#10『そして、二人が逃げたその先で』

『鋼城不知火の身柄を預かっている。彼女を返して欲しければ、すぐに現金1億円を用意しろ』



 そのような電話が家にかかってきたのは、妹が失踪してから2日後──クリスマスの朝だった。

 父も母もその連絡を聞いたとき、心配したり不安を抱くよりもまず驚きの反応を示していた。なにせ彼らは妹が2日前から家出をしたまま帰ってこないにも関わらず、警察に捜索届けすらも出していなかったのである。

 娘への無関心さが、結果として事件発覚の遅れを招いてしまう原因となったのは、なんとも皮肉な話であった。


 事件発生からさらに3日後、同月28日。

 再び電話が入り、現金の受け渡し場所が指定される。さらに犯人は警察への連絡はするなと警告した他、受け渡し人は被害者の父親──鋼城かねしろ海神わだつみであることを条件とした。

 これに対し海神わだつみら鋼城家は要求を呑みつつも、密かに事件を警察へと通報。すぐさま設置された捜査本部と連携し、各報道機関に規制を敷きながらも事件の対処に当たる。


 しかし受け渡し当日。言われたとおり海神は現金の入ったジュラルミンケースを持って指定された場所へと赴いたものの、警察の気配を察したのか犯人は一向に姿を現わすことなく、取引は頓挫してしまう。

 そして受け渡し失敗から数時間後。


 『娘は殺した』


 というメッセージを最後に犯人からの連絡は途絶え、ついに誘拐された妹は帰ってこなかった。


 次にが目撃されたのは、それから数日後──2021年12月31日。

 奇しくも大晦日であったその日の早朝。河川敷でランニングをしていた一般人が、たまたま倒れている少女を見かけたため近付いて声をかけたところ、すでに生き絶えていることが判明した。彼女は死体だった。


 格好は家出する直前と変わらず中学校のセーラー服。着替えはしておらず、発見された時にはすでにボロボロの状態だったらしい。

 下着類には男性のものと思われる体液が付着しており、そこから採取されたDNA鑑定の結果は、のちの容疑者逮捕に繋がる決め手ともなるのだが……そんなことは、当時妹に対して無関心だった兄にとって最早どうでもよかった。


 ただ、気がかりだったことが1つ。


 ──果たして妹はなにを考え、なにを思いながら最期のときを迎えたのだろう?


 王太郎は最初、その自問自答に対する答えが本気でわからなかった。

 なのでまず彼は、現場の状況を踏まえながら想像してみることにしたのである。それから彼がかつてない程の吐き気を催してしまうまで、そう長く時間はかからなかった。


 そうして1つ1つ事象を照らし合わせながら妹の心情を推測していくうちに、王太郎の中である1つの疑惑が浮かび上がる。


 自分は本当に、鋼城不知火にとって“兄”だったのか──と。


 少なくとも血縁上においては間違いなく兄妹だろう。

 だが彼女が本当に助けを必要としていたとき、王太郎はそのSOSに応じるどころか、気付くことさえもできなかった。仮にも名家の長男ともあろう自分が、そのような体たらくで本当によかったのだろうか。


 ……いや、思い返せば彼を取り巻く家庭環境そのものが、世間で言うところの一般的な家庭とは程遠いものだった。

 常に家を空けていてほとんど家に帰らない父と、その彼との間にできた息子こそが世界を統べる者だという盲信を抱く母。そして──妹が死んでしまうまで、彼女になんの興味も抱いていなかったじぶん

 そんな環境が普通ではないことなど、側から見れば一目瞭然だったかもしれない。しかしその歪みの中心に身を置いていた王太郎にとっては、それこそが正しい日常の在り方であり、世界の全てだったのである。


 どう見積もっても王太郎は、死んでしまった不知火の兄を全くやれていなかった。

 それは彼が『もしも自分がもっといれば、この結末を回避することもできたのではないか』という、もはや取り返しのつかない事実をようやく自覚したことを意味していた。





「に、兄さん」


「ん……」


「お、起きてください。そろそろ上映が終わりそうなので」



 小さく肩を揺さぶられ、深淵に沈んでいた少年の意識はようやく現実世界への回帰を果たした。

 まだ重いまぶたをゆっくりとこじ開けると、真っ黒い空間が網膜へと飛び込んでくる。

 しばらくして目が暗闇に慣れてくると、次第にこちらを覗き込んでいる妹の顔がはっきりと見えてきた。



「ヌイ……なのか……」


「だ、大丈夫ですか? なんだかうなされていたみたいですけど……」


「あ、ああ……少し、悪い夢を見ていたようだ」



 本当に、どうしようもない現実あくむだった。

 それこそ10年後から遡ってきた王太郎にとっては、むしろたったいま目の前に広がっている光景のほうが夢なのではないかという心地でさえある。



「……不知火は、ずっと起きてたのか」


「う、うん。最初は寝ていたので途中からでしたけど……でも、映画はすごく面白かったんですよ? 最後は少し悲しかったけど、とてもロマンチックなお話で」


「フッ、そうか……それはよかった」



 2021年、12月24日から25日にかけての深夜。

 昨日の晩に夜逃げを決行した二人は、東京から遠く離れた下町の映画館で夜をやり過ごしていた。

 70年代さながらのレトロなおもむきのあるそこでは、今時珍しいオールナイト上映が行われていた。なんでもクリスマスにちなんだ作品を集めた上映プログラムが組まれているらしい。

