The Unnamable in the Ark

武江成緒

序章 《首吊り人の丘 ~Hangman's Hill~ 》

 神経質な研究者がマサチューセッツの清教徒ピューリタン時代に身をふるわせるのも無理はない。表層の下にどのようなものがうごめいていたかはあまりに知られていない――いないが、おぞましくただれた傷口が腐った泡をきあげて、怪物じみたものをかすかにちらつかせることはあった。人々の押しつぶされた頭の中でたぎっていたもの、それを怖ろしくもあらわにする一筋の閃光が「魔女への恐怖」だが、それさえも些細ささいな一部にすぎないのだ。美しいものはなかった、自由もなかった――そのことは、建築や家族のなかに残っているものや、震える聖職者の毒々しい説教に見出すことができる。そしてびついた鉄の拘束衣のなかには、忌まわしいわめき声、堕落、そして魔性が潜んでいたのだ。

 ――H・P・ラヴクラフト『名状しがたいもの』




 赤かった。

 赤かった。

 あたり一面、赤かった。

 燃える夕日の光のなかで、道も、木立も、草むらも、丘のすべてが赤かった。


 赤くないのはただ一つ。

 丘のまんなか、てっぺんに、二本の脚で立っている。

 たそがれに踊る死神のように、影色の身をそびえさせて。

 吹きすさぶ秋風に、ひゅうひゅう口笛ひびかせて。

 真っ赤にそまった丘のうえ、首吊り台は立っていた。


 首吊り台の黒い枠。まるで四角い大きなあぎと

 風ふく声に呼びよせられて、あぎとの前にそろったように。

 赤い夕日に染められて、死神の指に引かれた獲物のように。

 誰もかれもが黙りこくっていた。まるで、まさに死人のように。

 首吊り台のうえ、後ろ手にかたく縛られて、汗を流しながら立ち尽くす男――死刑囚その人に、負けず劣らず静かだった。


 ぶぉう、と首吊り台をかすめて一きわ大きくうなった秋風。

 それにすがって続くかのように、声があがった。


 ――被告、■■■■のおかした行為は、他者の財産を侵害し、村の秩序を乱した。それに留まらぬものである。


 首吊り台の生け贄の罪をとがめるその声は、聞き取りにくいほどかすれていた。

 まるで、縄がかかっているのが、自分ののどであるかのように。


―― 被告は ―― 理性をまったく欠いた忌まわしい行為をはたらくことにより、父なる神が人類に与えたもうたその魂を冒瀆ぼうとくした。


 声は、男の名を二度と繰り返さなかった。

 否、繰り返し口にすることを、んだ。


――また、その行為によって、神の定めたもうた自然のことわりをはなはだしくけがし――おぞましい、疵痕きずあとをきざんだ。

――この行為はただの犯罪にとどまらぬ、神とこの世界に対する動かされざる罪であり、被告の魂が邪悪なものと結託していることは明白である。

――ゆえに、正義の名において被告に極刑を下し、裁きを神の御手にゆだねるものである。


 信仰を命綱として、異境の荒野を切り拓く、清廉なるニューイングランド植民地の社会にふさわしい断罪の言葉。

 純潔を楯、質実を剣として生きる清教徒ピューリタンの新天地にては、邪悪なるものはかくも厳しい裁きをうけるのが道理。被告を囲む誰もが信じていた。

 それでも、言葉のはげしさとは裏腹に、口の動きは勢いも、なめらかさも伴わなかった。

 おそれと嫌悪に、口がこわばっているかのように。


 宣言を終えた村の判事はふいに、悲鳴を抑えてとびのいた。

 縛られた男――死刑囚が、ぶるぶると体を震わせたのだ。大量の汗がしぶきのように飛び散ったのだ。


 季節は秋、蒸し暑い夏が過ぎ、厳しい冬へと傾いてゆくこの季節。

 恐怖と緊張のせいだけにしては多量の汗を、男は身からしたたらせていた。

 震え。汗。うつむいた顔は暗い影だが、その目がみえればさぞ虚ろだろう。

 酒毒に骨のずいまでも冒された者の症状だった。

 見るからに気味のわるい震えが、不意に止まったかと思うと。

 すべての震えがそこに噴きだしたかのように、頭が、くっ、と上に曲がった。

 死人の群れのようだった見物人が一斉にどよむ。

 あちこちから悲鳴がのぼる。人の倒れる音さえひびく。

 黒い影をふり払い、夕日の赤に染まった顔は、血みどろの死者の顔にも見えた。

 生気のうせた肌の色、理性の溶けた左の目。

 それにも増して人々を恐怖させたのは、ひときわ赤く照らされる右の目だった。

 引きつれた歪んだまぶた、ひしゃげて埋もれたような目玉、その瞳はきたなく濁り、おそらくは生まれてより光のないものと見て取れた。

 きずのある目。目をつぶすきず。その醜い見かけはまるで、大罪を負って裁かれる男に、天がおした烙印らくいんのようにも見えた。


 見物人らも、警吏けいりも判事も、処刑人さえ身をのけぞらせた。

 男の泡をふく口から、人の言葉がほとばしったのだ。


――ひっ、ひひっ、ひひひーッ。


――本日は皆様ご足労そくろう。こんな村じゅうの皆の衆が、このおれ様のためにお集まり、生まれて初めての果報かほうだぜ。


――ははひッ。ありがたいこった。判事さまも、牧師さまも、誰もがおれを地獄にちると、太鼓判をおしてくださる。


――まったくありがたいこった。天国が、この村の善男善女の行き先なら、そんなところへ行きたかぁないね。罪もけがれも、酒の臭いも縁のない村の衆がたむろする場なんざぁもううんざりよ。


――どうだい。皆の衆。ちっとはおいらを見習っちゃあどうだい。おれは酔いどれの鼻つまみ者、おまけに今から縛り首だが、あんたたちよりゃこの世を楽しんだつもりだぜ。


――そうさな。せっかくだ。この首吊りの種になった、あの事柄でも話してやろうか。


――まったくあいつは具合が良かった。純潔の面をしっかとかぶる皆の衆にはわからん話だろ。売女まがいの乞食女よりも、町で抱いた娼婦よりも、ずっとずっと具合が良かったさ。

――そりゃああんな事になるのも合点がいくってもんだろう。あぁ、まったく良かったよ。どんな人間の女よりも――。


 そこまでだった。

 口をふさぐように、処刑人が飛びかかり、男の首に縄をかけたのだ。

 がたん、と、台の外れる音がする。

 濁った、かすれた、どうしようもなく狂った悲鳴が、締まった喉から響きわたる。

 赤い丘、死刑囚の悲鳴のこだまがかすれて消えるまで。

 だれ一人として身じろぎもしなかった。




 

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