第二章 - 2 《森沿い ~Near the Woods~ 》
しかし、お前は墓の外に投げ捨てられる
忌むべきものとされた
剣で刺された者、殺された者に囲まれ
踏みつけられた死体のように。
――『聖書(新共同訳) イザヤ書 第14章 19節』
洗濯をし、父の畑の手伝いをした。ボンネット帽をかぶった頭も、ショールにくるんだ首も肩も、太陽のかたむく頃には汗でぐっしょりそぼっていた。
夕食の手伝いをしに、父よりひとあし早く帰って戸をひらく。
青くなった母の顔、そして
「ヤギが一匹いないんだよ」
まるで娘がヤギを逃がしたといわんばかりの勢いで、母はわんわんわめき散らした。
「見つけといで。夕飯までには連れてもどってくるんだよ」
そう言われても日はかたむいて、暗くなる前にヤギ一匹、見つけてもどって来られるかどうかわからない。
とはいえそう訴えてみても、取り合ってもらえないのは判っている。色々と細かい母だが、家畜がいなくなることについては、ほとんど恐怖を抱いているのだ。
囲いへ向かって見てみると、一番おおきな黒い
不機嫌な母が家のなかで
黒い石のお守りを、『
いくら探せど見渡せど、黒い
日がもはや暮れたころになり、森の入り口にやってきた。
去年の秋、おなじように別のヤギが逃げた。その時には、ここらあたりで見つけ出したのだ。
しかし、いまは何もいない。ただ夕闇のなか、暗さを増す森があるだけ。
――フィッ、プァ、フィル
――フィッ、プァ、フィル
口笛を吹くような不気味な鳥の鳴き声に、肩がぶるっと震えだす。
あれは夜鷹のホイッパーウィル。死人の魂さらうとも、魔女の使いとも言われる鳥だ。
セーラムの魔女裁判をのがれた者が多くすむこの村でも、魔女への恐怖は
いたるところに魔女がいる。
集落の南の家から引っ立てられてぶち込まれたセーラムの牢から、妖術つかって姿を消したキザイア婆さま。
村の南の森にすむ、呪薬づくりの
そのさらに奥の丘のうえ、屋敷かまえる魔法使いのエドマンド・カーター。
教会のミサ、牧師さまのお話を思いだす。あの白いお顔をゆがめて、吐き捨てるように、忌まわしいものの話をなさったことを思い出す。
村ができたばかりの頃、まだ一軒の教会もなかった時分には、この一帯には悪魔や魔女が飛びまわり、夜な夜な祭りをくり広げたと。
この村にはいたる所に、そんな怖ろしい爪あとが語り伝えられている。
村をながれる川の中州。
古の時代には、悪魔に魂をうばわれた者たちが、夜な夜な森に入っては、忌むべき儀式に狂ったと。
“――ああ暗い森の太母さま! 千の仔はらむ黒い山羊!”
――ベエェ、ベエェェェェェェェ!!
いきなり響いた奇怪な叫び。心臓が止まったかと思った。
そして声の元に目を向けたとき、魂が飛び去ったと思った。
そこにはけものが立っていた。
夕闇に、森の
十をかぞえる時間をへて、ふところの『
そしてようやく、この黒い怪獣こそが、探していたヤギだとわかり、腰が抜けてへたりこんだ。
と、ヤギのほうも仰天したのか。
くるりとこちらに尻をむけて、森の奥へと駆け出した。
「待って!」
追いかけようにも腰も両脚も抜けたまま。
両手も使って必死に
ふいに、その手足が宙に浮いた。
両手から、頭から、体がどこか、深いところへ落ちてゆく。
――フィッ、プァ、フィル
――フィッ、プァ、フィル
がつんと鳴った頭のなかみが夕闇の中に溶けてゆき、
気がつくと、切り立つような土の壁にすがりついていた。
土の壁だとわかったのは、両手のつかむ手ざわりだけ。視界はまっ暗。何も見えない。目玉が落ちてしまったかのよう。
それでも両手と両足は、ひとりでに土の壁をつかみ、上へ上へと
ここは一体どこなのだろう。
まさか地獄なのだろうか。やはり自分は罰を受けるのか。
地獄ならば、果たして逃れようとするのは正しいのだろうか。天のくだした罰ならば、甘んじて受けるべきではないのか。
――ふえぇ
――ふえぇぇぇぇぇぇぇ
べたつく声が聞こえてきた。足元から、すがりつくように。
