第三章 - 3 《草が丘 ~Meadow Hill~ 》

 私たちはすぐに、正午にある農夫が私たちを見つけたのだということを聞いた。そこはあの古い埋葬地ベリインググラウンドから一マイル離れた、草ヶ丘メドウ・ヒルのむこうにあるさびしい野原で、大昔に屠殺場が建っていたと言われる場所だった。

 ――H・P・ラヴクラフト『名状しがたいもの』




 明るくなったり、暗くなったり。

 あたりを照らす月の光はちらほらと明度を変える。

 夜空にはまだら雲が出てきて、満月を隠したり、出したり、うすい雲で覆ったり、銀の光をうねらせるのだ。


 そんな中を、だれも起きていない深夜、たった一人で野山を歩いている。

 あれはいつの事だったろうか。おさない頃に聞いたおとぎ話をおぼろげに思い出す。夜の野山を冒険する、女の子の物語。

 いつ聞いたのかは思い出せないのだった。そもそも、本当にそんな話を聞いたのか、それすら。

 それでもコーデリアは、産まれてから感じたことがないほどに、軽やかに足を運んでいるのだった。

 自分の感情を率直にみることが、彼女にできていたとしたら「わくわくしている」とでも言えただろうか。


 可笑しかった。


 もう二十をとうにこえた婚き遅れで、罪にまみれた身の自分が、無垢でちいさな娘のように、夢物語のような冒険をしているなんて。

 しかもお供は、天使でもなく子羊でもない。自然にはずれた、人ともけものともつかぬもの。

 怖れる心が、完全になくなった訳でもなかった。人の顔を引き伸ばし、ウシの顔を混ぜこんだ顔。しかも片目はあの潰れた目。

 生まれて三歳の幼子だとはわかっていても、あまりはっきり目に入れる気にはならなかった。さっきは木々に、そしていまは夜闇と草むらとに隠されて、いまだ全身をはっきり見てもいないのだ。

 それでも、自分の後ろを、ヒヅメの足と、両手それとも前足を、地面につけてついてくる気配はもはや愛おしく。


――まあぁぁぁ

――まあぁぁぁぁぁ


 あげる声も、舌足らずな訴え声に聞こえていた。


――お母さんって言ってるのかしら?


 微笑ほほえましい。でも哀れ。

 どのみちこの子の母親は、もうこの世にはいないのだ。

 コーデリアの迷いに応えるように、ポケットの中の黒い『聖母さまセント・マザー』が揺れる。


――そうですね。『聖母さまセント・マザー』。

――せめて、あそこに連れて行ってあげないと。

――残り香だけでも嗅がせてあげたい。


 雲が切れ、また満月が銀の光であたりを照らす。

 草がメドウ・ヒルの草っ原が、銀色のじゅうたんとなってうねる。


 ふと、目を左手に向けてみた。丘の下にひろがる村。明かりは一つとて見えず、月光のなか眠りこけている。光っているのはやっぱり銀にかがやく川の流れだけ。

 なんだかとても、おそらくはもう数年ぶりに、胸のなかが軽くなって、思わず、ふふ、と微笑んだ。


 ここまでくれば、目的地まではもうすぐだ。

 草をかきわけ小道をのぼって、丘をのぼる。

 道はかなり険しくなって、あの子がついてこれるかどうか不安だったが、たくみに付いてきているようだった。

 丘をのぼりきったところで、また月が雲に隠れてしまったが、目的の場所はすぐ前だった。

 半分けものの同伴者にいたっては、視覚も必要ないようだった。


――まあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!


 丘を越えるや、目の前のくぼ地に向かって走り出した。

 ヒヅメを蹴立てて走り出す。夜闇に隠された異形のからだがぐねぐねとうねる。

 目的の場所。レンガと石の散らばるくぼ地のなか。

 焼け焦げた地面に横たわり、鼻をりつけているようだった。

 あれから三年もたつのに、この場はずっとげたきり。

 異形を産んだ母ウシは、ここにあった屠殺場で潰され、そして不浄のものとして、屠殺場ごと焼かれたのだった。


――まあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!

――まあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!


