FIRST TRAVEL/誘拐殺人事件 その①

#07『そこに、幻ではない彼女がいた』

 彼女いもうととの仲は、特別良いというわけではなかった。


 では険悪だったかというとそういうわけでもなく、名門中学に合格するための受験勉強が始まるまでは至って普通の兄妹仲だった──と、少なくとも男はそのように記憶している。


 では、一体なにが二人を分かつ分岐点ターニングポイントとなってしまったのか?


 その理由はハッキリとしていた。

 時の経過とともに成長していくにつれて、兄のほうが妹への興味を失ってしまったのである。


 かといって、なにも嫌悪の対象だったわけではない。ただ単に彼は妹に対して無関心だった、それだけなのだ。

 なにより当時は勉強で忙しかったこともある。他人の心配をしていられる余裕もないくらい、とにかく自分のことで手一杯だった。


 だからこそ、彼は気付くことができなかった。

 本当に大切なものの存在とは、失ってから気付くものなのだということに──





 目を開けると、知らない天井がそこにあった。


 ……いや、微かにだが見覚えがある。寝起きでまだボーッとしている頭が冴え渡っていくに連れて、記憶もだんだんと明確になっていく。



おぼろげだか覚えている……ここは、東京の実家のリビング……?)


「ようやくお目覚めになりましたか、坊ちゃん」



 不意に意識の外から声をかけられ、驚いたようにそちらを見やる。

 椅子に座りながらブックカバーのついた文庫本を読んでいる、エプロンドレス姿の女性。

 月のように美しい美人ではあるが、その表情はどこか沈鬱で物憂げな雰囲気を感じさせる仏頂面ポーカーフェイス。だが顔にこそ出ないものの、彼女なりに心配してくれているのだということを王太郎は知っている。


 若かりし頃の霧咲ざくろが、そこにはいた。



「……? わたくしの顔に何かついていますか」


「き、霧咲……いまは何年だ?」


「どうやら随分と楽しい夢を見ていたようで。とても内容が気になり──」


「いいから答えろ。今日は西暦何年の何月何日だ?」



 こんな状況で冗談に付き合っている余裕もないため、王太郎は単刀直入に問いただす。

 あとで冷静になって考えれば、わざわざ人に聞くようなことではなかったかもしれない。日付が知りたいならカレンダーや携帯を見ればいいし、それがなければコンビニに入って新聞かおにぎりの消費期限を確認するなど、他にやりようはいくらでもあった。

 しかし王太郎のいつになく真剣な様子から、きっと勘のいい霧咲もなにかを察してくれたのだろう。彼女は渋々ながらも丁寧に答えてくれた。



「2021年の12月22日ですが、それがなにか」


(! 決まりだ、やはりここは10年前の過去……!)



 これまでも脳裏で渦巻いていた疑念が、霧咲の証言をもって確信へと至る。

 王太郎は2031年の時代から、10年という時をさかのぼることに成功していた。

 どうやら未来からやってきた義妹──くじらが語っていた胡散臭い言葉の数々は、まるっきりな嘘というわけでもなかったようである。そしてそれ以上に、今まで各所から非難されながらもタイムマシン開発計画を行い続けた自身へと、最大級の賛辞を贈りたくなった。


 やはりオレが目指した真理は、決して間違いではなかったのだ──と。



「ところで坊ちゃん。ツッコミを我慢するのも疲れてきたので、そろそろこの状況の説明を求めてもよろしいでしょうか」


「あ、ああ……落ち着いて聞いてくれ、霧咲。オレは2031年から──」


「まだ寝ぼけてやがるんですか変態ヤロー。そんな夢の話ではなく、『なぜそのような格好でソファに寝ていたのか』と訊いているのですが」



 なぜかゴミを見ているかのような視線を霧咲から注がれ、そこで王太郎はようやく自分の格好へと意識を向ける。


 気付いた時にはソファに横たわっていた彼は、なぜか衣服類を一切身につけていない状態だった。下半身には上からタオルケットが無造作にかけられていたが、霧咲が用意してくれたのだろうか。