――ふえぇぇぇぇぇぇぇ
――ふえぇぇぇぇぇぇぇ
声はだんだん近づいてくる。足の下からのぼってくる。
あれはヤギの声だろうか。下のほうへ顔を向けても、やはり何も伺えなかった。
それとも。
――ふえぇぇぇぇぇぇぇ
――ふえぇぇぇぇぇぇぇ
なにかの泣く声なのだろうか。
腹がぎりりとひきつった。
声の主の姿が浮かぶ。みえない姿が頭にうかぶ。
ふやけたようにやわらかい肌。若芽のようなみじかい手足。目も開かない皺くちゃの顔。
それがずるりと這い登ってくる。やわらかい、腐った手足を芋虫のようにうごかして、母をもとめて追いかけてくる。
逃げた。
今まで以上に力をしぼって、必死に土にしがみついた。底なしの淵を這いのぼった。
追ってくるものがただただ怖くて、愛も
ふと。
前触れもなく、上のほうに、光の出口があらわれた。
穴の出口が開いていた。炎のように力づよいゆらめく光がまねいていた。
心から喜びの声があがるのは、いったい何年ぶりだろう。
力をこめた。動きを増した。もはや下から追い来るものも感じないまま、ひたすら手足をはたらかせた。
そうしてついに出口にとどいた。ゆらめく光が、まるでコーデリアの身を讃えるように出迎えた。
“――判決を言いわたす!!”
つめたい声が、鞭のようにコーデリアを打ちのめした。
穴の外、そこではみんなが待っていた。村のみんなが待ち構えていた。
オズワルドさんも、トーマスも。セプティマスの爺さまも。ジョセフィン、フィリイ、村娘たちも。郵便配達のモーリイさんも。とっくに死んだギデオンさんまで。怒りと
もちろん父と母もいた。焼けんばかりの怒りと失望に、真っ赤になってうち震えながら。
牧師さまの奥さまもいた。氷のように冷たい目が、ひりひり肌を凍てつかせた。
そしてみんなの真ん中に、牧師さまが座っていた。
判事さまの服とかつらを身にまとい、鎚と聖書を両手にもって、裁きの天使さまのように、きびしい声をはりあげた。
“――コーデリア! お前は天に結ばれた相手でもない、罪と悪徳にまみれた男に身を任せた。
ちがいます。わたしはあんなこと、望んだどころか考えることもしなかった。
無理やりだった。ただひたすらに怖かった。
“――望もうが、望むまいが、穢れたことには代わりはない!
お前は姦淫の罪を通して、あの男を夫としたのだ!”
ちがいます。そんな。そんな。おぞましい。
“――そしてお前の夫となったあの男は、さらにおぞましく、死に値する罪を犯した! 犯したのだ!”
牧師さまのかたわらに、赤黒いものが立っていた。四つの足で立っていた。
今朝みた夢を思い出す。あの
美しかったその姿も、茶色の毛皮もやさしい目も、むざんにぶすぶす焼け焦げて、
“――かの者は、その情欲に動かされるまま、けものとその身をまじわらせた!”
焼けこげただれた無残なウシが、証言でもするかのように、不気味な息を噴きだした。
“――お前を使ったその男が、おなじようにウシを使った。
つまりはお前は、ウシと、けものと同等の存在ということだ”
“――天が人にのみ与えられる魂を、お前は無残にそこなった。けものに等しい身に堕ちた!”
“――ゆえに、その身を堕とすがよい。お前が出てきた
“――あのものもだ。ウシの産み落としたあの忌まわしきもの。名づけられざるあのものも、お前の仔とするがいい。お前がひとり産み落とした罪の子と同じく”
指差されたほうを振り返る。
先ほど必死に這いのぼってきた、黒く、暗く、底なしの淵が大きな口をあけている。
その口から、大きな影が突き出していた。
――『
コーデリアの口からもれ出たとおり、そこには石の『
巨大な石の『
そして腕には、なにかを優しく抱いていた。神のいとし子を抱くかのように。
ねじまがって歪んで、四つの手足をばたばたさせているものを。
そのものの正体を、しかと見た瞬間。
今度こそ、魂がはじけ飛ぶかのように、コーデリアは絶叫した。
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