第二章 - 1 《くるみ通り ~Walnut Street~ 》

 これが、先祖の日記のなかで私が見つけたこと――夜の窓や森沿いの人気のない草原にあらわれる、潰れた目をしたものにまつわる、静かなほのめかしやひそやかな話の全てだ。

 ――H・P・ラヴクラフト『名状しがたいもの』




 その日も苦しい目覚めざめだった。ウシ小屋のなかで目が覚めた。


 せまく荒れはてた小屋だった。

 柱も、屋根も、焼けげて、まだぶすぶすとくすぶっていた。


 小屋の中には二頭だけ。ぶよぶよ白い自分のとなりに、明るい茶色の毛をなびかせたすこやかなウシが立っている。

 ながいまつ毛にふちどられた目はガラスのようにんでいる。脚は締まってたくましい。

 ぶよけたハムに、無理やりにヒヅメをいでつけたような、自分の脚がいたたまれない。

 茶色いウシは大きかった。とりわけ胴はまんまるくはち切れそうに膨らんでいた。桃色の乳もおおきく張って、たっぷりミルクを出すはずだった。


 ――種つけの時間だ。


 響いた声に、お腹のなかがぎりぎりこすれて絞りあがる。

 

 ウシ小屋の前に人がわんさと群れ集まった。三年前、首吊り人の丘ハングマンズ・ヒルにのぼっていった村の衆に負けないほどに。

 けれどこの場に集まった顔はすべて同じ顔だった。

 寸分たがわず相違なく、みんな一つの顔だった。

 あの丘で吊るされたはずの、片目のつぶれた酔いどれ顔。


 赤い顔の群れはぞろぞろと、押しあいへしあい潰しあい、だぶり崩れて溶けあいながら、ウシ小屋のなかへ入ってきた。

 ぐにゃぐにゃと、背後に回って立ち止まった。とろけた左目とつぶれた右目がじろじろ尻を見るのがわかった。

 尻のまんなかと脚の間が、じゅっと冷たく引きった。全身の肌に悪寒が走る。頭を抱えたいけれど、手は前脚でどうにもならない。


――こっちを使うのはやめようか。面倒なだけだ。


 野卑な声が尻を打つ。

 尻からお腹がひやっと裂けて、中からどろどろあふれ出した。血に体液に、卵のなかみにそっくりなどろりどろりとした何か。地面に垂れて、


――ふおぁぁ

――ふおぁぁ


 泣き声をあげた。


――やっぱりあっちが上等だ。

  こんな体はもう使えねえ。


 ただれた声は、となりのウシの尻へずるりずるりと歩みよる。

 周りのものまで腐らせそうな視線と声とを浴びているのに、茶色いウシは動じる風なく、澄んだ瞳をしばたたかせている。

 このウシより、自分のほうが劣ったものと決まったようで、溶けたバターのような涙が、目からどろどろしたたった。

 地面に落ちた脂がはぜる。火花を散らして燃えあがる。

 いつの間にか、小屋は炎に包まれていた。柱も、屋根も、茶色い牝ウシも、その尻にへばりついた赤いなにかも。

 すべてを清める裁きの炎に焼かれていた。

 焼かれながら、牝ウシの大きなお腹はますます巨大に膨張し、


 ――うぅうもぉぉぉぁ

 ――ぼぉぉぉぉぉぁぁぁ


 爆ぜた中から、なにかが落ちた。

 一抱えもある大きなものが、ぼったり地面に落ちた。

 うごめきながら悲鳴をあげた。


「また朝っぱらから何を叫んでんだい!

 うるさいったりゃありゃあしない!」


 母親の声に横っつらを引っぱたかれる。

 悲鳴をほとばしらせていたのは、自分自身ののどだった。

 苦しい目覚めだったが、そこはベッドの上だった。




「見たっていうのよ。うちの母さんが!」


 季節はすっかり夏になって、昼間の暑いさかりというのに。

 南岸の集落を北から南へつらぬいているくるみ通りウォルナット・ストリートの井戸ばたでは、娘たちが集まって、声をひそめて囁いている。


「昨夜は母さん、針仕事が終わらなくってね。私と父さんを先に寝かせて仕事を続けていたのよ。月明かりを頼りにね」


 怖ろしげに、ひとりの娘が語っていた。


「ふと影がさして、窓からさす月の光をさえぎったのね。母さん、窓を見たのよ。

 どこかの誰かか、迷った家畜でも、外を通りがかったのかと思ったって」


 娘の声はひそまった。どこかしら、怖ろしさを楽しむように。


「そいつが窓からのぞいていたのよ。

 いったい誰なのか……いいえ、何なのかもわからなかったって。

 人の顔にも見えたけど、人の顔とは思えなかったって!」

「何よ、それは」

「意味がわからないわ」


 笑い声が吹きあがる。おびえをまとった笑い声。


「顔じゅうに、まだらに毛が生えていたって。

 鼻が大きくて、いいえ、顔の真ん中がまるごと前に出っ張って、それが鼻のようになっていたそうよ!

