第三章 - 1 《人けのない草原 ~Deserted Meadows~ 》

 こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕えるものを装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。

 ――『聖書(新共同訳) コリントの信徒への手紙 二 第11章 13~15節』




「言ったはずだぞ。

 いたずらに孤独にひたり、妙なふるまいをする事は避けなければならないと」


 雪のように冷え冷えとして、石のように硬い声が耳を打つ。

 全身を打たれたように、背筋と手足が動かない。

 牧師さまの言葉はそれほど重い。

 秋の満月の空の下、コーデリアは立ち尽くしていた。


 母も、父も、眠りは深い。日がしずみ、夕餉の片づけを済ますと、早々に寝入ってしまう。何があってもまず起きない。

 昔は自分もそうだった。昼のことを済ませてしまえば、次の夜明けになるまでの時間は存在しなかった。

 五年前から眠れなくなった。夜な夜な悲鳴をあげて飛び起き、夜が明けるまで恐怖と罪悪に震えつづけた。

 あの男が吊るされて、さらに一年たった頃にはだいぶ収まってはいたが、それでも週に一度や二度は、目が覚めたり寝付けなくなる。

 そういう時は、こっそり戸口を抜けだして、外へ出るのが常だった。

 家の中から夜の戸外へ出たというのに、外の空気を味わうと、ふしぎと気分が楽になった。ときには少し外へ出ただけで、安らかになって眠れることさえあったのだ。

 眠れない間は、草地に寝そべることもあれば、星々を数えることもあった。庭に隠した守護者、黒い石の『聖母さまセント・マザー』を取り出して、祈りを捧げることもあった。

 今夜のような満月の晩は、白くかがやく丸い光が、西の山へとくだってゆくのを見守ることもあったのだ。

 しかし、今夜はそうではなかった。夏ごろから、ただ夜の空気にささやかな安堵あんどをもらうことはなかった。

 星を眺めていても、村をとりまく森や丘に目をながすことが多くなった。風に吹かれていても、声が聞こえてこないかどうか、耳を済ませた。

 あの夏の日、暗い森の奥で聞いた声。あのけもののような、それでいて、何かを求めているような泣き声。


 村では徐々にうわさが濃くなっていた。

 友達もなく、親しく語り合う者もいないコーデリアにも、何度も聞こえてくるほどに、うわさは大きくなっていた。


 いわく。日が暮れたあとも外で働いていた男が、夕闇の野を、人でもけものでもないものが、歩いていくのを見てとった。

 いわく。林檎りんご畑が荒らされた。地面のうえにはひづめの跡が、食い残しの林檎りんごには、人のような爪痕つめあとと、ウシのような歯型があった。

 いわく。森で迷子になった子供が、半分狂って見つかった。怪物がでたと泣き叫んでいる。人の両手にウシの脚、角がはえて毛だらけの、悪魔のような顔をして、しかも右目がつぶれていたと。


 そんな顔が、夜の窓からのぞきこんだといううわさなど、毎週のように語られていた。

 魔女がそいつに乗っていたとか、そいつの額に悪魔のしるしが刻まれてたとか、そんな尾ひれも付いてきた。

 右目のつぶれた有様が、数年前に、首吊り人の丘ハングマンズ・ヒルで吊るされた罰当たりにそっくりだとも。

 麦の種まきがおわる頃には、集落の者たちの目は、埋葬地ベリインググラウンドの隣にひとりで暮らしている老人の家に注がれた。語られるうわさ話も、妙にくわしげなものになってきた。


 老人の家の屋根裏部屋へつづく扉に、頑丈そうな錠前があった。老人は、川沿いのひろい畑を一人でせっせと耕しては、たいそうな収穫を売りもせず、家の中へ貯めこんでいる。牧草も刈っては貯めこんでいる。家畜など持っていないのに。


