはりアナタは海神さんの子ね……」



 母は心底嬉しそうにこちらへ歩み寄ると、王太郎の大きな体をそっと抱きしめてきた。

 加齢によりやや骨の出っ張ったその両手を、蛇のようにねっとりと腰へ回しながら──彼女は耳に息が触れるほどの距離で囁く。



「いいわね、王太郎ちゃん。いつも世界はアナタを中心に回っているわ……だってアナタは海神さんの後継者、いずれ世界の全てを手に入れる息子おとこだもの」


「……ああ、わかってるよ。母さん」



 母親が自分に対し、単なる息子として以上の愛情を向けていることは知っていた。

 それをこころよく思ったことは一度もなかった。……が、彼女が口癖のように語りかけてくる『いずれ世界の全てを手に入れる』という言葉も、当時の王太郎は何の疑いも持たずにただ受け容れるだけだった。


 この10年間、ずっと己に問い続けてきた。

 果たしてオレは母の言うように、本当に全てを手に入れた男になれたのか。

 また何をもって定義すれば、『全て』を手にしたことになるのか……と。



「…………っ」


「あ…………」



 母に抱擁されながらも玄関で立ち尽くしていたそのとき、偶然にも階段を降りてきた不知火と目が合ってしまった。

 もし一般的な家庭であれば、帰ってきた兄に対して『おかえり』の一言くらいは声をかける場面だったかもしれない。しかし不知火は遠慮がちに目を伏せるだけで、そそくさとリビングのほうへと去ってしまうのだった。


 決して昨日の脱衣所で遭遇してしまった件が尾を引いているわけではない。

 こと鋼城家においては、これが日常だった。



「さっ、はやく家に上がりなさい。二人とも、ご飯はもう済ませてきたの?」


「いえ。これから食べるところです」


「ならよかった! 私もまだだから、ちょっと遅いけど食べましょ」



 すぐ側を通り過ぎていった不知火のことなど意にも留めず、母はそしらぬ顔で食事を提案してきた。

 霧咲は快く、王太郎は渋々と頷いてから玄関の土間を上がる。リビングに着くと、不知火がソファに体育座りをしながらテレビを視聴しているのが見えた。どうやら(2021年当時)若い女子たちの間で流行っているドラマのようだ。

 真剣な表情でテレビにかじりついている不知火。そんな彼女の横顔をみて、年頃の女の子らしさを感じた王太郎は思わず頬が緩みかけてしまう。


 チャンネルが唐突に切り替わったのは、その直後だった。



「あっ…………」


「そういえばこの辺でまた不審者が出たらしいわよ。物騒よねぇ……もうニュースになってるかしら?」



 先にテレビを見ていた不知火のことなど無視するかのように、母は手にしたリモコンで勝手にニュース番組に切り替えてしまった。

 これが普通の家族だったなら、楽しみを妨害されてしまった妹は怒鳴り散らしてもおかしくない状況だろう。


 しかし不知火は、母のあまりにも身勝手な行動に対して何も言わなかった。

 ただ何かを諦めたように、誰にも気付かれないくらいの小さなため息を吐く。それだけだった。



「王太郎ちゃん、悪いけどテーブルにお皿を並べてくれないかしら。あとグラスも」


「あ、ああ……」



 母も霧咲も調理中で手が離せないので、手伝いを求められた王太郎はしかたなくそれに応じる。

 だがそこで思わぬ問題に直面した。ただでさえ10年というタイムラグがあることに加え、もともとキッチンの近くにあまり立ち寄らない彼には、食器棚に仕舞われているものの場所などてんでわからなかったのである。



(皿はすぐ見つかったが、普通のグラスなんてどこにもないぞ……? ワイングラスなら大量にあるが……)


「兄さん、こっち」



 と、いつの間にかかたわらに立っていた不知火に小さく声をかけられた。近付いていたことにすら気付かなかった王太郎は内心驚きつつも振り向く。

 見やると、食洗機からグラスを取り出している彼女の姿があった。どうやら食器棚ではなくあちらのほうに入っていたらしい。



「どうぞ」


「あ、ああ……すまな──」



 不知火に差し出されたグラスを、王太郎はややぎこちなく返事をしながら受け取ろうとする。

 ……が、緊張からか指がつっかえてしまい、受け取り損ねた王太郎の手から滑り落ちてしまった。グラスはそのまま直下の床に激突し、バラバラの破片となって二人の足元に飛び散る。



