第一章 - 3 《埋葬地 ~The Burying-Ground~ 》
しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。あなたはあなたの中から悪を取り除かねばならない。
――『聖書(新共同訳) 申命記 第20章 20~21節』
外には、誰もいなかった。
昼下がり、人のせわしいさなかの時。まるでぬぐい去られたように、通りには誰もいなかった。
目をこらせば、遠くの畑や牧場には、蚤のように人の姿が見える。けれどもそんな黒い点しか、見渡すかぎりにいなかった。
いつも庭で何やらしているピーボディの奥さんも、教会の向かいの家先にひがな一日すわってるアボットの婆さまも、姿をみせていなかった。
こんなことは初めてだ。お天道さまが照っているのに、まるで人が歩いていない。まるで日の暮れた後のように。
風だけがふく。ざわりとゆれる。
胸が高鳴る。恐怖と悪夢で。
ああ、あの時もそうだった。見わたすかぎり人影はなく、風は木立をかき乱し、しげった枝葉がさし招く。
違うのは、時間と刻限。五年前の秋の暮れ、日の暮れ果てた宵のなか。
いまの夜明けとおなじように、秋の東の宵空は、
西の空には乙女座があったのだろうか。まだけがれのない輝きで。
たった今とまったく同じ、一年の造りおさめのヤギのチーズを、牧師館に届けにいった帰りのことだった。
木立のなかから、枝葉ではない、本当にひとの手がでてさし招いたのだ。
寒さではなく、罪の水なる酒の毒で赤らんだ手。
木立のむこう、
ろくに働くこともなく、セーラムやキングスポートへ出て行っては、酒を買い、
潰れゆがんでひきつれた、そのみにくい右目が、生まれつきのものだという
だけれども、その評判が怖ろしすぎたゆえか、かえって。
そのような、バビロンのような悪徳が、この土地に、信仰の聖なる国、マサチューセッツにあるなどとは、どこかしら信じられなかったのだ。
何より男は震えていた。鍵を落としてしまったのだと。二人ぐらしの父親は、所用でどこぞへ出かけてしまい、この通り、外で寒さに震えていると。まともな左の目をうるませて、すがるようにコーデリアを見た。
鍵をさがして欲しいという、男の求めを断わったならどうなるか。どうしようもないごろつきゆえに、明日の朝には冷たくなっていたならば。
困りし人を見捨てるなど、サマリア人にも
男に求められるままに、木立の家へと歩いていった。埋葬地のかたわらの、宵闇つつむ暗い場所へ。
泣けど叫べど、死人のほかに聞く者もいない、暗い木立のただ中へ。
男が行為をおえて、ようやく自分を離したときさえ、何をされたのかわからなかった。
それでも体じゅうが痛み、鐘のように胸が悲鳴をあげていて、涙も泣き声も止まらなかった。
きっと体は分かっていたのだ。神の定めた婚儀のときまで守るべきものを喪ったことを。体に罪が刻まれたことを。
“――黙っていろよ。このことは”
罪ぶかい行為を強いたのは、あちらの方のはずなのに、にやにや笑ってそう告げられた。
まるでさながら、コーデリアの犯した罪を
“――なあコーディ。知ってんだ。
お前がいつも、村の娘っ子どもの仲間に入らずに、こういう人気のねえ場所で、ぼうっと立ち尽くしていたり、空やら野やら何にもねえ場所を、
“――お前にたぶらかされたと言ってやる。
人目をさけてまじないをしてた、悪魔の見える呪われた目だ、お前の
“――知ってるか?
ボストンじゃあ、洗濯女が吊るし首になったそうだ。
雇い主の娘に
“――味方してくれる友達なんざいねえだろ?
