第二章 - 3 《森の中 ~The Woods~ 》

 何かが暗い谷間の道で私の先祖につかみかかり、胸には角のあとを、背中にはのような爪痕つめあとを残した。踏み荒らされた土のうえに残された跡を見にいった者たちは、割れたひづめの跡や、どことなく人かのような手の跡が入り乱れているのを見つけたのだった。

 ――H・P・ラヴクラフト『名状しがたいもの』




 目が覚めた。


 そこはふたたび闇の中だった。

 救いだったのは、闇とはいえ、銀の光が射しこんでいることだった。

 満月の光をたよりに見るる。そこは穴の中だった。

 穴といっても夢で見た、あの闇黒のふちではない。木の根や草にかくされた、人ひとりがすっぽり入るくぼみだった。

 必死にヤギを追いかけて、気づかず落ち込んだのだった。


――ベエェェェ


 ヤギの声が響いてきた。穴の外の、すぐの場所から。

 はやく掴まえて家に帰ろう。胃がごっそりと抜けたようにひもじいし、喉もまた、切ないほどにからからだ。頭を打って気を失って、どれだけ眠っていたのだろうか。

 母はもちろん、父も怒りをむき出しにするかも知れない。急がなければ。

 そうおもって、穴から這い出ようとしたとき、胸のなかに抱いた重みが消えているのに気がついた。

「『聖母さまセント・マザー』?」

 穴の中をあわてて見わたす。

 幸いに、黒い石はすぐに見つかった。

 夢のことを思い出す。ついまじまじと、月の光でそれを眺めた。もちろん今は巨きくもなく、腕もただのしわでしかない。当然ながら、なにか不気味な異形のものを抱いてなどもいなかった。

 ただ頭にいつも通り、ほほえみを思わせるしわが刻まれているだけだった。

 思わずほっと息をつく。『聖母さまセント・マザー』をポケットにしまい、今度こそ穴から這いでて、ヤギを掴まえ帰ろうと。

 そう思った、まさにその時。


 黒い影が、月の光をさえぎった。


 ぎょっと怯えてうずくまる。

 うずくまってすぐ考え直した。あれはただ、ヤギの影ではないのだろうか。

 そうではない。ヤギはあんなにも大きくはない。


――ベエェェェェェ!

――ベエェェェェェェェ!!


 おびえたヤギの声がする。ずっと遠くへ逃げてゆく。

 ならばこのものは何なのだろう。

 穴のすぐ縁で、仕事をおえた父のように、ふうふう息を鳴らしているものは。

 と、穴のへりのすぐそばを、重い足が蹴り飛ばした。そのまま遠くへ走ってゆく。

 何のことはない。あれはどこかの迷いウシだ。

 そう思って息をついた途端。


――エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛!!


 子供のころ、飼っていたヤギが足を折ったことがある。

 もぐらの穴に足を突っこんで無残にぼっきり折れたのだ。哀れんだのか、面食めんくらったのか、コーデリアの見ている前で、父はそいつを殴り殺した。

 そのときの大きな悲鳴は、数夜にわたってコーデリアをうなし続けた。

 いま響いてきたヤギの悲鳴は、それとまったく同じだった。あの時とおなじ、断末魔の絶叫だった。

 続いて、にぶく、大きく、前にもまして耳をふさぎたくなるような音がした。

 馴染みのない音ではない。村での暮らしでたびたび聞く音。家畜をほふり、開き、解体す音だ。

 違うところがあるとすれば、刃物をつかう気配がしないことだった。

 そう。たとえば。

 素手でつかんでヤギの体を引きちぎる。

 そんなことをしたならば、こういう音がするかも知れない。

 ややあって、犬が肉をむさぼる時のような音が聞こえてきた。

 犬だとしたら、ずいぶん大きな犬だろうが。


 いったい、何ものなのだろうか。


 犬か。狼か。

 ならばあんな音はしない。獲物をちぎる音などたてない。

 ならば人か。

 なおさらだ。ヤギを襲って引きちぎる。そんな人間がすぐそこにいるなど、まったく考えたくもない。

 第一に、人も犬も狼も、あんな足音を立てるわけがない。

 堅いひづめで地面を蹴る、そんな音など立てるわけがない。

 あんなどこかで聞いたような、不気味なひづめの音なんて。


 どこかで。

 ふいに思い出した。

 あの暗い春の木立を、墓石のならぶ木陰のなかを、埋葬地ベリインググラウンドの不気味な空気を。

 そして、あの家のなかから、なぜか聞こえたひづめの音。

 

“――顔じゅうに、まだらに毛が生えていたって”

“――おまけに、あぁ……おまけに……額から二本の角が、たしかに生えていたって”


 今朝、娘たちが話していたのを皮切りに、村の噂がつぎつぎと、頭のうしろから湧きあがってくる。


“――かの者は、その情欲に動かされるまま、けものとその身をまじわらせた!”