 そして何となく、自分の身体がほんのわずかにだが小さくなっているような気もした。心なしか肌艶も綺麗になっており、まるで10代の頃に若返ったみたいに体も軽い……


 ……と、そこまで考えたところで、王太郎はこの肉体が10年前の自分自身のものであることに気付いた。

 どうやらガトラベルの持つ時間跳躍タイムリープ能力は、未来の記憶を保持したまま過去へと遡るというものらしい。


 なぜ10年前このときの自分が裸のまま寝ていたのか……その理由まではさすがに覚えていなかったが。



「これはだな……そう、ノーパン健康法だ。下着を着用せずに寝ると体によいという情報を小耳にしてな、実際に試していたのだ」


「はあ、どうやらだいぶお疲れが溜まっているようですね。つい1時間ほど前にも幻覚を見ていたようですし」


「ん、幻覚だと?」


「覚えていないのですか? あんなに慌てていたではありませんか」



 そう言って霧咲は当時の最新機種だったスマートフォンを取り出すと、メッセージアプリのチャット画面をこちらに見せてくる。

 1時間前のログを閲覧すると、たしかに王太郎の端末から『オレがいる』『助けてくれ』『殺される』などといった意味不明な文章を受信していた。それも相当焦っていたのか一言一句がかなり小刻みにつづられており、もはや怪文書めいた危うささえ感じられる。



「なんだこれは……ホラーか、ホラー映画なのか」


「それはこちらの台詞です。突然いなくなったかと思えば、いつの間にか先にご帰宅されていましたし。タヌキにでもかされましたか」


「……まあ、そんなところだ。そういえばこちらに来てから、あのタヌキ娘の姿が見えんな」


「?」



 ひょこっと首をかしげている霧咲のことは無視しつつ、王太郎はタイムリープする直前の出来事を思い出す。

 まだ正体すらも定かではない少女は、過去へと跳んで未来を変えて欲しいと言っていた。


 鋼城かねしろ不知火しらぬいが死ぬ結末を、回避せよと──



「……ッ! そうだ、不知火……ヌイは!?」


「坊ちゃん……?」


「不知火だ、オレの妹の! いまはどこにいる……!?」


「は、はあ……不知火様なら先ほど帰られていましたが」


「この家にいるんだな!」



 いきなりの豹変ぶりに霧咲は困惑していたが、そんなことを気にしていられる余裕など今の王太郎にはなかった。

 彼は飛び跳ねたようにソファから起き上がると、この家のどこかにいるという彼女を捜しにリビングを出ていく。それを見た霧咲が慌てた様子でなにかを言っていたが、その声さえも彼の耳には届いていない。



(ヌイ……すべてはお前のために、オレはこの時間へと戻ってきたのだ……)



 階段を全力で駆け上がり、妹が自室として使っていた屋根裏へと向かった。

 天井収納式のハシゴを使って部屋へと入る。そして中を覗くと、残念ながらそこにお目当ての人物はいなかった……が、机の上に学生鞄が置かれているのを王太郎は決して見逃さなかった。

 少なくとも学校から帰ってきていることは確かなようだ。瞬時にそう推理した彼はすぐにハシゴを降りると、今度は妹の行きそうな部屋のドアを片っ端から開け放っていく。



(だから、はやくオレに見せてくれ……幻じゃない、いまここにある現実を生きている……)



 洋室、和室、書斎、王太郎の自室、母親の寝室、トイレ……訪れた部屋を隅々まで捜す王太郎だったが、妹の姿はいまだに発見できない。

 体力にはそこそこ自信のあるほうだったが、ここまで走り回ると流石に息が切れかかってしまう。実家が3階建の一軒家であることを、このときはじめて呪いたくなっていた。

 

 もはやマラソン終盤のごとく限界に陥っている王太郎は、無我夢中のままとある扉の前へと辿りつく。

 そこか何の部屋であるかを確認する余裕もなく、ただわらにもすがるような必死な思いで、彼は目に入ってきたドアノブへと手を伸ばし──



(お前の姿を!)