「だ、大丈夫か!? しらぬ……」



 すぐに寄り添おうとした王太郎だったが、横から割り込んできた母親の平手打ちによって遮られた。

 頬を思いっきりぶたれたのは、完全に不注意だった王太郎──ではなく、やはり不知火のほうだった。そのまま床に倒れこんでしまった彼女へと、母はさらに怒気をあらわにして詰め寄っていく。



「なんてことを……王太郎ちゃんが怪我でもしたらどうするのッ!?」


「ご、ごめんなさ……」


「謝って済まないわよッ! 王太郎ちゃんはね、これからの世の中を動かしていく一握りの天才なの。勉強もスポーツもできない、あんたみたいなクズと違ってね……!」



 生まれ持った“才能”の差──それこそが幼少の頃までは良好だった兄妹仲を引き裂いた、最大にして絶対の要因だった。

 なにも不知火の素行が抜きん出て悪かったというわけではない。むしろ彼女は通っている中学でも比較的まじめに授業に取り組んでいるというし、日頃の努力もあって平均以上の成績はキープ出来ているという。


 ただ、それでも彼女は凡才の域からは決して逃れられなかった。

 それが露見し始めたのは、私立中学への受験勉強が本格的に始まった小学校高学年の頃である。あらゆる教育指導を試みたが、彼女の成績はある一定のラインから伸び悩み、ついに第一志望であった進学校への合格も適わなかったのだ。


 何よりも彼女には、比較対象おうたろうがすぐ近くにいた。

 優秀すぎる兄を持つがゆえに、不知火は次第に家族からの信用を失っていってしまったのだ。鋼城家内で彼女が“いないもの”として扱われ始めたのも、ちょうどその頃である。


 この鋼城家に、王太郎と血を分けた“妹”として生まれてしまったこと──

 それこそが不知火にとって、永遠に消えない不幸となってしまったのだ。



「す、すぐに片付けますから……お母様は離れててくださ……きゃっ」


「あんたなんかよりほうきのほうが役に立つわよ! この甲斐性なし! あぁ……まったくもう、なんで私はこんな子を産んでしまったのかしら……」


「ご、ごめんな……さい……」


「うるさいッ、全部あんたのせいよ! いちいち人を伺うような顔ばかりして……イライラするのよ!!」


 ミュージカルの役者よろしくなげき歌いながら、母はやり場のない怒りを何度も何度も、不知火の丸まった背中に蹴り込む。

 この10年前の鋼城家においては、ひどく見慣れた光景。しかし10年後から時を遡ってきた王太郎にとって、これほど胸を痛めつけるものはなかった。



「……母さん、もういいだろ?」


「え? ……ああ、ごめんなさいね。はやくご飯にしたいわよね」



 王太郎に肩を叩かれた母は、まるで何事もなかったかのようにとぼけた顔で振り返る。突然スイッチが切り替わってしまったのかと思うほどの白々しさだった。

 もはや議論する余地もない……そう判断した王太郎は強引に母を押し退けると、床でうずくまっている不知火へとそっと手を差し伸べる。



「立てるか、ヌイ」


「えっ……は、はい」


「それと、怪我はないか? どこか切ったりは……」


「え、えと……大丈夫」


「うむ、それなら良かった」


「……?」



 意外そうに目を見開いているのは、むしろ助けられた不知火のほうだった。

 そして王太郎は不知火と一緒に立ち上がると、その手をぎゅっと繋いだまま霧咲へと声をかける。



「霧咲、すまないが割れたグラスの掃除を頼む」


「はぁ、構いませんが」


「それから、やっぱり食事は部屋でることにしたから、あとで運んできてくれないか。いいか、だぞ」



 念を押すように伝えてから、王太郎は再び不知火のほうを向き直る。

 わけがわからずに戸惑っている彼女の冷たい手を、王太郎は硬く握り締めながら訊いた。


「少し話がしたい。付いてきてくれるか、ヌイ?」


「……うん」



 小さく頷いたのを確認すると、王太郎は絶句している母に背を向けて妹をリビングから連れ出す。

 その眼には定められた運命に是が非でも勝ってみせるという、強い決心と覚悟が灯っていた。


 10年前、12月23日の夜。

 であればこの日は、母親の逆鱗に触れた不知火が家出をしてしまう日──


 そして王太郎が生きている彼女の姿を見た、最後の夜でもあった。

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