終章 《箱舟の里 ~Arkham~ 》
わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟につれて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。
――『聖書(新共同訳) 創世記 6章 18~19節』
どれほど時間がたっただろうか。
またたきほどの間のような気もするし、もはや記憶にも残らないほど永劫の時をへた気もする。
気がつくと、明るく熱く、体を
代わりに、黒くやさしいものにふうわり
目がみえる。
黒く焼かれ潰れしぼんだ目がみえる。
ものが見えるほど、澄んだみずみずしさを取り戻している。
――ああ。
――『
黒くよごれて
自分を抱いていたのは、あの『
黒い石のおすがたが、見上げるほどに
黒いヴェールにつつまれた顔に、とろけるように優しい笑みを浮かべていた。
黒い衣につつまれた腕をおおきく広げ、わたしをすっぽり包みこんでいた。
そうしてようやく、自分もまた、なにかを腕に抱いているのに気がついた。
小さく白くまるいそれは、かすかに、たしかに息づいていた。
――ああ、よかった。
――ずっと一緒にいられたのね。約束したとおりに。
手でそっとなでると、小さなものは、ころころと輝いた。
顔に風が吹きつける。
『
まるで馬車に乗っているようだ。
いや、本当に、車にのっているようだった。かすかで
どんな車なのだろう。こんなに速く、揺れずに走る車など。
一度だけ乗ったことのある馬車は、進むよりもがたがた揺れるほうが多かったというのに。
天使さまの車なのかしら。
預言者さまが幻視したという、翼ある天の車なのかしら。
ありえるはずもない、そんなことを夢見てみた。
と、進みがとまる。風がやむ。
降り立った目の前には、
――あれは。
見忘れようもない、あの呪わしい
しかし、もうすこしで見まごうところだったほどに。
なんと変わり果てたことだろうか。
景色はどうも夜だというのに、埋葬地は、カンテラよりもたいまつよりも、はるかに明るい、白い光に、
道はきれいな石でおおわれ、不気味にはびこっていた草木はきれいに刈りそろえられている。
墓石は、さいごに見たときより苔むしていたが、ひびやこぼれは修理されているようだった。
ふと、目をやった。そこに、ただ一つ、ひびの直されていない墓がうずくまっていた。
その前に若い男が二人、何やらのたうちまわっている。
見慣れぬ、粗雑な服装だったが、卑しさは感じなかった。恐ろしさも感じなかった。
――これなら、村の人びとのほうが、ずっと荒れて怖ろしかった。
二人の男は、なにかに絡みつかれ、組みつかれてのたうっていた。
そのぐにゃぐにゃした、煙のように半透明のなにものかは、鳴き声を。
いや、泣き声をあげながら、のたうっていた。
――ふぅおぉぉぉぉぉ
――ふぅもぉぉぉぉぉ
――あなたは。
駆け寄った。
黒い『
ぐにゃぐにゃしたなにものかは、形のさだまらない姿で、こちらを見た。
あの
けものとも人ともつかない
そんな
コーデリアは近寄り、抱きしめた。
――良かった。
――本当に良かった。
――また会えたわね。
そのものの、もう片方の瞳は、死んだけもののようなうつろな空虚をうかべていたが。
やがて、かすかに光がともった。
その光がしだいに大きく、やわらかくなってゆき。
――まあぁぁぁ!
――まあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
母をうしない、理性をうしない、肉体をうしない、形すらうしなっていたものは。
幼いころにもどって、泣き叫んだ。
コーデリアは、それをずっと抱きしめていた。
黒い『
「……なあ」
「なんだ」
「なんだったんだ、ありゃ」
「わからん」
車に戻り、そのままさっきまでのように
万が一を考えて確かめに、埋葬地にふみこんだら、ひびの入ったふるい墓石から大きな音がした。
生き物の悲鳴にそっくりな、するどい、ぞっとするような音だった。
続いて、臭いが噴き出してきた。動物の死体のような、なんともいやな気配をまとった臭気だった。
それから……次が最悪だった。墓石から、なにか、霧のようなものが噴き出してきたのだ。
半透明で、ふわふわして、捉えどころのないそれは、なのに、ねばねばした、ぶよぶよした、生気のない手触りをもっていたのだ。
そいつにまとわりつかれ、なぜか堅いもので踏みつけられたような衝撃と痛みとが体にはしって……。
ふと気がつくと、二人して、
全身がずきずきいたんだが、それ以上にひどいことにはなっていないようだった。
体をひきずりながら、呆然としながら車にもどった。エンジンをかけ、何事もなかったように、ミスカトニック大学へむけて車を発進させた。
何事もなかったように、努めながら。
「あれの仕業かな」
「何だよ、あれって」
「言っただろ。あの
人ともけだものともつかない、生き物とも……その、幻ともつかない……」
「なるほど、な。幻ともつかないだけあって、実害をおよぼしてくれるってわけか」
呆然とした顔にむりに皮肉の笑いを浮かべながら、ルークはこっちを向いた。
その右の
ふと見ると、ルークのシートの端に、なにか黒いものが引っかかっている。
あの
「
「ああ」
「……守ってくれたのかな。その、あの、あれから」
「……わからんよ」
それきり、二人とも黙りこくってしまった。
やがて、車のゆく先に、大きな門が見えてくる。
正門の上には、『ミスカトニック大学』の文字が堂々とならんでいた。
『ミスカトニック大学』
できたんだ。本当にできたんだ。
ギデオンさんの夢物語じゃなかったのか。あの荒れ地に、この小さな集落に、この新大陸のちいさな村に。
このアーカムの地に、こんなにとうとい建物が。
何とはなしに、目が熱くなった。
村の暮らしで自分の苦痛をもたらしてきたものすべてが、撥ねつけられ、取り去られたような気になってきたのだ。
目から流れるものを、胸に抱いていたものが吸ってくれた。傍らに、四つ足でたつ片目のものが長い舌で舐めてくれた。
――コーデリア。
黒い『
――あなたを、あなたの魂を縛るものはもうなくなったようですね。
問いかけに、ただうなずいた。
――もうこれでよい頃でしょう。あなたと、この子らとをつれて、暗いやすらぎの中へゆきましょう。
ただうなずくコーデリアを、『
――わたしは全てを認めます。
――全ての者を抱きます。
――この大地に生きて死ぬもの。
――天のかなたの星々に、おなじく生きて死ぬものを。
――生まれなかったこの小さな子も、けものと人との間にうまれたこの大きな子も。
――あなたを害したものたちも、あなたを殺したものたちも。
――あなたを運んだ、この男たちも。
――かつて
――もちろんあなたも、コーデリア。
――全てのものを愛しましょう。
――全てのものを孕みましょう。
いつしか、自分たちがまるごと溶けていく気配を、コーデリアは感じていた。
『
ただ、やすらぎを感じていた。
まるであらゆる生き物が、救われ乗りこむ
二人の子らをかき抱いて。
闇の中へと溶けていった。
――森の黒山羊、めぇと鳴いた。
The Unnamable in the Ark 武江成緒 @kamorun2018
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