第5話 聖痕
「ちっ、なんで俺まで贄に……っつーかもともとこのガキが悪いんじゃね? 俺の時間になるまで昼寝してたビルの前に変な男連れ込むから。殺してえけどでも弱いものいじめは俺の道理に反する。あーっ、どうすんだよ! てめえもちったあ考えろガキ!」
「わたし……ガキじゃない」
「は?」
「わたし、19歳だよ……」
「はっあああああああああ!?」
無表情のまま呟いたひつぎにのけぞらんばかりに背をしならせ声を張り上げるブレイク。片手で持っている変わった形の斧ががしゃんとアスファルトに落ちた。しばらくアスファルトとぶつかった金属の音が響き渡る中、暫時。ひつぎは小首をかしげて言った。
「……冗談。本当は10歳」
「挙句にゃぶち殺すぞこのクソガキ」
「……!! 殺してくれるの!」
「あー、そうだよこいつなんか殺そうとすると喜ぶんだったよ!!」
額にかかって右目に巻かれた黒い包帯で見えないが、間違いなく青筋を浮かべているブレイクに対して「殺してくれるのか」と頬を少し緩ませて問うひつぎとの会話のとれなさ加減に苛立つのはブレイクだけだった。
一方ひつぎは尻もちをついた状況から立ち上がりブレイクの側まで行くと、地面に落ちていた斧のグリップの部分を持ち上げ……ようとしたが、重たすぎたため持ち上がらなかった。ここは非力な10歳の少女の筋力を考えてほしい。
再びごとんとアスファルトに着地する斧。少し浮かせられただけでもすごいと思ってほしいとひつぎは思った。だが、その光景を見ていたブレイクは屈んで片手で斧を持ち上げ再び立ち斧を肩に担ぐと不思議そうにひつぎに聞く。
「そんなに死にたきゃさっさとビルの上からでも飛び降りりゃいいだろーが」
「だめ。人が下敷きになってわたしだけ助かる」
「はっ! んなのわかんねーじゃ」
「やったこと、ないと思った?」
「……」
この不気味なほどに死にたがっている少女が自殺を試していないとでもいうのか。いや、答えは否だろう。試して試して、それでも死ねなかったからこうして人に頼んでいるのかもしれない。だが。
「ここは『神の作った箱庭』だぜ? 殺人鬼と贄以外はみーんなモブだ。いまならいけんじゃねーの?」
「だめ。この聖痕がある限り、怪異も人も……みんながわたしを助けて、それで自分が死んでも「あなたが無事でよかった」っていうだけ。全部全部、この聖痕のせい。これのせいでわたしは6年間、1度も死ねなかった」
「せいこん?」
「……このあざのこと。そうお母さんは呼んでた。わたしたちはそういう一族なのよって」
……屈んで。小さな声で言われて、なんだかなあと思いつつも屈むとそんなブレイクの目の前で。ひつぎはばさりとぶかぶかなジャージの前を大きく広げて、自分の右太ももの辺りに手をかけるとゆっくりと細いとはいえわずかに肉のついたそこを持ち上げる。すると、右太ももの内股のところの肉が前に現れる。そこには。
十字架、ロザリオなんでもいい。ただの切り傷ではなく確かにあざと呼べる内出血に相応しいのに形は無象のそれでは決してない。明らかに装飾の跡すら見られる十字架。神を信仰しているのならば、これを聖痕と呼ぶのもおかしくはないと思えた。
「……触ると痛ぇの?」
「……ううん、別に。でも、くすぐったい。それに」
「だろうな。それに?」
「いまは神さまが……自殺はいけないとおっしゃったから」
「……はっ! あの狂った神のこと信じてるのかよ! 馬鹿らしいなあおい!」
ぎゃははははと屈んだまま下品な声でアスファルトに向かって笑うブレイクに、ひつぎは淡々とした無表情で返す。別にいいのだ、誰に笑われようとも。ひつぎを贄に、殺してくれることを選んでくださった方なのだから、その感謝の念はひつぎだけが持っていればいい。
どこか悪意を含まない無邪気とすら言える笑い声はだんだん小さくなっていき。表情を変えずに右太ももを掴んでいた手を離して、ジャージを淡々と整えるひつぎを気味悪そうに案外多彩な瞳で物申すと、ブレイクは立ち上がる。
「ま、いいんじゃねえの? なに信じようが勝手だしな」
「……意外。笑ってたから、神さまだけはやめろっていうのかと思った」
「はっあー? 別にお前がなにを信仰してても『弱いもの』には変わりねぇだろうが、ばーか」
だから別に神を信仰したいならそうすればいいとブレイクは黒いマスクに人差し指をひっかけて下げるとにたりと笑った。ひつぎじゃなかったらちょっと引いてしまうくらいゲスい笑顔だった。ある意味言ったことはいいことなのに、その笑顔のせいで損をしているんじゃないかなと思うほどに。
なんとなく俯いてたひつぎは、それになあと続いた言葉に顔をあげ左目を大きく見開く。
「前の贄が言ってたけどよお、俺たちから逃げきれたら『なんでも願いが叶う聖杯』とかいう嘘くせえもん貰えんだろ? だったらそれで死ねばいいんじゃね? それでも無理そうならせいこん? 消してほしいとかよお」
あ、俺も贄に認定されたんだから使える権利あんのか? 引っ張り下げたマスクを元に戻しながら前を見据えるブレイクの言葉に、ひつぎは光明が見えたようだった。
藁にも縋る思い、細い希望の糸をたぐり寄せるみたいにブレイクの腰あたりの黒いジャージの裾を引いた。それに、ああん? とガラ悪くも振り返ったブレイクに、ほんのりと唇を持ち上げて笑みというにははかなく無表情というには動きすぎた表情で、ひつぎは。
「あ……あり、がとう。そうだね、聖杯、取れるようにわたしがんばるね」
「お? おお、なんかいきなりやる気出したなてめえ」
「ブレイクは……? ブレイクはなにお願いするの?」
「あー……そうだなあ。人間殺しても裁かれねえ権利とかか?」
「……うん、『っぽい』ね」
人間を殺さないように衝動を抑えるものとかではなくて、人間を殺しても裁かれない。つまり殺人の免罪符をよこせと言っているのに等しい。人を創った神に対してあまりに不遜な願いでもひつぎの絶望の中に一本の糸をたらしてくれたこの殺人鬼が願うのにはふさわしい気がしてひつぎはただあまり動かさない表情筋を駆使してふふっと声に出して、小さく笑ったのだった。
そのかすかな声に振り返ったブレイクがわずかな笑みに黒い包帯に覆われていない左目を丸くしていたのも気づかずに。
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