第一章 - 1 《フランス人の丘 ~French Hill~ 》
コットン・マザーは、日が暮れてからは誰も読むべきではないその六番目の悪魔じみた著書のなかで、言葉を
――H・P・ラヴクラフト「名状しがたいもの」
彼女は乗られて泣いていた。
モウモウ言って鳴いていた。
背中に乗るのはあの男。背中でわめく赤い顔。
はあはあ息をつきながら、ふんふん腰をゆらしている。
たまに勇んで誇るかのように、大きな声をあげながら、ぱんぱん音たて引っぱたく。
彼女の尻を引っぱたく。
痛くて、辛くて、情けなくて。
怖く、哀しく、恥ずかしくて。
彼女は涙を流していた。
モウモウ詫びて鳴いていた。
――畜生め! 畜生めが!
腰をうごかし、尻をたたいて、男は彼女を
涙をこぼして目をとじる。右目は見まいと目を閉じる。
男の右目が怖ろしい。
潰れてゆがんで濁っている、悪魔のつけたしるしのような、不気味な右目が怖ろしい。
――大きな声で鳴くじゃないか!
――たいそう身をふるわせるじゃないか!
――おれの鞭はいいんだろう?
――尻にひびいてたまらんのだろう?
――お前のような汚いやつには、上等すぎるおしおきだ。
――まったく汚い
異国のさるの手のように、長い腕がぐんと伸びた。
莫迦でかい蜘蛛のような手が、彼女の乳を揉みしだく。
巨きな乳をひき
彼女はまたも鳴き叫んだ。
申し訳なくて鳴き叫んだ。
許しをもとめて鳴き叫んだ。
父に、母に、すべての人に。
高みにおわす聖なるものに。
わが身を
――何と罪ぶかいことだろう!
――なんと
強くきびしい声がした。天使の声がひびきわたった。
天使が悪魔と並んでいた。
白くつめたい天使の顔が、赤くいやしい悪魔の顔の、となりにならんで生えていた。
冷えた怒りをたたえながら、牧師さまの首が生えていた。
――
――たとえ強いられたものであろうと。
――お前はもはや許されない。
――神の
彼女ののどが、はり裂けた。救いをもとめてはり裂けた。
それでも出てくる泣き声は、やはりモウモウ鳴いていた。
――罪にけがれたお前の身は、畜生のようにけがらわしい。
――四つのヒヅメで
――罪のむくいに身を冒されて、モウモウ鳴いて
牧師さまの怒りの声と、男の吐き出すあえぎ声が、からみ合って響きわたり、ひときわ大きく腰をうちつけた。
痛みが腹にまでひびき、彼女は泣いて絶叫した。
「なんの声だしてんだい! 暗いうちからやかましいったら!」
母の声が鳴り響く。父の不機嫌なうなりが続く。
ベッドのうえに身をおこし、息をあえがせ目を醒ました。
コーデリアは目を醒ました。
ボンネット帽を深くかぶり、ショールをかき寄せ外にでる。まだ日ものぼらぬ外にでる。
怒れる母にどなられついでに、朝めし前にヤギの乳を
あんな夢見のその後で、家畜の乳など触りたくもなかったが、言って許す母ではない。抗する余地なく身じたくをし、乳
マサチューセッツの春の朝。まだまだ寒いが、ショールをかぶればちょうどいい。
春をすぎて夏がくれば、朝でも暑くてたまらないが。
昨年も、
五年前の秋の日から。
五年前を思い出す前に、いまだ明けない空を見上げた。
夜闇は薄らいではいたが、東の空にまだ日は見えない。月も姿を見せていない。
星々だけがまたたいている。そして黒い丘の稜線。
この
耕すには土がかたく、羊の
数年前、フランス王の版図からきた人々が、しょぼりしょぼりと住み着いただけだ。プロテスタントの信仰をまもり、カトリック教徒に
フランスとの戦が長びくにつれて、プロテスタントの連帯感も、異民族への敵視にかわり、彼らはいつしか去っていった。
今ではただ、“
無人の黒い丘の影に、川のせせらぎが囁きかける。
北を流れる大きな川は、村を二つにわけている。川むこう、つまり北岸に人が住んだのが村のはじまり。