いたとしても誰も信じねえ。このごろの不作、流行り病、おまけにフランスやインディアンとの戦だ。悪魔や魔女がニューイングランド植民地を呪ってんじゃねえかと、どいつもこいつも怯えてる。
このことが誰かにバレりゃあ最後、
それが嫌だってんならな――”
言われた通りにはならなかった。とうとう誰にも知られなかった。
それなのに。あの声が、教会の鐘の音のようにわんわん響く。
春の
――休まないと。
静寂と、木陰をもとめて、足はふらふら揺れながら入っていった。
あの忌まわしい思い出の場所へ。
あの一回で終わらなかった。一月あとに呼びつけられた。
それからまた一月あと、そしてその次は半月あと。
乗られ、責められ、叩かれた。
胸を
罪を体に刻まれた。罪が体内に
その日々が、一年越そうという頃に、さんざん罪を流しこまれた体の異変に気がついた。
――ふおぉぉぉ
――ふおぉぉぉ
声が響く。耳のなかに声が響く。
ちいさな獣のような声が聞こえる。なにかを求める声が聞こえる。
魂を引っ張られそうになったのか。足がゆらいでへたりこむ。
あたりは静まり返った木立。黙ってならぶ墓石たち。
そのなかに座り込んで。
涙ぐみながら嘔吐した。朝にたべた
“――あんなこと、続けられたら死んでしまう”
あの日々が、一年越そうという頃に、四年前の秋の始めに、死ぬほどの覚悟をこめて訴えた。
“――私が死ぬのは仕方ないかも知れないけれど”
“――罪に生まれた命でも、主のみ恵みを見ることもなく冥府へ消してしまうことは耐えられない”
どもりつ、
何やらか、汚らしい呪い文句を叩きつけてきて、ついでとばかりに、罪の命をやどした
酒よりも強烈な毒に侵されたようにふらふらと逃げ去る後ろ姿があった。
血とともに、つめたい大地にうまれた子供。否、子供だったもの。
土に埋めた。せめて天国で安らぐようにと願いながら、黒い石の『
男には二度と会わなかった。
“――あの柳の木の根元にいつの間にやら、ま新しい墓石が立ってる”
“――気味のわるいことに……埋められてる奴の名前もなんも彫られてねえ、のっぺらぼうの墓石なんだ”
聞いたばかりのうわさ話を思い出す。
ならば、いるのか。この 埋葬地に。あの男が。
まんなかの柳の根元、のっぺらぼうの墓石の下に。
吊られた首が折れ曲がり、腐りきった顔に、あのいやらしい笑みを浮かべて。
口から悲鳴がもれて出た。
立ち上がれない。逃げられない。足に力がはいらない。
逃げなければ。あの時とおなじ。これはきっと罠なのだ。
あの時とおなじ。墓石ならぶこの木陰に、あの男が誘い込んだのだ。
――ふうおぉぉぉ
――うおぉぉぉぉ
声がする。なにかを求めるちいさな声が。
「どこ!? どこなの!?」
確信していた。これはあの子の声なのだと。
「どこにいるの!? どこにいけばいいの!?」
あの子がいる。助けてくれる。導いてくれる。
地面を這いずり、もがいて進んだその先には。
黒い家がそびえ立っていた。
あの男が、父親と住んでいたという家が。
悲鳴が凍る。また
それともあの子か。恨んでいるのか。罪のなかで命を与え、守れなかったこの母親を。
――うおゎぁぁぉ
――もおゎぉぉぉ
ふと気がついた。何かがおかしい。
そうだ。声は地面からでも墓場のほうからでもない。
目の前の家。それも屋根の方から聞こえてくる。
黄泉からひびく声ではなく、大気を震わせ、確かな音として聞こえる。
では、何の声なのだろう。亡霊の声でないとすれば。
“――何しろ今じゃあ、あの家に住んでるのは爺さん一人だ”
この家に住むのは今や、あの男の父親だけ。
あんな声、出すとはとても思えない。
正気にもどって聞いたなら、あの泣き声はたしかにおかしい。
理知なく声をあげているのは、赤ん坊と同じだが、それとは違う。
どこか、ひととは決定的に違うなにかが混じっている。
人がけものの声を強いられているような。
あるいは、けものが人の声を出そうとあがいているような。
“――だがな、あのウシが産み落とした……アレは焼いてねえ”
“――気がついてみたら、その、アレがどこにいったのか。誰がアレをどうかしたのか。誰にもさっぱりわからねえ”
では、いるのか。
あの罪ぶかいうわさ話に語られていたあのものが。
目の前のこの、家のなかに。
ほぅら。いま、屋根裏のなかから、木の床を踏みならす音がした。
断じて人のものではない脚で。硬いひづめで。
――ああ、なんて、なんてことなの。
――『
あの黒い石は、まだヤギの囲いのなか、石の下に隠しっぱなし。それでも、手をかたく結んで、『
目を閉じる。閉じた目に聖母さまの姿が浮かぶ。黒いおすがたの
黒い衣をまとわれて、黒い
両のお手まで黒くそまったその中に、黒いおくるみ抱かれてる。
――うおゎぁぁぉ
おくるみが、確かにウシの声をあげた。
ありえざる、あってはいけない、そのおくるみを、聖母さまはやさしく抱きあげた。
抱き上げられたそのおくるみから、潰れた右目がのぞいていた。
あの男の目に生き写しの目が。
――やめて。やめて。
――使ったのね。やっぱり。
――罪の子やどした私を捨てて、その代わりに。
――忌まわしい欲を吐き出すために。
――おぞましい。なんておぞましい。
――けものを代わりに使ったのね。
胸のうちからはしる悲鳴が、一気に解かれて喉からはじけた。
「誰だぁ!」
しわがれた、老人の声が響いてくる。
苦痛と恐怖にとらわれた、異形のなにかを
悲鳴をほとばしらせ続けながらも、振り返りもせず逃げ出していた。
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