 ──勢いよく、開け放った。



「あ…………あぁっ……」


「…………え?」



 白昼夢を見ているようだった。

 ドアを開いた向こう側に広がっていた景色は、幻想的な白い霧……いや湯気に包まれた脱衣所。そしてそこに立っていた人物と目が合い、王太郎はつい食い入るようにその姿に魅入ってしまう。


 その容姿の可憐さは千言万語を費やしても表現し得ないが──あえて一言で表すならば、14歳という年齢とは不相応な妖艶ようえんさを漂わせている少女だった。

 どことなく吸血鬼を想わせる色の抜けた肌と、やや目尻のつり上がったまつげの長い目。腰まで届くがらすの色彩を秘めた長髪は、黒いリボンで両側をツーサイドアップに括っている。


 そんな退廃的な美しさを全身にまとっている彼女は、下着を履きかけたポーズのまま、時間が止まったように硬直していた。

 やがてしばらくの沈黙が流れたあと──時の歯車がゆっくりと動き出すにつれて、普段は大人びているその表情も次第に音を立てて崩れていく。


 間違いない。

 王太郎が10年間も求め続けた相手──鋼城かねしろ不知火しらぬいが、そこにいた。



「に……兄、さん……?」


「ヌイ……なのか? ほ、本当に……ヌイなんだな!?」


「え、ええっと……お風呂ならちょっと待ってね。すぐに出てくから……」



 不知火はこちらを直視できない理由でもあるのか、目を逸らしながら急いで服に着替えようとする。


 そういえば、もともと彼女はこういう気弱な性格だった。

 自分に自信がないのか声は小さくどもりがちで、視線も常に泳いでいる。裸を見られても怒らないばかりかにかえって申し訳なさそうにしているのも、そういった人柄の表れだろう。


 そんな一面も、いじらしい。



「聞いてくれ、ヌイ。オレはお前とこうして逢うために、恥も外聞もかなぐり捨ててきた」


「な、何を言ってるの……兄さん。あと、せめて前は隠して……」


「でも、今だからこそ言える。時には道徳や良心さえも切り捨ててきたオレの選択は、決して間違いではなかったのだと……今ヌイがここにいる。オレにはそれが、たまらなく嬉しい」



 『だから……』と言葉を続けようとしたところで、王太郎は感極まるあまり喉が詰まってしまう。

 なので深く一呼吸して心を落ち着かせてから、彼は澄み切った表情で思いの丈を伝えた。



「一緒にお風呂に入るぞ、ヌイ」


「……ひえぇっ!?」


「フッ、恥ずかしがることはない。久々に兄妹水入らずで、心ゆくまでお背中流しあおうではないかッ!」



 もはや恐怖と羞恥で震えがっている不知火に対し、全裸のまま堂々と両手を広げて詰め寄る王太郎。



「そこまでです、坊ちゃん!」



 ──と、そこへ駆けつけた霧咲が、素早い身のこなしで王太郎の背中へと組み付いた。背後から腰に手を回してしっかりホールドすると、そのままブリッジをする要領で相手を真後ろへと反り投げる。

 ボディガードとしての体術訓練を受けている彼女ならではの見事なジャーマンスープレックスが、他ならぬ護衛対象に対して決まった瞬間だった。



「が……は……ッ」



 頭を強く打ちつけてしまい、ふっと意識が遠のいていくような感覚に陥る。

 妹が心配そうにこちらを覗き込んでいるのが見えると、それで安心しきった王太郎は、そのままゆっくりと瞼の裏側の世界へと堕ちていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る