村の名は、母国にある故郷の名前をつけたとも、正しき人のみ救うという箱舟になぞらえたとも言われている。
土のやせた南側に人が住んだのは、二十年ともうすこし、コーデリアの歳とおなじだ。
北岸は、肥えた羊からとった糸や、それを編んだ織物で、ちょっとした町になっている。南岸は、小さな集落と、まわりに家が散らばるだけ。
その小さな集落は、前方に黒く眠りこんでいる。
その向こう西の夜空は高い丘に阻まれて、もう乙女座は見えなかった。小さな頃は、春の夜にのぼる乙女のすがたが大好きだった。
その上に大きく輝くのは、牛飼い座のアークトゥルス。
つい右手へと目をそむけた。けがれない春の乙女が、牛飼い男に踏みつけられ、土にまみれているように見えて。
右手の集落のはずれには、木がしげっているのが見える。村のすべての死者のむくろが、最後の審判の日まで眠る
下腹と胸がずきりと痛んだ。
その向こう。木立をこえて尖った塔がたっている。
教会の尖塔だ。南岸ではもっとも高い建物だ。
――明日あたりチーズができる。牧師さまへ持ってゆこう。
昨日の朝の父の言葉を思い出す。
あわててヤギの囲いへむかった。
家の裏手に作りつけられた、すき間だらけの木の囲い。まずしい草にも耐えるヤギを、四頭ばかり飼っている。みんな茶色か黒い色で、白い子羊にはほど遠い。
ヤギはみんな目覚めていた。
それを我慢し、黒い牝ヤギをつかまえる。
ヤギの体臭、ゆれる乳房、ぶるっとつきでた大きな乳首とその手ざわり、ほとばしる乳の気色のわるさに堪えながら、搾り桶を満たしてゆく。
食事に出して飲むほかに、このヤギ乳は、父がチーズをつくるのに使う。
乳をかきまぜ
牧師さまの顔を思い出す。夢のなかに出たまんまの、恐ろしく、つめたい顔を思い出す。
子供のころから
なんとか
夢の中から続いている忌まわしさをなんとか祓ってしまいたかった。
まわりを見回す。家の窓は閉まっている。
父は東側の窓辺で聖書をめくっているのだろうし、母は主への祈りの前に朝のしたくを一段落させるのにかかりきりだろう。
家の壁へと走り寄る。南西の角にあたる場所、地面から、灰色の岩がふたつ頭をだしている。小さい岩と大きい岩。頭をぶつけあうその下に、小さな
搾り桶を置く。岩の隙間に手をさし入れる。
暗い隙間をまさぐると、なめらかなものが手に入り込んだ。
手を抜き出してみるとそこには、小さな像がおさまっていた。
否。像と呼ぶには造形が
そもそも色がありえない。まっ黒な
あれは三年前だろうか。腹に悩みを抱えこんでいた真っ盛りの頃だった。
あの日もこんな風に朝からヤギの乳をしぼらされていた。夏場だったのであたりは明るく、そしてひどく暑かったが。
ヤギたちも暑かったのか、地べたにごろりと寝そべっていた。
ただあの黒い
その地面に、この石があった。なぜだろう。その黒い石が聖母さまにしか見えなかったのだ。近づくとそっとヤギは離れた。あわてて地面をほり返すと、
笑顔を浮かべているようにみえた。
見たこともない、とても深い笑顔だった。
これまでのどんな罪だろうと、腹に抱えているものさえ、赦してくれる笑顔だった。
母や父とは似ても似つかない、とてもやさしい表情があった。
よくよく見れば像ではない、ただの自然の石だったが。
それでも笑顔をむけてくれたこと、膝まづいて涙を流して泣いたことは、コーデリアの胸のなかから消えることはずっとなかった。
『
祈ることはしなかった。黒い
牧師さまの説教で、カトリックには、黒い
――かぁん。
するどい音が耳をついた。
教会の鐘が鳴ったのだ。おもわず石をとり落とした。
「コーディ! なにぐずぐずしてんだい! はやく戻ってきな」
お祈りに遅れると、父の機嫌も悪くなる。 『
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