 はなから寝床として利用しようと思っていた王太郎にはさして興味のない話ではあったのだが、不知火が喜んでくれたのなら結果オーライと言えるだろう。


 もっとも、自分たち以上に不健全な利用の仕方をしている輩も多かった点については、王太郎も閉口せざるを得なかったのではあるが。



「……か、カップルのお客さん、多いですね」


「世間はイブだからな……おっと見てはダメだ。はやく出てしまおう」



 おそらくホテルが満室で溢れてしまったのであろう野蛮人どもを尻目に、王太郎は不知火の手を引いてシアタールームを後にしていく。

 外へ出ると、太陽はまだ登っておらず暗闇が辺りを支配していた。土曜日ということもあって通勤や通学をしている者は少なく、しんと冷え切ったような冬の空気が駅前の歓楽街を満たしている。


 そんな片田舎の街しらないまちの大通りを、不知火を連れた王太郎は駅方面に向かって歩いていた。

 行く宛など決めていない。ただ逃げて、逃げ延びて──とにかく不知火が生きてくれさえいてくれればそれでよかった。



(不知火は何も言わない。ただ黙ってオレについてきてくれている……だが、本当にこれでいいのか?)



 早朝のホームで電車を待ちながら、沈黙に耐えかねた王太郎はふと疑心暗鬼に陥ってしまう。

 少なくとも自分が側にいることで、『鋼城不知火が死ぬ運命を回避する』という最大の目標は達成することができる。しかしそれだけで、妹の抱えている不安や闇までも晴らせたことにはならないだろう。


 もしかしたら彼女はただ自分に付き従ってくれているだけで、決して“兄としての王太郎”を頼ってくれているわけではないのではないか──そんなことを考え始めてしまったのだ。



「もうすぐ電車が来るそうですよ」


「ん? あ、ああ……」



 果ての見えない思考の宇宙へと旅立とうとしていた王太郎を、傍らに立つ不知火がすんでのところで引き止めた。

 どこか心ここに在らずといった様子の兄に対し、彼女はやや不思議そうに訊ねる。



「? 兄さん、どうかしましたか?」


「いや、気にするな。少し考え事をしていただけだ」


「……もしかして、私とどう接すればいいのかわからないとか……そういうことですか」


「……!」



 図星だった。

 胸の内を言い当てられてしまった王太郎はつい口を塞いでしまうが、そんな彼に不知火はやや自重気味な笑みをこぼしながら続ける。



「大丈夫です。私も、一緒ですから」



 思いがけず王太郎は妹の顔を見返したが、不知火には気恥ずかしそうに視線をそらされてしまった。

 唇をわなわなと震わせながら、それでも彼女は必死に言葉を紡ごうとする。



「ち、違うんですっ。別に兄さんを信用していないとか、そういうんじゃなくてぇ……」


「……フフッ。こんなオレを、まだ兄と呼んでくれるのか」


「えっ……」



 今度は不知火のほうが意外そうに兄の顔を見やった。

 王太郎はその視線から逃れるように顔をそっぽに向けてしまう。それは彼の自信のなさの表れでもあった。



「もしオレが兄などでなければ、きっとお前をあんなに追い詰めることもなかっただろう……」


「兄……さん……?」


「鋼城家の人間として、オレの妹として生まれてしまったことを……本当は、恨んでいるのではないか……?」



 今まで心の奥底でずっと思っていた──けれど本人に対してはどうしても訊ねられなかったことを、ここにきて王太郎はようやく切り出した。

 普段の冷静沈着かつ自信家な彼であれば、こんな弱音のようなセリフを吐き出すこともなかっただろう。だが、10年ぶりにようやく妹と再会できたことによる感傷が、突発的に彼をセンチメンタルな気分へと浸らせてしまっていたのである。



「……よく、わからないです。兄さんもお母様も、私になんか興味ないんだって、ずっと思ってましたから……ちょっとだけ、寂しくはありましたけど……」



 弱々しく呟かれた不知火の言葉が、王太郎の胸に痛いほど突き刺さる。

 “好き”の反対は“嫌い”ではなく“無関心”などと言われることがあるが、鋼城家の不知火に対する対応はまさにそれだった。

 存在しないものとして扱われていた彼女は、(何か問題を起こした場合を除いて)責められることも咎められるようなこともなかった。


 きっと王太郎が同じ立場なら、恨むことさえ馬鹿らしくなっていたかもしれない。それほどに親や兄からしつけの意味合いで怒られることすらもない家庭環境は、かえって彼女の孤独を深めていってしまったのである。