“――だがな、あのウシが産み落とした……アレは焼いてねえ”

“――騒ぎになって、あの右目があいつとそっくりだって話になって……あいつが吊るされて”

“――気がついてみたら、その、アレがどこにいったのか。誰がアレをどうかしたのか。誰にもさっぱりわからねえ”

“――二つの目が顔の両のはじっこに寄って、しかも片方の目がゆがんで潰れていて、とても人間とは思えない……”

“――それでも確かに人の目だったって!”


――ふうゎぁぁぁぁぁ!

――ふうおぉぉぉぁぁ!


 あたりに響くその咆え声は、ひとともウシとも区別のつかないものだった。


 産み落としたというのだろうか。

 宿したというのだろうか。

 ウシが、けものが、あの男の仔を。


 そんなこと、そんなおぞましいことが、この世にありうるはずがない。神さまがお許しになるはずがない。

 そう心のなかで唱えたとき。

 さっきの夢が、頭に陰府還よみがえってきた。


 黒い『聖母さまセント・マザー』のすがた。口にはほほえみ。そして腕には抱いている。

 いとし子を愛でるように。ねじまがって歪んだものを。

 四つの手足、いや違う、毛に覆われた、人ともともつかない手と、ひづめの生えたウシの脚を、そいつはばたばたさせていた。

 神さまが、たわむれにお創りになったできそこない。ありうべからざる、名づけられざる、そんなもの。


 うそでしょう。

 うそでしょう。


『聖母さま』

 叫びそうになる口をおさえて、心のなかで何度も叫ぶ。


 そんなものを抱かれるのですか。

 そんなものをお認めになるのですか。

 あの男が、子をはらませた私からのがれ。

 やぶれかぶれにウシのからだをはずかしめ。

 そうして、ウシのはらに仔がやどった。産み落とされた。

 そんな名状しがたいものジ・アンネーマブルを!?


――そうです。


 くすくすと、笑い声さえひびかせながら。

 巨きな黒い『聖母さまセント・マザー』は肯った。


――わたしは全てを認めましょう。

――全ての者を抱きましょう。

――この大地に生きて死ぬもの。

――天のかなたの星々に、おなじく生きて死ぬものを。

――この子も、あなたも、あなたのあわれなあの子供も。

――その父親も、牧師たちも、村の男も女たちも。

――全てのものを愛しましょう。


 どうしてですか。

 あなたはほんとに『聖母さまセント・マザー』?

 それとも邪教の黒いもの?

 こんなおぞましい因果の流れを、神さまはおゆるしにならないはず。神様はお認めにならないはず。

 それなのに……!


――だって。


 黒い『聖母セント・マザー』は、ことも無げにただ答えた。


――泣いているではありませんか。

――あの子も、あなたも、あなたの子も。


――ふうおぉぉぉぉぁぁ!

――あぁぁぁぁぁぁぁぁ!


 暗い森にひびきわたるそのえ声が。

 泣き声だと、ようやくわかった。


 泣いている。

 泣いている。


 母をもとめる赤子のように。

 母をうしなった仔ウシのように。

 孤独と、恐怖と、さびしさに、心もからだもさいなまれて。

 そのものは、ただ泣いていた。


 胸が痛んだ。

 胸の奥がきりきりと絞まり、胸の先がじわりと疼いた。


 忘れたの? あれはヤギを殺したのよ。

 乳をよく出す、大切なヤギを。

 狼のように喰いころしたのよ。


 それでも。その泣き声が、頭のなかから足の先までじんわり響いて。

 自分のまなこにも、涙がわくのを止められなかった。

 もの哀しい泣き声に、胸がいたむのが止まらなかった。


 泣き声が不意にやんだ時も。

 ひづめで大地をる音と、がさがさと木立を掻きわけて、森の奥へとはしる音が聞こえたときも、

 涙はいっこう止まらなかった。




 どれほどの時が経っただろうか。

 穴の中に、新しい光がさしこんだ。

 毛深い手でカンテラをつかみ、父がのぞきこんでいた。


「こんな所で、何をしてんだ」


 それだけ、小さな声で。それでも怒りと苛立いらだちをこめて。

 撃つように父は吐き捨てた。


「ヤギは見つけたんだろうな」


 涙の止まらぬ娘の頭に、父はそんな言葉をぶつけた。


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