 丘にひびく泣き声は、しかし先ほどと違っていた。

 求めではなく、呼びかけていた。この場で焼かれた産みの母に。

 人の顔を、ウシの鼻面のように、ぶかっこうに膨らせた鼻は、三年前に灰にされた母のにおいを嗅ぎ当てるのか。

 人ともウシともつかない体は、生きた母に甘えるように、地面に抱かれ震えていた。


――良かったわね。


 ひとのささやかな幸福を、喜ぶことができたのは、いったい何年ぶりだろう。

 幸福というものの存在を、感じることができたのは果たして何年ぶりだろう。

 ポケットに手を入れて、黒い石の『聖母さまセント・マザー』を握りしめる。

 握りしめたまま、異形の子に背をむける。くぼ地の片隅、石とレンガのつみ重なった一角へと歩いてゆく。

 立ち止まったのは、妙にきれいで丸い石の前。

 満月が明るければ、うっすらと十字のしるしが刻み込んであるのが見えただろう。

 そのうえに、コーデリアはそっと、『聖母さまセント・マザー』を安置した。


 ――ごめんなさい。


  両手を組んで胸に抱き、目を閉じて祈りながら、その「墓」に眠るものに語りかけた。


 ――あの子とおなじ、あなたにも、つらい思いをさせたわね。


「墓」に眠る子にわびる。

 そう、ここは、四年前の秋、彼女の胎から流れ落ちた子の眠る墓だった。

 あの忌まわしい埋葬地ベリインググラウンドには、どうしても葬る気にはなれなかったのだ。

 野原に葬るのは哀れで、庭に葬るのは怖ろしく。

 ここに葬れば、自分とおなじく、あの男に犯され孕まされたあのウシが、やさしくしてくれるような気がしたのだ。

 あれ以来、わが子の墓に足を向けたのは、今夜このときが初めてだった。

 焼けた野原に埋められた子が寂しかろうとは思っても、怖ろしく、忌まわしく、とても来る気になれなかったのだ。


――ごめんなさい。


 実の父に殴られた胎から流れ出た子は、まだ体ができあがってもいなくて。

 まるで赤い異形のかえるのようだった。

 異形の子がふたり。

 端から見れば、ずいぶんと気味のわるい、おぞましい有様だっただろうけれど。

 それでも夜闇に包まれたこの場所は、とても、感じたことがないほどに、心やすらぐものだった。


 そう思いながらそっと目を開き、『聖母さまセント・マザー』を見やったとき。


 一転して、ぞっとする気配が背中を襲った。

 あの男に押し倒されたときよりも、先ほど、牧師さまに投げ倒されたときよりも。

 はるかに不吉でいやな予感が、いまや全身をはしっている。

 走った。丘の下を見下ろせる場所まで走った。そして見た。


 丘の下には、やはり村が横たわっている。しかしもう、さっきのように眠りこんではいなかった。


 灯がともっている。点々と。くるみ通りの筋ぞいに、川沿いにもちらほらと、そして、教会のあたりに煌々と。

 のろし火のように灯がともっている。

 そして灯は、村のなかだけではなかった。

 ちょうど今、まるで赤いへびのように、一列の灯がうごいている。

 通りをすりぬけ、村をはなれ、そして、草が丘メドウ・ヒルへ、こちらの方へと向かってきていた。

 村の者たちがやってくる。こちらにむかってやってくる。


――困った子ですね。先頭にたっているのはあの子です。


 背後から、『聖母さまセント・マザー』のお声が聞こえてきた。

「あの子」というのが、牧師さまを指しているのだと、なぜかすぐに理解ができた。


――あの子はあなたを殺す気ですよ、コーデリア。


聖母さまセント・マザー』のお言葉は、離れたところで面白がっているようにも、胸を痛めて悲しんでいるようにも聞こえた。


――あなたを犯そうとしたこと。

  あなたをこのまま生かしておけば、あなたの口から村のみなに明かされてしまうと怖れているのです。


 力が抜けていく思いがした。

 神の会衆かいしゅうをみちびく方が、信仰の先頭にたつ方が、そんなことをなさるのだろうか。

 埋葬地ベリインググラウンドで押し倒されたこと、自分は人に言う気などなかった。黙りとおしておくつもりだった。五年前のあの日のように。

 それなのに。


――あの子がひそかに村の娘を襲ったのは、あなたが最初ではないのですよ。


聖母さまセント・マザー』のお言葉は、容赦なく続いてゆく。


――おろかな、哀れな、可愛い子です。信仰など持っていないのに。胸のなかには権勢欲と名誉欲、たぎった性欲しかないのに。