 しかしそれでも妙なことに、老人の家を改めようと言い出すものはいなかった。

 みんなが何かを怖れていた。直視することを怖れていた。怪物を直視することではなく、そんな怪物が生まれたのだと、直視することを怖れていた。

 そんなものが、神のおゆるしにならない怪物がこの世に存在しているのなら。

 神のなさりようとは何なのか。毎週日曜、教会のミサで語られる聖書の教えはなんなのか。


「『聖母さまセント・マザー』、どうなのですか。やっぱり貴女さまはゆるすのですか」

 この晩も、寝入ってほどなく、うなされ起きたコーデリアは、母と父が眠っているのを確かめて、まん丸い月を浴びながら、集落はずれの野にたたずんで、黒い石の『聖母さまセント・マザー』に問いかけていた。

 あの存在をゆるすのか。存在することをゆるすのか。

 あの名状しがたいものジ・アンネーマブルを。神の摂理にそむくものを。

 さっき見ていた悪夢のなかに『聖母さまセント・マザー』は立っていた。

 巨大な姿で立っていた。右手でコーデリアをでてくれた。

 左の手でかき抱いていた。なにか不気味なおぞましいものを。人とけものの溶けあったものを。


 わからない。わからない。


 わからないから、うわさは聞かないようつとめていた。母や父がそんなうわさを口にのぼらせても黙っていた。

 ただ、気になった。あの夏の夜から、あの泣き声が耳から離れないだけだった。

 あれにうのは怖ろしい。あの夜の森で引き裂かれたヤギの最期を思い出す。集落のうわさには、あのものに襲いかかられ逃げてきたというものすらあるのだ。

 それでも両親が寝静まり、自分は寝入れない夜は、こうしてひっそり外へ出て、『聖母さまセント・マザー』を抱きながら、集落のはずれに出るのだった。森や丘に目をながし、あの泣き声は聞こえないかと。


 そして、この夜。満ちた月に誘われるように、家を出て、集落を離れ。

 気がつくと、埋葬地ベリインググラウンドの木立をのぞむ野っ原で。

 牧師さまに出会ったのだった。




「コーデリア。話を聞いているのかね」


 声は少しやわらかくなった。少しだけ。

 冷たさは相も変わらずだった。


「君のような若い娘が、このような夜更よふけに外を出歩いていること自体、良識に反することはなはだしいのだよ」


 なにも言えない。その通り。

 あまりにその通り過ぎて、胸から胃までが苦しくなった。


「君ひとりの不用意な行動が、村の風紀を狂わせ、無用の混乱を巻き起こしかねないのだよ。

 それは三年前の……セーラム村の事件が、よい実例と言えるだろう」


 三年前、事件、混乱、すべての言葉が、頭から背筋の先まで引き掻いた。


「村という話だけではない。君のお父上、お母上もどれだけ心配なさることだろう。

 人の子供として、不見識な振る舞いをしているとは気づかないのかね」


 言われるたびに、罪悪感が体の芯をみたしてゆく。愚かで不出来で嫁き遅れで、おまけにけがれた不孝の娘。

 子供のころは、ムチがわりの木の枝で、父に、母に、しょっちゅうぶたれたものだった。牧師さまのお言葉は、あの痛さを思い出させた。

 ぴしり、ぴしり。みとおる痛みを、心に刻みつけてくる。


「もういい」


 そう言われたときも、安堵あんどではなく、怖れが胸をすっと切った。

 自分はもう、叱責さえもらえないのか。


「ここでは寒いし、人目につくと問題がある。

 牧師館へ行くぞ。

 そこでじっくり話を聞かせてもらおう」


 牧師さまは先にさっさと歩き出した。ひもと鼻輪をウシにつけて歩くように。

 コーデリアはすごすご続いた。鼻輪をつけられかれるように。

 牧師館への近道とでも言うのだろうか。牧師さまは木立の中へと入っていった。埋葬地ベリインググラウンドの、夜はまっくらな木立の中へ。

 逃れようなどと思わなかった。逃れたいとも思わなかった。

 村じゅうでの評判たかい牧師さまのなさること。間違いなどあるはずがない。疑うはずなどあるわけもない。


 だから、埋葬地のつめたい土に引きずり倒されたとき、まったく、何がおこったかわからなかった。

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