 二つの目が顔の両のはじっこに寄って、しかも片方の目がゆがんで潰れていて、とても人間とは思えない……それでも確かに人の目だったって!

 おまけに、あぁ……おまけに……額から二本の角が、たしかに生えていたって、そう聞いたわ……。

 とにかく、何とも言いようがない、いやらしい顔だったそうよ!」


 小さな悲鳴がざわめいた。


「あなたは見なかったの? その顔を」

「見えなかったわ。母さんの悲鳴で、父さんと一緒に起きたときは、母さんが、窓にむかって暖炉の火かき棒を振り下ろそうとしていたところよ。

 目があった途端、そいつはさっと姿を消してしまったのだって!」


 いかにも怪談じみた幕切れに、息のむ娘、かぶり振る娘、十字きる娘、祈りの文句を唱える娘。

 それでも皆、朝の太陽のもとでもわかるくらいに目を暗く輝かせ、語り手の娘から視線を外すことはない。


 あの三年前、マサチューセッツ植民地じゅうをるがせた、セーラム村の魔女さわぎが、頭によみがえってくる。

 娘たちがひそかに寄り集まり、黒人の奴隷女から教わったまじないに手を染めていたのが、騒動の始まりだという。

 神によみされた新天地、信仰と聖書とのみを杖として、清き暮らしをひらく土地。

 その確かな使命さえ、まったく黒くかすむほどに、人の罪ぶかい好奇心とうわさ話はえることがない。


「そう言えば……」


 別の娘が、すかさず話を受け継いた。


「月明かり、そう、月明かりよ。

 見たっていうのよ。草が丘メドウ・ヒルで。昨日の朝、うちに来た郵便配達人のモーリイさんが」


 ざわめく声が話をいろどる。


「一昨日の夜は、夜明けまで月が明るかったでしょう。

 まだ日ののぼる前、モーリイさんが馬で草が丘メドウ・ヒルを越えて村までくる途中に……。

 月明かりの下、何かが丘を走っているのを見たんですって!」

「何かって……どんなものなのよ?」

「ぱっと見ただけで、何が何やらわからないものだって。モーリイさんは、そう父さんに言ったそうよ。

 ウシくらいの大きさだけど、ウシにしては体がねじくれていたって。

 その体をよじるようにして、四つ足で、ときには後ろ足だけで、ぴょんぴょん飛び跳ねるように草っ原を駆けていたそうよ。

 見たことがないものだったって。

 名前を思いつくことも、状を見定めることもできないような不気味な影だったって!」

「もう、やめてよ。フィリイも、ジョシィも、そんな怖ろしい話!

 そんな得体の知れない、いやらしいもの、神様がお作りになられるはずがないじゃない!」


 抗議の声はむなしく響いた。賛意をしめす声もなく。


 三年前、セーラム村の事件とおなじ年、この村に涌いた凶事まがごとは、若い娘たちの耳にも、おぼろに途切とぎれつとは言えど、たしかに忍びこんでいる。

 神が作られたものでないなら、よこしまなものが生み出したものか。

 あのまわしい出来事は、生き延びているのではないか。

 そんなおぞましいものは、どんななりに育っているのか。

 ひそかな不安が興味を呼び、ひそひそ話は続けられる。


「話はそれだけじゃないのよ。

 その名づけもできない何かの後ろを、追っかける人がいたんですって!」


 名も状もない妖しいものに、ひとの存在が加わったことで、また、かすかなざわめきと祈りとがあがる。


「よくは見えなかったけど、歳をとった男の人って、モーリイさんは言っていたそうよ」

「そうだわ。草が丘メドウ・ヒル、あそこには燃やされた屠殺小屋があったじゃないの。

 じゃあ、歳をとった男の人って、あの、埋葬地ベリインググラウンドのそばの家の……」


 普段から、一言おおい娘が、はっと口に手を当てた。


 くすぶる喧騒けんそうがぴたりと消える。

 かわし合う視線には、興味本位のうわさ話を、あまりにも身近な領域まで引き入れてしまった後悔と恐怖とがまじっていた。


「そうだわ、私、昼になる前に、洗濯物を済まさなきゃ」

「私もだわ。ヒツジの世話をしなくっちゃ」

 娘たちは散ってゆく。ウシの乳しぼりがある娘たちは、怯えた目をして黙ってゆっくり歩き出す。


 娘たちが一人残らず歩き去るのを見計らい、コーデリアは木の陰から足を踏み出した。

 あんな話をしていた後だ。自分の姿を見かければ、娘たちは必ずや、声をかけてくれるだろう。気を紛らわせようとするだろう。


――あぁらコーデリア、コーディじゃない。ご機嫌はいかが?

――相も変わらず話さないのねぇ。口をそんなにもぐもぐさせて、まるでウシのようだわね。

――それはそうよ。歩き方だってほら。

――コーディ、カァォディ、ねぇ、“牝ウシ”カウディ。


 自分より、一回りちかく年下の娘にまで、そう呼ばれるのは、さすがに耐えられそうになかった。


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