「でも、あの日。“ヌイ”って久しぶりに呼んでもらえたとき……昔の、私に優しくしてくれた頃の兄さんに、戻ってくれたような気がして……少し、嬉しかった」


「っ……」


「だから、私も……ちょっとずつでもいいから、また昔みたいに兄さんにも心を開いていきたいって……そう、思ったんです」


「……どうして?」


「私も……兄さんともう一度、兄妹になりたかったから」



 電車が到着し、冷たい突風がホームに立つ二人の間を吹き抜ける。

 そのとき──それまで強張っていた不知火の表情が、ほんの少しだけ緩んだのを、王太郎は決して見逃さなかった。


 彼女が言っているのは、おそらく王太郎がタイムリープしてきた日のことだろう。実際、10年前当時それまでの彼と妹の仲はすでに冷めきっており、小さい頃の“ヌイ”という呼び名もまったく使っていなかった。


 その呼び名を使わなくなったことさえ、自分は今まで気にしたことすらもなかったのに──

 不知火はそのことを覚えていただけでなく、久々に呼ばれて嬉しいとさえ言ってくれた。



(……そうか、そうだったな)



 胸の内を明かしてくれた妹のおかげで、王太郎は当たり前の事実にようやく気付く。


 

、それ自体が“絆”なのだ。疑心暗鬼に陥る必要など、初めからなかったのだな)



 別に妹が兄を信じることに、理屈や打算など必要ない。同じ血を分けた兄弟であること──ただそれだけで、決して途切れない強固な絆が結ばれているのだ。

 どこまで行っても他人になれない存在同士であるなら、信頼しあえるほどの良好な関係を築いたほうが絶対にいい。王太郎も不知火も、その点においては同じ方向を向いていた。



「心配するな、ヌイ。


「兄さん……」


「だから、行こう。お前がなにに怯えることもなく、安心して暮らせる場所──ここじゃない何処どこかに」


「……うん!」



 王太郎がそう言って微笑みかけると、不知火はここに来てようやく心の底から安堵したように笑顔を見せて頷いた。

 彼らはそのままガラガラの電車に乗り込むと、二人並んで席に座る。まだ早朝で空調が作動したばかりの車両内は少しだけ肌寒かったが、それでも隣にいる妹のぬくもりのおかげで、不思議と辛くはなかった。



 ──これでもう、大丈夫なはずだ。



 向かい側の車窓越しに流れていく景色を呆然と眺めながら、王太郎は心の中でそのような確信を抱いた。


 本来の歴史を辿った10年前の王太郎であれば、これほどまで妹の心に歩み寄ることなど出来なかったであろう。

 だが、今は……10年という時を経てきた今の王太郎は、こんなにも彼女との距離を縮めることに成功している。


 辿る運命レールは、確実に変わっている。

 ならば行き着く終点ゴールも、きっと──






 だが突然、鼓膜をつんざくほどの轟音ごうおんが全身を殴りつける。

 そして次の瞬間、王太郎の眼に映る世界が文字通りした。


 景色を映していたガラスが一斉に砕け散り、巻き上がった土煙が視界を一瞬にして奪う。

 次に視界が晴れたとき、王太郎は90度ほど傾いた車両の中にいた。彼から見て右手にある天井はえぐられたように大穴が空いており、その外縁をなぞるように炭化して煙を上げている。

 それが遠距離から放たれたビームの直撃によるものだと、このときの王太郎が瞬時に理解できるはずもなかった。



(な、なにが起きた……だ、脱線事故……? ……っ!?)



 背中を強く打ちつけた痛みが遅れて到来し、そこで王太郎もようやく我に返る。

 目の前に大穴が空いているその場所は、まさに先ほどまで王太郎が座っていた地点のすぐ近くだった。どうやら爆発と転倒の衝撃で、車両の端のほうまで吹き飛ばされてしまったらしい。


 そして自分の目にしている光景の意味に気づいた途端、一気に背筋が凍りつくような感覚を覚えた。



「……ハッ、ヌイ……? ヌイは……!?」



 全身の痛みを堪えながら、ふらふらとした足取りで駆け出す。

 穴を挟んで通路の向こう側──不知火がさっきまでいたその場所には、鉄とガラスの破片が滝のように落ちていた。

 その下に見慣れた制服姿を見つけて、王太郎は凝然ぎょうぜんと立ち尽くしてしまう。



「あ…………うあぁ……っ」



 すでに動かなくなった妹のカラダは、

 開ききった瞳孔。池のような血だまり。ありえない方向に折れ曲がった腕。

 皮膚はズタズタに切り裂かれ、肉体からえぐり取られた血肉が周りに散らばっている。


 不知火は、死体となってそこに倒れていた。



「うわあああああああああああああああああああああああああああっ!!」



 焼け焦げた車両の中心で、王太郎は獣のように吠えた。

 床にへたり込んだまま、呆然と天を見上げる。そこには白い外装に身を包んだ機械仕掛けの巨人もう一機のガトラベルが、殺戮の天使となって線路上へと降り立ってきていた。

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