 あのけわしいお顔、きびしいお言葉、その奥には、あの男とおなじものを隠していたと、『聖母さまセント・マザー』おっしゃるのか。


――そこで母にあまえているこの子。この子を、あなたの使い魔だと、村のみなに強弁するつもりなのですよ。ともに悪魔のしもべだと。あなたが魔女だと。コーデリア。


 何という事だろう。虚言は罪ではなかったのか。


――この子がたびたび、草が丘メドウ・ヒルで遊ぶことは村のうわさに語られています。ほどなく、ここに来るでしょう。

――ここであなたとこの子を捕え、ともに悪魔の使いとして焼いてしまうつもりです。あの哀れな母ウシのように。


 コーデリアは振り返った。

 月はいまだ隠れていて、あの子の姿はよく見えない。それでもやはり地面に寝ころび、焼かれた母の残り香に、懸命にじゃれ付いている。赤子のようにじゃれ付いている。


――聖母さま。助けてはいただけないのでしょうか。

――できません。


聖母さまセント・マザー』の声は、雪のように、やさしく、柔く、冷たかった。


――村のみなは餓えています。切ないほどに血に餓えています。ボストンやセーラムで、仲間を殺したものたちと同じ。

――怯えが餓えをまねいたのです。戦に、不作に、流行りやまいに、この子の影に、村のみなはおびやかされてきたのです。

――彼らは生かしはしないでしょう。だれかを殺し、悪魔の使いとして葬るまで、彼らの餓えはおさまらない。

――あなたとこの子を救うには、彼らのほうの命をとりあげるしかない。けれど私にそれはできない。


 そう聞いても、コーデリアの胸のなかには、怒りも失望もわかなかった。


――あなたもこの子も、村のみなも、すべてが等しくおなじ命。

  あなたとこの子を救うために、村のものたちの命をいま奪うことは、私にはできないのです。

――あなたの苦悩も、この子の悲痛も、村のみなの狂気と餓えも、私はひとしく愛している。

――あなたたちの中に、みだりに足を踏み入れることは、私にはできないのです。


――わかっています。

 コーデリアはうつむいた。


――でも聖母さま、それならば、この子だけでも生かせないでしょうか。

――何かの命を奪えばいいなら、村のみなが収まるのなら、この子でなくてもいいのでしょう。


聖母さまセント・マザー』は応えなかった。それは肯定の証しだった。


 コーデリアは顔をあげた。もう一度、地面に横たわる異形の子に目を向けた。

 歩み寄ると、異形の子は、その顔をあげてこちらを見た。


 やはり夜闇に覆われていても、ウシの頭骨に人の顔をひろげたような、人の頭をウシのように膨らせたような。

 ゆがみ引きれた角と耳。

 醜くつぶれたあの右目。

 それでも、あの忌まわしい男ゆずりの右目を向けられても、もはや嫌悪も恐怖のおもいも、何もうかんでこなかった。


「あなたはおうちへ帰るのよ」


 コーデリアの声を聞くように、相手は耳をふるわせた。


「丘をぐるりと大きく回って、家をさけて木立にかくれて、おじいさまの家へ帰るの」


 潰れていない左目に、不安そうな光がうかんだ。


「だれにも見つかってはいけないわ。見つかったら、あなたまで殺されてしまう」


 ぬうっと異形の子は身を起こした。言われたことを理解したのか。いや違う。不安におそわれ立っただけだ。


「お願い。はやく、言われたとおりに行ってちょうだい。

 私が守ってあげるから」


 ゆがんだ頭と肩を抱いた。妙にぐにゃりとした皮膚も、まったく気にはならなかった。


 丸い石のそばへと戻り、『聖母さまセント・マザー』を拾いあげてくる。

 を思わせる毛だらけの手をつかむと、石の『聖母さまセント・マザー』を握らせた。


「これを持っていらっしゃい。きっとあなたを守ってくれる」


 それだけ言うと駆け出した。

 また、丸い石の前に立った。三たび、墓の前に立ったのだ。


――私ひとりを犠牲にしなければならない。

――あの子の身を救うためには、私ひとりに憎しみと恐怖を集めなければならない。

――私ひとりが文句なしに、魔女だと見られなければならない。

――そのためには。


演出パフォーマンス”などという言葉、彼女は知りはしなかったけれど。


「ごめんなさい、赤ちゃん。またつらい思いをさせるわ」


 墓の下にねむるものに、ためらいつつ、しかしはっきりと声をかけた。


「そのかわり、今度はずっと、一緒にいてあげるから」

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