第三章 - 2 《歳降りた木々 ~The Patriarchal Trees~ 》
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
――『聖書(新共同訳) マタイによる福音書 第23章 27~28節』
こわばる体が、丸太のように地面に叩きつけられて。
おもわず固く結んだ腕を、無理やりに押し開かれる。
拒もうとすると、両の
すべて、五年前のあの夕暮れと同じこと。まったくあの通りだった。
違うのは、見下ろす顔。
あの酔いどれた赤く
否、そのお顔は、もはや気高くはなかった。あの男に劣らない、狂った
「
こんな夜中に出歩いて、男を惑わそうとでもしていたのか」
あの男がとうに死んだ今、清澄なはずのこの村で、聞こえることのないはずの
「おおかた、あの男も、お前が惑わしたのだろう。
もともとろくでなしではあったが、お前の肉の罪に
そうでなければあのような罰当たりな所業にまで、さすがに堕ちるはずがない」
知っていた。
牧師さまは知っていた。
それだけではない。牧師さまのお言葉によれば、自分があの男に
「お前のこざかしい知恵で、罪を隠しおおせたと思ったか。
知られていた。言われたとおり、隠しおおせたと思っていたのは、恥を上塗る思いあがりでしかなかったのか。
いつからだろう。どこからだろう。まさか他の人にも知られてしまっているのだろうか。
「そうだ。お前が罪の元なのだ。
牧師さまが胸ぐらをつかむ。
母や父にはやられたことはあるのだが、家族でもない、それも男性にされるなど、血が凍るように怖ろしかった。
声さえ凍りついて出ない。牧師さまはそのまま、胸元を押し開こうとしている。
「だから、お前にふさわしい扱いをしてやろう。
穢れはてた
はじめて牧師さまが笑顔をみせた。
あの男に負けず劣らず、卑しく、忌まわしい笑顔だった。
あの男がしたそのままのことを、牧師さまがなさっている。それだけで、凍った頭がそのまま粉々に割れそうだった。
上衣のえりを引き裂こうと手をかけた牧師さまは、ふと顔をあげて。
大きな悲鳴があたりに響いた。
立て続けに悲鳴をあげながら牧師さまは逃げ去っていった。
あの男よりも、こけつまろびつ。
助かった、という気はしなかった。
身体にはなんの
ただ、腹だけがいやに気持ちが悪くて。
ごろり転がり地面に顔をむけ、嘔吐した。
そして顔をあげたとき、満月の光のなかに照らされた、それを見た。
牧師さまに悲鳴をあげさせ逃げ去らせた、そのものを見てしまった。
月の光がおぼろに描く
人にしては毛に覆われ、けものにしては、あまりに人に似すぎていて。
それがちょうど、人そっくりの姿で屈みこんでいる。
その首の先に、大きな大きな頭がぶら下がっているようだった。
どこからが髪でどこからが顔か。頭のすべてが毛むくじゃら。
人にしては長い耳が、頭の脇からのびていて。その間には、こぶとも角ともつかないなにかが生えている。
そして、柳の幹のうしろから、こちらをじぃっとうかがう目。
顔の真横についた目はたしかに、人の目のかたちだった。
けものの得体の知れなさのなかに、人に特有のくすぶらせた情念をこめて、その目はこちらを見つめていた。
くらり。
凍った頭がひび割れたか、と思うほどに目がくらんだ。
ばけもの。
集落の人たちが、ひそめた話をかさねたあの異形のもの。
初夏の夜、あの暗い森、すぐそばでヤギを食い殺した、人ともけものともつかない怪物。
それが、またしてもすぐ近く、十フィートと離れていない
けものの力で飛びかかってきたならば、すぐに自分をひき裂くだろう。
目が離せなくなっていた。こちらを見つめる、相手の頭の横についた、人のかたちをした目から。
それが、ふいと回転した。
頭がぶうんと回転し、もう一方の目がのぞく。
その目はゆがんで潰れていた。幾度となく見た忌まわしい形。あの男ゆずりの右目。
それはすなわち、やはりどうして、このばけものは。
あの男が、ちょうど私にしたように、ウシを犯して産まれたなにか。神さまの法をやぶる忌まわしいもの。
そう思ったときには、まるでばったが跳ねるように、その地面から飛びすさっていた。
ことん。
音が響いた。ポケットから、黒い石の『
その音を聞いて、はっと我にたち返った。
身をかがめる。『
木立のかげにいるものは、動こうとはしなかった。
もう一度、頭をまわし、見えるほうの左目を向けてはいるが、それ以上、うごく気配はないようだった。
――うぅぅ、うぉぅぁ
静かな
声を吐いているのだ。異形の影は、声を発している。
それが、想いを吐きながしているのだと気づいたことに、コーデリアは驚きを感じていた。
怖れの気持ちがしぼんでいた。いつの間にか。おそらくは、黒い石の『
――わたしは全てを認めましょう。
――この子も、あなたも、あなたの憐れなあの子供も。
目の前の暗がりにひそむ
寒風に身をふるわせる、哀れな落とし子に思えてきた。
自分の
自然に、まったく自然に、足が一歩、前に出た。
やはり恐怖はほとんど感じることがなかった。
少なくとも、さっきの牧師さまに感じた恐怖にくらべれば。
さらに一歩、足をふみ出す。
そこまできて、こちらをうかがう、人ともけものとのつかない瞳に涙がたまり。
毛におおわれた相手の体がふるふると、震えているのに気がついた。
相手のほうが、こちらを怖れているとでも言うのだろうか。人にここまで近寄られるのは初めてというのだろうか。
それとも、生まれ落ちてからの孤独がかさなって、身をふるわせているのだろうか。
このものが
いずれにしろ――。
このものは、否、この子はまだ子供なのだ。
どんな異形のすがただろうと。ウシのような体躯をもっていようとも。
ウシは、ほんの二、三年で、成獣にまで育つことを、コーデリアは思い出した。
――あぁぁぁぁぁぁぁぁ!
両腕が自然にひろがった。叫びを、泣き声を受け止めたかったのだ。
もはや、この子は泣いていた。
ひとから、ひととして扱われるのは初めてだったのか。
孤独、疎外、異形の苦痛。魂に、そう、魂に背負ってきた
ひろげた両手をそっとおろす。毛に覆われた、ウシの盛り上がりを見せる肩にそっとおろす。
毛も、皮も、骨組みも、人ともウシともつかない手ざわりの肩を、そっとなでた。
――もあぁぁぁ
――まあぁぁぁぁぁ
泣き声は激しくなった。
なにかを求めるように激しく。
「そういえば、あなたは」
声をかけると、不意に、泣き声は止んだ。
「お母さんと過ごしたことが、ほとんどなかったのね」
異形の子を孕まされ、産み落とした哀れなウシは、悪魔の憑いたものとして――。
それでも。
「おいでなさい。
お母さんのいたところまで、つれていってあげる」
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